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2010年11月21日 ルカの福音書 1:46~56「マリヤの讃美」A

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2010年11月21日 ルカの福音書 1:46~56「マリヤの讃美」A

序)わたしたちの主の母マリヤはエリサベツから聖霊に満たされた預言を聞き、たしかに自分の胎内に宿っている方が、天使のお告げのように救い主で、イエスと名づけるべき方であると確信したとき、彼女は静かに心からの喜びを込めて、すばらしい詩を歌いました。それは「マリヤの賛歌。マグニフイカート」として有名になりました。ここを二回に分けて学びましょう。今朝は46〜49節です。

 

Ⅰ マリヤの感謝と賛美 46〜47節

先ず、マリヤは自分の内に力あるかたが大いなることをしてくださったと、神の慈しみを感謝し、ほめたたえることから歌いはじめました。

「わたしのたましいは主をあがめ、わが霊はわが救い主なる神を喜びたたえます。」わたしは全存在をかけて神をたたえます。わたしの思いもからだも手のわざも足の歩みも、すべてをかけて賛美いたします。マリヤは自分の内に神の全能の力が働き、驚くべき恵みにあずかったことを理解し、確信したとき賛美せずにはおれませんでした。

神は賛美を喜ばれます。とくに喜びの感謝の賛美ほど豊かに神をたたえることは他にありません。喜びの賛美を歌うときは、その賜ったものや賜った出来事を理解できたことを表わすのです。神から恵みを項いたという喜びだけでなく、神がそうしてくださったお心がよく理解できたときの喜びの感謝と賛美は、どれほどに湧きあふれることでしょうか。

「あがめる」(原語:メガルノー)の意味が「拡げる。おおきくする」です。メガとついているのは、そういう意味で、たとえばメガホン(拡声器)、メガトン水素爆撃の威力など。マリヤは「自分を小さくして、神を大きくする」と歌っているのです。パウロは「生きるにしても死ぬにしても私の身によって、キリストのすばらしさが現われされることを求める」と書いているが、このマリヤの心と同じです。

日常においてわたしたちに、神は一方的に恵みをくださいます。わたしたちは主があたえてくださる事柄に感謝します。病気が治った。子供が生れた、就職できた、入学した、この人と結婚できた。さまざまなことに感謝します。すばらしい神の恵みに御礼を言うのは人間として当然の心くばりでしょう。しかし、そこにとどまってしまわないで、その事柄の所以を深く理解し、神のみむねの深さ、恵みを十分にくみとって喜びの賛美をささげるにいたるなら、これほどすばらしいことはありません。そのような中で何よりも救いをいただいたことへの感謝と喜びの賛美は年を追うごとに深まり、増しくわわらねば本当とはいえません。

マリヤがある意味ではとても理解できないようなショックな体験にさらされたにもかかわらず、なお、かくも神への喜びの賛美をささげたということを思うとき、その賛美の心は崇高でもありました。「神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶこと」は、ここにみごとにあかしされています。

 

Ⅱ マリヤの深い謙遜 48節

神を高く賛美すればするほど、マリヤは自分の貧しさ、いやしさに気がつきました。それで「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。」と歌いました。マリヤの深い謙遜がここに示されています。

マリヤが自分のことを「卑しい」というとき、この原語は低いとか軽蔑すべきという意味なのです。世が世ならは、マリヤは本来、王宮にすむべきダビデ家の人間でした。しかし今は貧しい生活の毎日であり、大工ヨセフと結婚しようとしていた。「高い身分の者が、社会的経済的に急におちめになってゆくと、普通世のすねものになったり、積極的に生きる意義を失ってしまうものです。そして貧しさの故に世間にうらみをいだくようになります。しかしある場合はそれとは逆に、このことがむしろ恵みとして働き、この人が神への謙虚さを学び、その結果、魂がより美しく成長させるようになるのです。」(カイパー)

