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2010年7月4日 使徒の働き20:17〜27 「行程を走り尽くし」

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2010年7月4日 使徒の働き20:17〜27  招詞

「行程を走り尽くし」

序文)使徒パウロがエペソの教会に仕えた信仰姿勢と実践を学び続けてきました。それはとりもなおさず、教会のかしらである主イエス・キリスト様に仕える信仰姿勢と実践でありました。今朝は、エペソの長老たちとの決別説教と、エペソでの働きの回想に目を止めて、しもべとしての奉仕姿勢の一つの模範をまなびましょう。私たちは、5月30日に教会設立式をおこない第一種地区教会をスタートさせていただきました。神は、長老たちをこの教会に立て、信徒一同もまた、こころざしを新たに歩みを開始したところです。今朝の内容は、そのような私たちにジャストヒットの箇所です。パウロからの説教を心して聴きましょう。

Ⅰ エペソの長老たちへ決別説教

まず、パウロがミレトの港でおこなった、決別説教を見ましょう。パウロの説教で、長老たち、クリスチャン対象におこなわれ、それが記録されている唯一の説教です。教会が成立し発展してゆく過程において、神は教会ごとに長老たちを立てられました。牧師と言われる存在で呼ばれているのではなく、明らかに長老たちです。いわばキリストのからだの指導、監督、牧会という職務をゆだねられたものたちであります。のちになって長老たちの中から全時間を長老職にささげるように、神が召されて牧師という存在が初代教会に起こされました。この時、エペソの教会は複数の長老たちで治められていたのです。

最初の教会は、すべてのことが始めてでありますから、今日のように、教会がどのようなところであるか、どのように治めればよいか、どのような仕組みであるか、など手探りで聖霊の導きと教えを、身をもってしめす、12使徒たちの模範しかありませんでした。その使徒たちは、みな、彼らを訓練された主イエス・キリストに見習って、神の民を指導したのでした。それでパウロもまた、キリストのからだをどのように治めればよいかの模範を身を以て示し、仕える者の働きかたがどのようでなければならないかを教えたのです。

Ⅱ 17〜27節

1 18〜21節 パウロはエペソでの働きを回顧している。パウロがどのようにエペソで過ごしてきたか、「あなたがたはご存知です」「19節」謙遜と涙と試練の中で、主に仕えました。」教会に仕える事は主に仕えることです。コロサイの教会への手紙の中で同じ事をパウロは言っています。「ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロがそれに仕える者となったのです。ですから、私は、あなた方のために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは教会のことです。私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです」(コロサイ1:23〜25)。パウロに取って自分を召された主に仕える事がすべてであって、それがエペソであれ、コリントであれ、コロサイでもおなじなのです。主に仕え、しもべとして、主のみ心を行い、主をお喜ばせすることがすべての動機なのです。

パウロはこのような生き方を、主ご自信から学んだのです。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のために、あがないとして、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10:45)パウロは自分が仕えている主イエス様が、このように歩まれたのですから、そのいのちによってあがなわれ、永遠のいのちのうちに入れられ、主のものとなったわたしたちが、どのように仕えなければならないかは、判然としているのです。

さらに数々の試練の中で主に仕えるにおいて「益になることは、少しもためらわず、あなた方に知らせました。人々の前でも家々でも、あなたがたを教え、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神にたいする悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです」(20〜21節)。僕としてのパウロの特徴は、その率直さでした。少しもためらわず益にな

ることはあらゆるチャンスに教え続け、主イエスへの信仰をはっきりと主張しました。率直さは宣教の仕方にだけあらわれたのではありません。 「あなた方をいっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。」(第一コリント2:3)と言っております。パウロの全生活態度は主のしもべとして、どこを切り取っても、率直であった。あるがままに仕え続けたのです。

