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2009.11.15 使徒の働き13:42~52 [恵みの栄光をたたえる]

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2009.11.15 使徒の働き13:42~52 [恵みの栄光をたたえる]

序文)パウロが第一次伝道旅行において行った先々について、[使徒の働き]から学びが続いております。先回はピシデアのアンテオケの会堂での伝道説教についてでした。今朝はその説教への聴衆の反応についてみましょう。その上で、神が私たちに与えてくださった信仰の恵みを覚え、その行き着くべきゴールに用意されている栄光を賛美したいと存じます。

 

Ⅰ 神のことばがもたらす聴衆の反応

 42~43節に一つの反応が載せられています。パウロの説教に深く心を動かされ、次の安息日にも話してくれるようにと頼んだ人々がいました。多くの群衆はパウロの語る新しいメッセージについて、もっと聴く必要があると思ったのでした。同じ主題で話を続けてもらいたい。

 それだけではなく、多くのユダヤ人と、神を敬う異邦人改宗者たちが、パウロとバルナバについて行き、今、話されたばかりの主イエスの福音を受け入れる気になっている事を表したのです。パウロは彼らに更によく説明し話し合いました。

 その結果「いつまでも福音の恵みに留まっている」ようにと勧めました。彼らが福音を信じ受け入れたからでした。彼らが主イエス・キリストに結びつき、そのいのちの恵みに入れられたので、そのうちに留まり続けるように勧めたのです。

 この勧め、励ましは、福音を信じた者たちに、宣教者たちがする最初

の大切な勧めとなっています。シリヤのアンテオケでも信じた者たちに「主に留まっているように」と勧めがなされました。

 福音のめぐみに留まるということは、それだけ速やかに強調されなければならない勧めなのです。なぜならば、主イエスの福音からはなれ去る者が多くいるからです。パウロはガラテヤの教会の信徒に「私は、キリストの恵みをもって、あなたがたを召してくださったその方を、あなた方がそんなにも急に見捨てて、他の福音に移って行くのを驚いています。」ガラテヤ1:6と言って、主イエス・キリストの福音から離れてゆくことの誘惑が現実にある事を示しています。

 「いつまでも留まる」ための神の配慮は、充分にあります。それは主イエスを頭とする教会においてです。主イエスを信じる者たちが起こされると、その群れたちをみからだである教会として、深くいのちの結びつきのうちに保ち、成長と、恵みを更に豊かに分かち合う場とするために、信仰の喜びと聖霊に満たされます。それは信じた一人ひとりに対してばかりでなく、からだとしての教会にたいしても同じなのです。それで、初めの救う恵みばかりではなく、最後まで信仰を全うするための恵みも用意してくださっているのです。聖霊によって、主イエスに留まり続ける者に供給しつづけられるのです。

 それは「神のことばを聞きつづける」ことにより、「主の言葉を賛美する」ことにより、増し加わるのです。さらに、教会が組織たてられ、順次、欠けることなく、たやすことなく、洗礼や聖晩餐式を執行できるようになると、ますますその場に臨在してくださる主イエスは、それにあづかる信仰者たちに、聖霊によって礼典の恵みを加えて養ってくださるのです。

 祈りの恵みは、祈り続ける者に豊かに受け止められます。共に祈りの場におられる主イエスを実感し、聞いてくださる主のめぐみと励ましを知り、また、共に忍耐してくださる主イエスを仰ぎ、共にうめいてくださる聖霊をはっきりと覚えるようになります。

 教会は、そこにあつめられた人間の集団でありますから、恵みの手段を執行してゆく中で、さまざまな、反応があることは避けられませんが、忘れはならないことは、そこは、かしらである主イエスの臨在しておられる所であるということです。教会生活はこの現実に臨在しておられる主にあって営まれ、推進してゆくのです。

 恵みに留まっていない。という事はどういう事かといえば、信仰を途中で破棄してしまうことです。救い主イエスの前で、わたしたちが歩み、生きているという認識が欠けてくることが引き金となっているのです。キリストが教会に現実におられるのに、キリスト者がその場からいなくなるということです。それは一人一人にキリストがみことばを通して、礼典において、また、祈りによって、親しく臨み、語りかけてくださるという経験がなく、その自覚もなかったから、起こるといえます。

