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2018年3月4日 礼拝 説教 マタイ5:38−42「恵により法的権利を超え」(録音音声あり)

 

2018年3月4日 マタイ5:38−42「恵により法的権利を超え」

序文)主イエス様が17節から48節までのところで、律法の成就者としてのご自分と、その救いを受け取って弟子とされた私たちクリスチャンに求められている人生のあり様について、倫理的な側面の実例を21節から48節まで教えてくださいました。今朝は「法的権利」についてです。主イエス様のおことばの前提に、私たちが一方的な神の恵みを受けたものとして、恵みに生きることができるとの確信を主が持っておられることがわかります。恵みにより信仰により救われた者として、今朝のおことばに、どのように応答できるでしょうか。

 

Ⅰ 38-39節 同害報復法を超える

「目には目で、歯には歯で。」とは出エジプト21:24-25「目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。」と記されている同害報復法を、主イエス様は引用されて、当時の社会にあった法的権利について、クリスチャンたちに道を示されました。実際に同害報復が、裁判において実施されたのではなく、たいていは賠償金を加害者が被害者に支払うと言う判決がほとんどだったようです。この法律は被害者が加害者に憎しみのあまりに過剰な報復をさせないための配慮のある規定だったのです。

個人的報復については、それを禁じる律法があります。「『彼が私にしたように、私も彼にしよう。私は彼の行いに応じて、仕返しをしよう。』と言ってはならない」(箴言24:29)、「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。主がそれを見て、御心を痛め、彼への怒りをやめられるといけないから」(箴言24:17-18)。

 

Ⅱ 主イエス様は、これらの同害報復に付いて、通常の態度を超えるようにと言っておられるのです。「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」(39-40節)と言われました。

1 「悪い者」とは一般的に悪をなす「個人」のことです。「悪魔」のことではありません。「手向かってはいけません。」とは原語では、「・・・に対して法的手段に訴える」という意味で用いられる言葉です。ですから、これら一連のおことばは、暴力によらずに、抵抗せよと言っているのではありません。全く抵抗するなと言っているのです。合法的手段があっても、抵抗しないようにと言っているのです。訴訟になる事例を取り上げているので、暴力に付いて云々しているのではないのです。誤解しないようにしましょう。

 

2 「右の頬を打つ」現在でも中東地域において「手の甲で打つのは、ありうる中で最大の侮辱と極度の虐待を表す。」そのようなものとして、ほほを打つならば、非常に重い罰金によって罰することもありえた。このような状況は暴力というよりは、侮辱と言えた。宗教的な迫害の一面として見ることも可能であった(注解者:エレミアス)。イエス様の十字架裁判の時に、冒涜の罪でイエスさまを訴え、「そうして、彼らはイエスの頭につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、」(マタイ26:67)と同じ語が使われている。明らかに侮辱を与えている。このお姿は、イザヤ50:6に「しもべ」が侮辱と冒涜を受け入れているとして描かれている。「打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、わたしの顔をかくさなかった。」このように受け入れることを、イエス様はご自分で歩まれ、また弟子たちに求めておられる。報復したり、律法に訴えたりしてはならない。

 

3 イエスの弟子たちは、下着を取ろうとする者には、さらに高価な上着をもおまけとしてやりなさい、と言われているのです。実際には、律法では、人道的な理由から、上着まで取ることは禁じられているのです。出エジプト22:26-27「もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするなら、日没までにそれを返さなければならない。なぜなら、それは彼のただ一つのおおい、彼の身につける着物であるから。彼は他に何を着て寝ることができよう。彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。」

ここでイエス様は訴訟を避けよと言っているのではなく、自分の権利や財産に関して無私であるようにと言っている。

 

Ⅲ  41-42節 教えの続き

1  41—42節「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。」も法的権利に関係しているのです。「強いるような者」とは、占領した国で、占領軍が一般市民を徴用する時の場合を言っている。ローマの兵隊が、イエス様の十字架をクレネのシモンに「無理やり背負わせた。」時と同じ言葉です。ローマ兵隊の特殊用語が使われているのです。荷物を運搬するときに、兵隊が民衆に強制的に運ばせ、「一ミリオン」すなわち、1マイル、約1478.5m 、1500mと日本語新改訳聖書の欄外注に書いてあります。3000m行くように。言われた倍を行って応じよ。

これらの自由で無私の態度は、財産にも及ぶといわれました。「求める者には与え、借りようとする者は断らない」は、ルカの福音書6:30の場合は、いつでもということを表す動詞の命令法現在時制を使っている。マタイは「一回限り」を意味する命令法不定過去時制を使っている。特にあまりにも貧しい、返済することさえできない状況によりある人々に、「求める者に与え、借りようとする者には断らないようにしなさい。」と語られた。

この節を字義通りに適用するならば、すぐに自滅、破産することになります。しかし、この原則は、自分の便宜よりも隣人の必要を優先させよということなのです。

「申命記15:7-11」

 

2 これらの原則は、社会倫理に適用しても、うまく行くという保証はない。ましてや、政治に適用すればうまく行くという保証は、さらにない。進んで自分個人の権利を主張せず、自分自身が侮辱され、付け入れられるのを許しても、原則の問題及び、他人の権利については、断固とした立場をとるというのは両立しうる。

実例がある。使徒の働き16:37「ところが、パウロは、警吏たちにこう言った。『彼らはローマ人である私たちを、取り調べもせずに公衆の前で鞭打ち、牢に入れてしまいました。それなのに今になって、ひそかに私たちを送り出そうとするのですか。とんでもない。彼ら自身で出向いて来て、私たちを連れ出すべきです。』」

使徒の働き22:25「彼らが鞭を当てるためにパウロを縛ったとき、パウロはそばに立っている百人隊長に言った。『ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むち打って良いのですか。』」

 

結び)主イエス様の教えにご自身が生きておられた模範は、弟子たちもならうものとなり、パウロも模範を残し、実践して行きました。私たちは、御国の民として

模範にならって聖霊の助けを受けつつ生きて行きましょう。公的権利は必要な天地の支配者である主の宣言をいただいた者として、無条件の愛と恵みにあずかり続けて応答して参りましょう。

 

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