コメントはまだありません

120812_002

 

2012年8月12日 使徒信条シリーズ3   創世記1章1-5

「天地の造り主を信ず」

序)使徒信条の学びをつづけます。最初に「私は信じる」次に「神を信じる」と学びました。今回は「天地の造り主を」についてです。聖書は世界が創造されたものであり、始めがあると主張しています。「始めに神が天と地を創造した。」と巻頭にあるとおりです。おおよそ人間が口にできる最大,最高のことばです。聖書の神が世界の創造者であるとの信仰は聖書の冒頭からです。永遠から存在しておられる神が、ご自分の外に向かってなされた最初のわざが、無よりの創造です。

Ⅰ 創造に関する聖書の証拠

創造についての聖書の証拠は、ただ聖書中の一部分にだけ、限られたところにだけ発見できるとかいうのではなく、聖書の全巻に見いだされます。しかもそれらは明瞭確実な言葉で書かれているので、疑わしいけれども創造があったことにしようというのではないのです。もちろん最初の創造の記事は創世記1章、2章にくわしく、歴史的事実を物語っています。他に創造における神様の全能について(イザヤ40:26.28 アモス4:13)、偉大かつ無限なものとして自然の上にある神様の尊厳を示す聖句(詩篇90:2.102:26-27.使徒17:24)があります。また、創造における神様の知恵をしめし(イザヤ40:12-14.エレミヤ10:12-16.ヨハネ1:3)、また神様の主権と目的の観点から創造を示す聖句(イザヤ43:7.ローマ1:25)もあります。創造に関する最も典型的で美しい聖句は、ネヘミヤ9:6「ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。」その他、主が宇宙の創造者である事実を強調する聖句(イザヤ42:5.45:18.コロサイ1:16.黙示録4:10-11.10:6)などがあります。

 

Ⅱ 創造の概念

創造とは、三位一体の神がご自分の栄光のあらわれるために、ある面は既存の材料を用いることなしに、すなわち無から創造された。これを即時的になされた直接創造といいます。他面では既存の材料を用いて世界と万物を造りだされた、これは漸進的(だんだんと)になされ間接創造といいます。しかも創造の行為は神が、他の何かに強制されてなさったのではなく、全く自由になさったのです。

創造は三位一体の神様がなさったと教えています。創世記1:1.イザヤ40:12.44:24「あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。」

この事実は、聖書の神様と偶像を区別します。エレミヤ10:11-12「主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。 あなたがたは、彼らにこう言え。「天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる。 主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。」と。

御子はコロサイ1:15-17「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」

御霊はヨブ33:4「神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える。」

創世記1:2「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」

神は、ご自分の主権的な自由な意志で世界を創造された。必然的に創造せざるを得なかったと言うのでは談じてないのです。世界を創造しなければ神様は神様になれなかったというのではない。何か欠け目があったので世界を創造して足りるようになったと言うのでもない。黙示録4:11「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

ただ、みこころのゆえなのです。

創造は神様の時間的な行為です。聖書は「初めに」といっていますが、何の初めかというと、時間との関係では、時間そのものの初めです。時間はすべての被造物の存在形式です。時間は創造以前にはありえなかったのです。世界は時間と共に創造されたのです。創造の以前は、単に永遠があるだけです。

 

Ⅲ 創造の目的

1 人間の幸福のために創造した。間違った説

神はご自分で充足しておられるので、いかなる被造物も必要としない。だから被造物を創造した目的な被造物自身のためにある。それは人類の最高の幸福にある。プラトン、フィロン、セネカ、カント、シュライエルマッハー、リッチェル等の哲学者、さらには、宗教改革時代のヒューマニストたち、18世紀の合理主義者たちが、そういっている。

しかし、神は創造者であり人間は被造物にすぎないのだから、人間が創造の究極的目的とはなりえない。神が人間のために存在するということになり、人間が神のために存在しているという視点が無視されている。人間は幸福のために神を大いに利用すればよいとの考えが、現代の宗教にも溢れているが、それはこの考えである。万物は果たして人間の幸福ために奉仕するようにと存在しているのだろうか?否である。

2 神の栄光をあらわすため

主イエス・キリスト様とその教会は、創造の真の目的を、神以外にではなく、神ご自身の中に見いだしている。神の本来的な卓越性が外にあふれ出てあらわれたと考えます。その結果、自然的な被造物も、道徳的な被造物も、創造者をほめたたえ、服従をささげることで栄光を帰するのです。

ですから、創造の目的は神の栄光をあらわすことです。更にそれに付随的に被造物の幸福と救い、並びに感謝と賞賛を、こころからの賛美をうけるということがともないます。これは聖書が示す真理である。創造の目的が神様以外の何物かであるなら、その物に神は依存することになります。それは間違いです。

結び)わたしたちは、創造者によって創造された被造物です。しかも創造者はわたしたちの幸福と救いに関心をもって、愛と恵を注いでくださっているのです。それでわたしたちの一生涯について、創造者であり、救い主である神様は無関心ではなく、深く関心をもって、永遠のいのちへと招きつづけてくださっているのです。感謝しましょう。

コメントを投稿