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2010年1月10日 使徒の働き 15章1~21 「エルサレム教会会議」

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2010年1月10日 使徒の働き 15章1~21

聖書の話  「エルサレム教会会議」

序文)主イエス・キリストが救い主であり、その救いは、ただ信じ受け取る者に与えられるという、パウロやバルナバたちのメッセージは、伝道した先々の異邦人・ギリシャ社会にて大勢の者たちに受け入れられました。その結果は、エルサレム教会の中のユダヤ教の影響下にあったユダヤ主義クリスチャンたちによって大問題となりました。彼らはクリスチャンといえども旧約以来の契約のしるしである割礼を受けなければ救われないと主張していたからでした。このことを巡って、教会はエルサレム会議、または使徒会議を開催して、問題の解決と理解をはかりました。

初代教会の歴史において、この出来事は重大な転換点となりました。今日の学びは、現代の教会会議の原型が、ここに記されているという点でも大切な箇所ですが、何よりも福音についての教理上の危機を乗り越えた全教会による長老会議・大会会議であることを理解して、私たちが今、イエス様から得ている恵みを再確認したいと考えます。

 

Ⅰ 問題の所在

エルサレム教会のユダヤ主義者とは、異邦人がユダヤ人にならなければ救われることはできないと思っていた、ユダヤ人キリスト教徒に適用されたことばであります。キリスト教+ユダヤ教でないと救われないという主張を持っていました。もともとヨッパでのペテロは、神さまからその間違いを示されるまでは同じように考えていたのです。しかし、そのことは主イエス様の「ユダヤ人の檻、以外にもわたしの羊がいる」といわれた考えとは違っていたのです。すべての国民を弟子とするようにと「大宣教命令」を主が行われたときに、すべての国民が割礼を受けて、モーセの律法を守ってユダヤ人とならなければならない、とはおっしゃらなかったのです。ただし最初の弟子たちは、ユダヤ人でキリスト教徒でありました。それで、異邦人の中からキリスト教徒が出現したとき、彼らのなかのあるものたちは、ユダヤ的な考え方を捨てることがなかなか難しかったのです。ある者たちはキリスト教徒というよりもむしろパリサイ人でありました。

第一次伝道旅行を契機として、人種・信条・風俗による偏見がキリスト教の中に侵入してきて。それからの数世紀に渡り、教会分裂の原因となったほどでした。

それはキリスト教会の中に生まれかわったパリサイ主義の精神によっているのでした。パリサイ主義はイエス・キリストを十字架につけ殺害しましたが、それにもかかわらずキリスト教を撲滅することができませんでした。それはキリストが復活されたという消しがたい歴史の事実の力ゆえでした。彼らは福音を外部から破壊することを失敗しました。今回の攻撃はキリスト教を内部から攻撃して、信仰の本質を破壊しようとする工作だったのです。それは宗教がもっている霊的な意義を破壊しようとする者の挑戦でした。

使徒パウロは、この問題についてユダヤ主義者たちの主張を、彼ら自身よりももっとよく理解していました。なぜならパウロは元々パリサイ人の中のパリサイ人だったのですから。彼こそこのような説の代弁者であったのですから、一番問題点を理解できました。パウロは、今は、キリストの使徒でした。かれはユダヤ主義者を相手のキリストの福音が持つ霊的ないのちを守るために闘いました。

エルサレムから来た人々が「モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、あなた方は救われない」と教えたときに、それまで行われてきたパウロや バルナバの福音宣教はすべて無駄であるということになりました。もう一度伝道旅行に行った、先々で信仰に入った人々に、割礼も授けなければならないことになるのです。パウロたちは主イエスの福音をそのような誤解のままに放置しておくことはできなかった。また、ペテロやヤコブたちが、そのような考えであり続けているとは考えられないことであった。早い段階で、会悦シナイと恵みの福音への誤解をそのままにしておくことはできなかった。パウロは信仰の本質が破壊されても節操を売り渡してまで、回りの者と仲良く平和であろうとする者ではなかった。イエス・キリストの十字架と復活により勝ち取られた救いのいのちをだめにしても、回りと仲良くとうわけにはいかなかったのです。日本人にはそのようなことがおおいのですが。キリストを愛することの深さの故に、時を移さずエルサレム教会に陳情に出かけることにしました。

 