 「ふたりでも、三人でも、わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるからです。」マタイ18:20.という主イエス・キリストの約束は、空手形ではなく、真実な約束です。ですから、信じるものたちの集まりには、二三人であっても、そこに主はおられるのです。教会生活は、この事実と自分を具体的に結びつけることによって恵みに留まること、さらに、いうならば、恵みに恵みを増し加えていただく歩みが続けられるのです。

 

 Ⅱ パウロの説教への第二の反応

最初のパウロの説教のときには、あからさまに反対しなかった者達の中で、次ぎの安息日にほとんど町中の人が、神の言葉を聞きに集まってきたのを見てパウロたちを妬んで、話す言葉に逆らい、口汚くののしった者たちが起こりました。ユダヤ人たちであると断っています。

集まってきた大多数の者が、異邦人であったことにこのユダヤ人たちは特有の偏見と片意地さを示し、自分たちが折角、彼らを「神を敬う者」に変え、ひいては律法を守ることよってユダヤ人並みの信仰に導き入れようとしていたのに、パウロがやってきて、いとも簡単に、主イエス・キリストの十字架と復活の信仰を解き明かし、信じるだけで救われます、などと説教し、それが一週間で口から口へと伝わり、瞬く間に会堂一杯に溢れるぐらいに集まって、しかも、次々と信仰に入っているのを見る事は、到底、がまんならないことでした。

「ねたみ」この古くて新しい罪の思いは、普段、自分たちの仲間うちでは何でもないようなことが、突然異質な変化と経験に触発されて、憤然とわき起こってくるのです。

本来ならば、ユダヤ人たちは初めにメシアである主イエス・キリストを受け入れ、救いの恵みに与り、それを更に全世界の異邦人に伝える責任と栄誉に浴していたのです。福音が広がる事をねたむどころか、率先して伝え、救われる者が増え広がる事を喜ぶべき存在なのです。

それなのに、彼らは、彼らに語られた福音を拒み、結局自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者ときめたのです。彼ら自身がそう決めたのです。そればかりでなく、彼らは「神を敬う貴婦人たちや、町の有力者達を煽動して、パウロとバルナバを迫害させ、二人をその地方からおいだした」福音を聴く事は自分自身の永遠のいのちを決する重大な出来事なのです。それなのに、彼らは、あまつさえ迫害することにより、永遠のいのちから最も遠くにはなれたのです。

自分たちの気に入らない主イエスのメッセージを語る者、その振る舞いと、みことばからするはっきりとした宣言を語る者は。消してしまえというわけです。その根本にあるねたみという肉の思いは、罪の思いです。十字架につけて殺してしまわなければならない思いです。

教会と福音とそれを信じる者たちと、それを伝える伝道者、牧師たちを悩まし、語るところに反対し、口汚くののしる者達は、今も同様の手口で迫害してきます。若い伝道者たちが、戦いの場で、このようにして生まれつきのままの肉の思いにかられた、さまざまな言葉と振る舞いによって痛めつけられることが多いのです。

しかし、それによって彼らは、自分自身が永遠のいのちにふさわしくない者である事を決定しているのです。このような者達を、何で恐れることがありましょうか。「私たちは、これから異邦人のほうへ向かいます」福音を聞いてくれる人々に伝えつづけましょう。とパウロは宣言しました。

あれこれの反応の結果、「永遠にいのちにさだめられていた人たちは、みな、信仰に入った」のです。

神の選びの教えが明白に書かれています。しかしこのことが、人々が福音を聞き、信じ受け入れ、喜び、賛美した、という事の後に書いてあること、これが大切です。永遠の選びの計画は、具体的に私たちが、福音を聞き信じ受け入れ、喜び、感謝することによって成就するのです。

私たちが信じなくても、選ばれているなら救われるというのは、間違っています。福音に敵対して「自分自身を永遠の命にふさわしくない者と決めた」のは彼らなのです。ふさわしいと決めるのは心を開いて信じた、あなたなのです。これは信仰生活の最後のゴールまで走り通し、恵みに留まり続け、その栄光に与るようにと進むものが、聖霊により与えられる確信なのです。永遠のいのちに定められているものは、みな、信仰に入るだけではなく、神のめぐみに留まっているのです。

結び)主イエス様の救いの恵みに内にあって、みことばを聞き恵みのゴールに向かって栄光に与る希望に溢れて、今週の歩みにおくり出されましょう。

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