マリヤもヨセフも祝福の方へと自分たちを受け止めたのです。

また、マリヤはカトリック教会がまちがって主張しているように生れながらに罪なくして誕生したなどとは夢にも考えていませんでしたし、生涯、罪を犯すことがなかったなどとも考えてもおりませんでした。むしろ、「わが救い主なる主なる神」をと歌う存在であることを示しています。

マリヤのことを罪なく美しく、全生涯処女で、しとやかで親切で夫人の教養を身につけていたと、すばらしくほめたたえても、当の本人は「神に卑しいわたし」と告白しています。

自分は神に選ばれるような理由は何もなかった。これがマリヤの率直な告白でした。さらに重要なことは、このいやしいものであることが、神が救い主の母として選ぶときに少しも妨げにならなかったのだという点です。いやむしろ「神は強い者を辱めるために、この世の弱い者をあえてえらばれた。また、この世の取るにたりないものや見下されている者を神は選ばれたのです。すなわち有るものをない者のようにするためと、無に等しいものを選ばれたのです。これは神のみ前でだれも誇らせないためです。」(第一コリント1:26〜29)

神の選びの目は、まことに一方的な恵みによって判断され、あえていうならば。何ら選ばれるような理由のない者なので、選ばれた、というように向けられているのです。マリヤはこのことを自覚して、心より、この賛美をささげました。

「これから後、どんな時代の人々も私を幸せ者と思うでしょう。」

わたしたちの幸せは何でしょうか。それはマリヤと同じ意味ではない。けれども信じる者の心の内に主イエスが宿ってくださっているというのではありませんか。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。」ガラテヤ2:20とあるとおりです。さらに、「わたしたちはこの宝を土の器の中にいれているのです。それはこの測りしれない力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかにされるためです。」これらのことばにマリヤの精神が継がれているのです。

 

Ⅲ 大きなことをされる神 49節

マリヤは次に「力ある方が私に大きなことをしてくださいました。」と歌いました。聖霊の力により自分の胎内に主イエスを宿すことがマリヤの自覚においてはっきりと神のわざであると証言されているのです。処女が身ごもったという事実は、本人の明白な真実な書具円として、ここに示され、それも神をたたえると言う仕方で証言されているのです。マリヤのことを本当は彼女のいかがわしい行為によって身ごもったのだという人々は、このマリヤの心をどのように説明するのでしょうか。ペテン師、最低の冒涜者とでもいうのでしょうか。そうであるなら、46〜47節のことばは、何なのでしょうか。やはり本当に清らかに、神が成し遂げられたといっていると取る他はありません。

彼女はこのようにして、大いなるメシヤ誕生の出来事は、自分の側には何もなく、他の人々からの助けもなく、ただ、神の側にのみ、すべての力栄光があると、神をたたえているのです。神は高められ、自分は小さくです。このことが、まことに神をあがめることなのです。マリヤの存在、マリヤの生活を通して神が「拡大」される。神の存在の大きさがあらわされるようにと祈りつつ歩む。自分は謙遜に低く、亡きに等しいと自覚される。そのような生活は、神をあがめ、神の力ある大きなことがなされていると証言する歩むです。

パウロはピリピの手紙1:20で「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によってキリストのすばらしさが現されることを求める」日々こそ、自分の切なる願であり望みであると語っています。

この視点が逆になって、自分がどんどん拡大され、大きくされ、神が縮小される生活態度は、とうてい主をほめたたえ、あがめる道からはほど遠いと言わなければなりません。くれぐれも混同しないように注意しなければなりません。

 

結び)マリヤは自分は卑しい女、主を恐れかしこむ者、低い者であると歌って、事実そのとおりなのですが、イエスさまの側に立っています。マリヤの賛美はクリスマスにさいして、イエスを信じ受け入れるすべてのものの共通の賛美であり、告白でもあるのです。救い主を恐れかしこみ、全存在をこめて賛美する生涯を、一人一人が恵まれますように!

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