Ⅱ エルサレム会議の招集と開催

さて、今日ユダヤ化去れた福音ではなく霊的な神の国の付近を、私たちに届けられていることを感謝しなければなりません。その問題解決の会議について、学びを続けましょう。

問題はエルサレム教会から来たユダヤ主義者が引き起こしました。それで、アンテオケ教会から、エルサレム教会に代表が来て、使徒たち、長老たちによる会議が主集されました。パウロ以外の12使徒たちはエルサレム教会の会員でした。ユダヤ人の大教会と異邦人の大教会が集まって、異邦人の信仰野路優について、それぞれに対等の立場で会議をひらきました。 総会ではパウロたちは彼らとともに神がおられて成し遂げられたすべてのことを報告しました。ペテロたちがその報告を神のご事業として承認したことは7節からのことばによって十分伺いしることができます。

しかしユダヤ主義者が立ち上がって弁じました。「異邦人も割礼を受けさせ、またモーセの律法を守ることを命じるべきである。」

カギは一時休憩となり、再開されました。5節と6節の愛大に休憩が入ったと考えられます。聖書注解者のある人は、この恭敬の間にガラテヤ人への手紙にある私的な会合がパウロやペテロたちとの間にあって、パウロが十分に誤解されることなく自分の見解を説明したと論じています。この場合エルサレム会議開催を要請したアンテオケ教会の事情聴取に当たるのかもしれない。また実質的な協議がいわば専門委員会のような形で行われたかもしれません。

さて会議再開後、ユダヤ主義者たちの発言は十分できたので、激しい論争があったと書きとめられています。公開討論の希望がかなえられ、ユダヤ主義者たちは満足しました。その後でペテロとパウロとヤコブの発言がありました。

ペテロの発言 7〜11節 異邦人コルネリオに聖霊が降られた事実を語ります。その働きはペテロによって行われました。ユダヤ人クリスチャンたちが尊敬しているペテロです。割礼を受けたのではなく、ペテロから福音のことばを聞いて信じたのです。神はコルネリオの心を信仰によって清めてくださいました。割礼による肉の汚れを清めることはなく、神が聖霊により清められたのです。神がはかられた事実がここにあります。「私たちも先祖も負い切れなかったくびき」を負わせてよのか?わたしたちは主イエスの恵みによって救われたのです。あの人たちもそうです。割礼の有無や律法を守って救われるのではありません。恵みによってです。ペテロの発言は深い感銘を議場のいる人々に与えました。誰も、これに対して反論するものはいませんでした。

パウロとバルナバの発言 これは異邦人伝道報告です。すでに語ったことをさらに伝えるkとによって議員たちの精神を強めるようにしました。

Ⅲ 決議

ヤコブ の発言 実はヤコブはこの会議の議長でした。エルサレム教会の指導的な立場の長老で、ユダヤ的な人物と皆が考えていたのでした。しかも尊敬されていました。彼は聖書から預言されていたことを伝えました。これはユダヤ人に特有なやり方でした。それによりペテロの説明と解釈が正しいことを論証しました。そして直ちにパウロとバルナバ の立場に立った。

彼は自分の判断を用意していました。19節は「それでわたしは判決する」ということばです。彼の提案は修正なしで採択されました。議決事項は、公式使節と通達文書の形で地方教会に伝達をしました。

提案は イ 神に立ち返る異邦人を悩ましてはなりません。信仰以外に何も要求しません。モーセの律法をまもることもです。

ロ 偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物をと血を避けるように。偶像に供えた物のお下がりを食べるのをやめよう。絞め殺した物は旧約聖書が、獣の血をしぼりださずに殺した肉は食べてはいけないと禁じていた。レビ貴17:10.血–旧約聖書で禁じられていた。血のままで動物を食べることを禁じていた。不品行は性的な不道徳を避けよ。これらは21節に理由があって、異邦人kるいすちゃんの回りには安息日ごとにユダヤ教の会堂で律法が朗読されていて、その人たちのつまずきにならないように、あからさまに目立つこれら4つの項目は、異邦人クリスチャンたちも気をつけましょう。救いに必要かというとそうではありません。しかし、世間の人のつまずきになるか否かを考えると、これら心して避けるべきである。

キリストの救う恵みが、多くの人々に与えられるために、信仰に入りにくくするようなつまずきをおかないように行状を慎みましょう。というのです。

結び)異邦人クリスチャンはユダヤ人にならなくてもよい。ただ主イエス・キリストの恵みによってすくわれるのです。それ以外は、先に救われた者として恵みがさらに他に人々に及ぶために、つまずきとなるような行状は避けるべきで、つつしみましょう。自由は与えられています。しかし、その自由が他の者が福音を信じることを妨げてはならないのです。

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