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2010年12月12日 ヨハネの福音書1章1-14「光は闇に輝いて」

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2010年12月12日  礼拝 説教 ヨハネの福音書1章1-14

「光は闇に輝いて」

廣橋嘉信

序文)クリスマスは「闇と光」のイメージが世界中にあふれます。その起源はヨハネ1:5節です。

Ⅰ やみと光

⑴ クリスマスの主題の一つは「闇と光」です。これは聖書の主題です。

 

聖書のはじまり創世記1:1-3に次のように書かれています。『初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。』

 

天地の創造のはじまりは混沌の中、やみが水の上にある状態から神が「光よ。あれ」といわれた。

 

物理的にエネルギーとしての光がないときそれをやみといいます。ですから、創造の始まりにおいて、やみもひかりも悪と何も関係していませんでした。

 

やみは罪を指すというわけではありませんでした。

 

そして、聖書の結論部分、黙示録21:23には「都にはこれを照らす月も太陽もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」とあり、さらに22:5には「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽もいらない。」としるされています。

 

物理的な光や、天体としての月、太陽でなく、もっと重大な光である小羊主イエス・キリスト様があかりだといわれ、永遠に存在されると記されています。

 

やみについては言及されていません。やみも光も、もはや創世記の意味と違って用いられています。

 

⑵ やみと光についてのこれら二つの主張の中ほどに、ヨハネの福音書のやみと光についての一連にみことばが記されているのです。

 

ヨハネの福音書では、「やみ」はこの罪の世の暗さであり、人間のいのちの行く先の暗さです。

 

光を憎むヘロデ王に象徴されます。救い主を抹殺しようとするやみです。十字架を実現させた力、ねたみの集積をさします。

 

立場だけでものをいい、判断し、裁いてしまう、人間の習性のやみです。

 

知的か否かだけで人間を評価し、あるいわ体力があるか否かだけで評価する。財力があるどうかがすべてであるかのように人間を評価するやみです。

 

神のすがたににせてひとりひとりが創造されたことの尊さを、人間同士のレベルだけで何か別の判定基準をつくって、尊いとか卑しいとか、賢いとか賢くないとか、気に入るとか気に入らないとかいって裁きあい差別し合っているやみです。人間関係の暗さです。

 

外側は物質的な豊かさで包まれていますが、中身は罪のどろどろした底なしの沼のような社会の中で、老いも若きも悶え苦しみながら、小さな小さな愛の光を求めて叫んでいます。

 

現実に発見できなければ、せめてコンピューター・グラフィックスが描き出す仮想現実(バーチャル・リアリテイー)の世界に救いを求めます。

 

親たちや教会が子どもにまことの光りを確信を持って示すかわりに、小さいときからそのような仮想現実の世界に浸り込ませて、いつ目覚めるときが来るのか分からないほどにのめり込ませる結果、時に思いもかけない悲惨な現実をもたらして闇は深くなり続けるのです。

 

永遠の滅びのやみです。霊的な暗さであり、迷いの深さです。

でも、人間関係の不和・破壊が原因で、互いに存在する環境までも破壊され疲れはてているあなたでも、仕事も家庭も学校も、隣近所も友人も仲間も、この関係にまことの愛の光が照らされているならば、それがどれほど体の疲労をともなっても、なお、耐えられるし、楽しくも思うでしょう。

 

そもそも、愛の交わりは、世界が創造される前に、父なる神・子なる神・聖霊なる神が三位一体において永遠から持ち続けておられ、それが出来るようにと人間は神様に似せて創造されたからなのです。

クリスマスの中心メッセージは、このやみの世に・言葉を換えれば罪人であるわたしという存在の中に、まことの光が射し込んで輝いているということです。

Ⅱ 「光はやみに輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」5節

 

⑴ここに語られている「光」は、太陽のような自然の光や、ろうそくや、電気のような人口の光ではありません。

 

この「光」は9節に「すべての人を照らすまことの光が世にこようとしていた。」とあるように「まことの光」です。

 

「まこと」とは「偽り」に対比する「まこと」というのではなくて、本源的な光をさすのです。あらゆる光がそこから出てくるといった意味です。

 

私たちのいのちの光、霊を照らす光、真理の光、恵みの光、愛の光、義のひかり、消えてなくならない光です。

光はやみのなかに輝くことが出来ますが、やみが光りの中に割り込むことは出来ません。「勝つ」ことが出来ないのです。

 

「勝つ」ということばは「理解する」「腕ずくで捕らえる」「力で克服する」「追いつく」といった意味があります。やみは光りそのものである本源的なひかりを克服して消し去ったりできないのです。やみがどれほど攻撃しても成功しないのです。

 

あなたのいのちがまことの光りに包まれていることの必要性がここにあります。

 

「たとえ死の陰の谷間を歩むともわざわいを恐れません。あなたがわたしとともにおられますから。」詩篇23:4という詩人のことばはそのままアーメンなのです。

 

Ⅲ まことの光はイエス・キリスト

 

⑴ このような光りとは何でしょう?

 

「まことの光」といわれているのはヨハネの福音書の文脈では「ことば」といわれており、「人のいのち」といわれ「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」と言われています。

 

さらに「父のみもとから来られたひとり子」と証言され、18節では「ひとり子の神」です。

 

主イエスご自身は「わたしは世の光りとしてきました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」ヨハネ12:46といわれました。

 

「まことの光」は、最初のクリスマスの日、誕生された御子「イエス・キリスト」です。

⑵ 見たり聞いたり触ったり出来る人間としてひとり子の神はご自分をあらわされた。私たちの間に住まわれた。

 

まことの光であるお方のいのち、愛、人格のすべてに父なる神の愛の輝きが溢れています。

 

イエスを見て、触れて、照らしていただき、御声を聞いて、贖われることを知り、愛されていることを知り、赦されていることを知り、聖められて行くことを知り、栄光の復活のいのちにあずかる幸いに安らぐのです。

 

仮想現実の箱の中の救い主ではありません。

 

この方に恵みとまことが満ちているので、この方の救い主としてのお働きを信じ受け入れた者は、その恵みによって神の子としていただく特権を受けることとなった。

それでエペソのクリスチャンは「あなたがたは以前は暗やみでしたが、今は、主にあって光りとなりました。神のこどもらしく歩きなさい。」といわれているのです。

光そのものである主イエス・キリストによって、必ずあなたのやみは消し去られるのです。

 

死のやみ、罪のやみ、苦しみと、病のやみ、目的のない人生のやみは、あらゆるやみは、主の十字架と共につけられてしまい、よみがえりのいのちと、聖めと解放といやしのひかりによって、神の栄光と喜びを体験する永遠の人生に転換するのです。

結び)主イエス・キリスト様は、信じ仕える私たちの導きの光です。(12:35-36)

まだしばらくの間、光はあなたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光がある間に歩きなさい。

 

現在あなたの内に、あるいわ周辺にやみが覆っているのなら、十字架上の尊い命の犠牲を払って光をもたらされた主イエスを迎え入れて、永遠のいのちの交わりに結びつけていただき、真の愛と交わりを回復することを通して、喜びと賛美のクリスマスを迎えられますように!

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