また偽りのない謙遜・謙虚さがありました。「謙遜の限りをつくし」率直さが通じるためには、謙虚さがなければなりません。主イエス様の徹底した謙遜は、「神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てる事はできないとは考えないで、自分を無にして、仕えるものの姿をとり、人間とおなじようになられた」(ピリピ2:6〜7)。と言われているのです。仕える者の姿は謙遜にあります。自分のイメージを意識する指導者に人々がついて行く場合、その指導者があがめられ、高座がすえられます。そしてしまいには、教会のかしらの地位、それは主イエス・キリストのものですが、それを自分のものとしてしまうのです。しもべのこころを持った指導者に従ってゆくなら、主があがめられるのです。主のご性質、主の力、主の働き、主の御名、主のことばがたたえられ、すべては主の栄光のためにとなるのです。

第三に、「絶対的な誠実さです。涙を持って仕えた、という愛です。」愛に裏付けられた清廉潔白さです。ユダヤ人は陰謀によりパウロを苦しめ続けました。清廉潔白の正反対です。しかしパウロは教会にたいして涙をもって、愛を込めて、清廉潔白に仕えました。本物の主のしもべは、美しい清々しい簡素さを身につけています。腹に一物なく、偽善も、二心もない。政治的駆け引きも、美辞麗句もない。愛と誠実さと清廉潔白が、わたしたちの生き方となるなら、他の人を巧みに操るということもありません。混ざり物のない真実の愛の涙に触れると、いかなる替え玉にも興ざめするようになります。

 

2 22〜27節 現在の心境

エペソでもそうでしたが、数々の試練の中で、主に仕えてきました。その状況は現在もかわりません。エルサレムに上る途中で、どのようなことがおこるかわかりません。聖霊のあかしによると、縄目と苦しみが私を待っている。私の顔をあなた方がもう二度と見る事はない。私のいのちは少しもおしいとは思わない。

これからの、どのことばを取っても、迫害と危険と試練と死が常に隣り合わせの、しもべの生涯である。エルサレムの教会に仕える使命を果たすためには、この危険を犯しても行かなければならない。

教会はそのような存在なのだ。パウロがいのちを引き換えにしても守るべき交わりがあり、伝えるべき福音がある。主の血によって買い取られた、からだなる教会は、そのような存在である。しもべはその事を心に銘記して仕える。

しもべの奉仕が、徹底したからといって、常に良い結果が生まれるとはかぎらない。主イエス様がそうであったように、正しい事、率直に伝えた事、愛を込めて生活したこと、誠実に仕えたからといって、人々から食い物にされ、福音に敵対する者たちから足蹴にされ、忌まれながらの肉のままなる信仰者から反撃されることはある。おとしめられ、虐待されることがある。パウロは途方にくれ、苦しめられ、迫害され、倒された。

最も悲しいことは、このような目にあった神の民が、それ以後、しもべとして、仕えることを止めて、傍観者の立場に自分をおいてしまった事です。彼らのうちに苦さや、憤りが生まれたのです。良く理解できます。

Ⅲどうしたら良いのでしょうか?

パウロは言いました。「けれども、私が自分の走るべき行程を走りつくし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちはおしいとは思いません。」走るべき行程を走りつくし、任務を果たし終える事を目指します。しもべはそうです。主から託された使命、任務を果たし終えてこそ、忠実なしもべなのですから。

いかなることも、天の父の御手を経ないで、しもべに触れることはない。

私に理由が分かっていなくても、主は分かっておられます。しもべが耐え忍ぶいかなることも、他の人に仕えるように、私を備えてくださる。私を栄光に召してくださったかたが、間違った事をなさるはずがない。

第二テモテ、4:6〜8 義の栄冠を目指して、長老として、執事として、牧師として、主のみからだに仕えつづけましょう。仕えるおふしなくして、指導者たりえることはないのです。

結び)主の御前に、謙虚に、誠実に、愛を込めて仕えられるように、聖霊の助けと守りと励ましをいのります。

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