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2009.8.9 使徒の働き10:34~43節 「この方こそ救い主」

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2009.8.9 使徒の働き10:34~43節 「この方こそ救い主」

序文)ペテロが異邦人コルネリオとそこにいた人々にした説教は、救い主イエス・キリストを伝えるときに紹介する主要点をすべて含んでいます。それらはわたしたちが知らなければならないことですから、今朝,順番を追って学びましょう。それによって救い主をあかしするときの手順を理解しておきましょう。

Ⅰ 神は人を偏り見たりなさらない。

ここは「外見でみる。」の意味です。外部の状態、周りの状況で,人の好意を得たり,失ったりすること。それは人の世の常であり、私たちは人が、どのように自分を見ているかを必要以上に気にしています。富、身分、名誉、権威などは、人に信用と好意を得させ,貧困、恥辱、不名誉などは軽蔑をもたらす。ここの文脈では国籍と関係があります。ユダヤ国籍か,そうでないかの差別です。神は異邦人が正義を行い,神を恐れかしこむ生活をするのを認めておられるのであって、外見で妨げたり評価を低くしたりしされるお方では決してない。神はすべての人々に「ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことを」求めておられる。(ミカ6:8)

神は恵もうと思われるものを恵まれるのであって、旧約聖書の時代には人類の代表として,先ず、ユダヤ人を選ばれましたが、救い主イエス様の来臨以降の時代は、すべての国民に恵みを広げておられることを示され、それが本来のお心であった事を明らかにしておられました。

 

Ⅱ すべての人の主イエス・キリスト

イエス・キリストはすべての人の主です。この方によって神は平和をのべつたえられました。平和とは、ここではユダヤ人と異邦人の間の平和であり、ひいてはそのことを可能にする、神とすべての人との間の和解–仲直りをさします。キリストはこのような平和が存在すること伝えられました。それはご自分の身をもって勝ち取られた平和だったのです。

エペソ2:11~18

神との平和が、キリストによって回復されるために、創り主である神に対して、罪を犯して反逆し,心において常に敵対している人間、その存在の最も奥深いところで不安を常に抱え、死の恐怖にさいなまれ、自己中心のもたらす災いを刈り取りつつ、人生を右往左往している者たちの、罪を赦し、そうするしかできない状態の人間を解放して、あらゆる束縛から自由を与え、いのちの再生を与えるために、救い主としてイエス/キリストは十字架の身代わりの死を遂げてくださった。それは神とわたしたちを和解させるための十字架でありました。敵意は十字架の上に釘つけられて、死に、葬られてしまいました。ユダヤ人も異邦人であるわたしたちも、このキリストの勝ち取ってくださった平和によって、神に立ち返る道が開かれ、和解をうけることができます。

それまでは、人間同士で、また、神にたいして「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きとわるだくみとでいっぱいになった者、陰口をいうもの、そしる者、神を憎むもの、人を人と思わないもの、わきまえのないもの、約束を破るもの、情け知らずの者、慈愛のない者、」でした。そのような者として放置されていました。自分がしたいようにさせられていました。

しかし、そのようなわたしたちが、神との間に和解をえたとき、救い主イエスは人間同士の敵意や、隔ての壁を打ち砕いてくださいました。それは、それまでいがみ合い、和解不可能とおもわれるような関係に平和をもたらしました。イスラエルの子孫にみことばがもたらさされ、このイエスが、すべての人の主であることが実際に示され受け入れられました。

Ⅲ さらに、その平和のために、イエス・キリストがなさったことは、どのようなことであったか。

主は「地上をめぐり歩いて良いわざをし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」「罪の許しを得させるため」に働かれました。人間の地味に乱れた悲惨な生活の中に、ともに歩み具体的に癒し、許し、よみがえらせ、平安をあたえられました。それぞれ主イエスに出会った人々は、信仰を与えられて自分を生まれ変わらせていただきました。

今でも、主イエス・キリストが出会ってくださり、信仰に導き入れてくださいます。それぞれの敵意を和解に、憎しみを愛に、変えてくださることができるのです。

主イエスは、良いわざをなさり、出会った人々を救いに導かれました。神の国に入れられました。しかし、ご自身は「人々によって木にかけられ、殺されました。」それはこのお方が罪深いからでは決して無く、人々がねたみにかられて殺したのです。主イエスが殺された原因はまさに人間の罪にあったのです。聖書の中に、神はこのへんの事情を説明しておられます。それは「わたしたちも含めて人間の罪のために、身代わりとなって木にかけられた。」のだと。ちょうど十字架にかけられる予定のバラバという強盗の代わりになられたように。身代わりによって、罪にたいする神の裁きを受けてくださり、支払ってくださった。それは神の正しさを満足させた。いわば神は裁きをご自分のみ子によって、ご自分の身にくだされました。それで、主イエスは十字架に死んだばかりでなく、よみがえられた。ご自身としては死ぬべき理由はなかったのだから、父なる神は、彼をよみがえらせられました。裁きがいのちに変わるという大変化が、主イエス・キリストにおいて可能となりました。

主は、事実「死者の中からよみがえられた。」弟子達はこの主とともに、主がよみがえられたのちに「食事をしました。」それは本当に平和を与えました。この世があたえることができない平和です。人間存在の根本にふれるいのちの平安です。永遠に有効な平和です。

そればかりか、このお方は生きている者と死んだ者との裁き主として、神によって定められています。被造世界にたいして、とくに人間存在にたいして、その生涯を問いかけて、神が存在させてくださった目的にかなっているかどうか、が問われている。その裁きを主イエスがなさるのです。身代わりの死を受け入れて信じて感謝する者かどうかが問われるのです。

死に打ち勝つ力、裁きを実行する力、悪魔に捕らえられている者達を解放する力、罪しか犯さないものたちを神の子として、そのみ心を行うことができる者に変える力、そのようなお方として、主イエスは王様であることを示されるのです。

結び)主イエスの救いは、ここに充分示されています。信じる者は永遠のいのちが約束されその恵みに豊かにあずかることができるのです。それはこのお方がご自身で約束してくださったのです。

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