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2012年9月2日 礼拝

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2012年9月2日 ルカ12:13-21 「神の前に富む」

序文)主イエスは弟子たちに、自分たちに敵対する者たちに、どのように対処すべきかを教えておられた。ところが、その最中に群衆の中の男が「先生。私と遺産を分けるように,私の兄弟たちに話してください。」と言った。主と弟子たちの会話が中断されたのです。しかし、主はこの男の叫びを用いて、貪欲への警戒と,人間のいのちを支えているのは何か、富をどのように用いるべきかを教えられた。

Ⅰ 貪欲への警戒 13-15節

この男の人のイエス様への訴えの記事を読むと、当時の人々が,主イエス様のことをどのように考えていたのかがわかります。イエス様を裁判官、調停者と考えていた。この男は兄弟が不当にも相続財産を奪い取ろうとしていたので、公平に分けてくれるようにと調停してもらいたいと言ったのです。古代オリエントの諸宗教では、指導者たちが、民法や商法に関わる出来事まで裁く仕事をしており、イエス様の在世時代のユダヤ教ラビも、このようなことに関わっていました。

ところで、主イエス様はこの訴えをきっぱりと拒否しておられます。その理由として考えられる事は,わたしはこのような種類の争いを解決する使命をもってきたのではない。神は、神のみこころである義の原則が,人々によって用いられ,判断されて、自分たちで政治上、職業上、家庭上の事柄を処理するようにされた。其のための使命をもった人々を起こしておられる。裁判人、調停者が専門家として立てられているのだから、その人々に処理をゆだねよ。たしかに、救い主(メシヤ)は地上の王たちのような仕方で肉的な統治や、贖いをするためにきたのではない。キリストの王国は霊的なものである。主イエスを付けねらっているパリサイ人たちが、主イエスがローマの統治を変えて帝国を倒そうとしていると、こじつけることは容易である。また、主の教会の統治とこの世の政治的統治の間にちがいがある。主は、みことばによって、神のみこころを宣言し、人々の思いと志を切り裂き、心を刺し通して,父なる神へと人々を引き帰らせるために、この世に来られたのです。確かに、主は遺産を分ける裁判官ではなかったのです。さらに、この男の人は,自分が遺産をもらうためにキリストの権威を利用しようとしました。主イエス様が貪欲への警戒を、ここで、教えられたのは、この男の人のよこしまな思いに気づかれたからでしょう。この人の心は土地と金の事で占められていたと察せられるのです。それで、主は、さらに、突っ込んで「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜならいくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」と教えられました。

貪欲は聖書では、ひどい罪の一つに教えられ、それは偶像崇拝と呼ばれています。偶像礼拝とは、まことの神の代わりに偽りの神々を礼拝し、あるいわ、人や物を神の位置に据えることであります。

Ⅱ 例証 16-20節 貪欲に対して警戒しなさい。なぜなら「人のいのちは財産にあるのではない。」この真理は、当時の人々の考え方に反するものであった。多くの物を持てば持つほど「いのち」が保証される。安心な日々がおくれるとパリサイ人は考えていた。主イエス様のたとえ話に登場する金持ちは、その考え方に従って生きて来た典型として話されている。持ち物に満ち,多くの金を蓄え、畑からのも乗りが豊作なので取り入れをしようとしている。古い倉を壊して大拡張をしている。何のためか、19節「たましいよ。これから先、何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して食べて飲んで楽しめ。」と言った。安心せよ。何年分も食料がある。いのちは安全だ。生活は安定している。楽しみだ。

しかし、神は言われる。「愚か者。おまえのたましいは、今夜、おまえから取り去られる。そうしたら、お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。」

神の位置に物をおいて、物に自分のいのちを保証させようというのは、まことの神を排除した人生である。しかしそれによって真の生ける審判者であられる神がいなくなられるわけではない。真の神は、すべての人間の歩みに最後のことばを語るために介入される。その権威を創造主として、本来お持ちになっている。世の中の人たちが神を除外した人生を大成功裏におくっている。金持ちをどのように評価しようとも、主イエス様の目からみると、その人のいのちの扱い方の、根本姿勢は間違っていた。

「おろか」であった。

人のいのちは持ち物によらない。いのちを与え、いのちを取られる権威がある「神によっている」ことに気がつかなかった。神は彼のいのちを今夜のうちにも取り去られる方である。彼は長年分の食料で安全と考えていた。将来は順調,老後も大丈夫満足。神は、今夜のうちにだ。死は突然にやってくる。今日元気で生きている。夜のうちに死はやってくる。朝はむくろになっている。だから、神の前に、神によって、いのちを支えられることが大切なのです。今日を生かしてくださっているのは、いのちの主イエスによるのです。その方とともに歩む。明日もまた、永遠も神のいのちに支えられて歩む。この地上のからだが壊れても,永遠の神による家、壊れない朽ちないいのちをいただいて歩む。この点が、金持ちの人生で欠落していた。

財産についても、彼は思い違いをしていた。ギリシャ語から直訳すると17-18節は「私はどうしよう。私は私の作物を蓄えておく場所がない。私はこうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物、私の財産はみなそこにしまっておこう。」となります。私のもの、私は、という主張はある程度まで正しい。しかし本人が死んだら、それは誰のものになるのか。それらは彼の生きている間,一時的に管理を任せられたにすぎない。物は神によって創造された。全被造物は神に所有権がある。私のいのちも、私の才能も,私を取り巻く全環境も、すべて、神に所有権がある。人は託されているにすぎない。だからヤコブ1:17[すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には、移り変わりや、移り行く影はありません。]と書かれている。すべてのものは、神から一時的に委託されているにすぎない。

「第一サムエル2:6-8 」

いのちも物も主のおこころによって支配され、届けられ、持ち去られる。だから人は、人生において一切は神のご支配のもとにあり、託されたものとして自分の分をもって、神と人に使えるように用いなければならない。

 

Ⅲ 21節 神の前に富む

「自分のために蓄えても、神の前に富まない者はこのとおりです。」託された富は自分の為に蓄えるのではなく、神の前に富むために用いなければならない。永遠の事柄に投資せよ。この世の富や、この世でのいのち、自分存在そのものを神のために用いるという原則を認めるようにしよう。神のために用いる事は,他にあたえることをさします。

[第二コリント8:9]主イエス様は、わたしたちのいのちの贖いの代価として自分自身を用いてくださった。キリストはわたしたちのために貧しくなられた。しかしその結果は「神は、キリストの足の下に一切のものを従わせ   」エペソ1:12-23

キリストは神の前に富まれた。満ち満ちたお方として、そのみからだである教会に満ちて,教会をも神の前に富むものとしてくださっている。

クリスチャンも、この主イエス様にならって、自分に神から託されている人生を自分のためにのみ用いるのではなくて、神のために他の人のために用いることにより、さらに天に宝を積む者となる。貪欲から解放される。

結び) 第一テモテ6:17-19

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