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2010年3月21日 使徒の働き 17章10~15節 「毎日聖書を調べ」

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2010年3月21日 使徒の働き 17章10~15節

聖書の話 「毎日聖書を調べ」

序文)先週の説教はパウロたちのテサロニケ伝道で教会が発足したことでした。またユダヤ人たちがそれをねたみ、陰謀と迫害をしたので、パウロたちが町から退去せざるを得なくなったことでした。

信徒になった兄弟たちが危険を感じてパウロたちをテサロニケから西に80kmのベレヤの町に送り出したのでした。テモテが後からベレアに行ってパウロたちに合流しました。ここにもユダヤ人の会堂がありました。ここのユダヤ人たちはパウロの伝える福音についてテサロニケの人々とはまるで違った受け止め方をしました。その結果、多くの者たちが信仰にはいりました。

テサロニケと違った反応は、どうしてもたらされたのでしょうか。

三つのことが書かれています。第一は「テサロニケの人たちよりは良いひとたち」第二は「非常に熱心に聞いた」第三は「はたしてそのとおりか毎日聖書を調べた。」私たちが信仰に入り導かれてゆくための秘訣がわかるようです。

Ⅰ 「テサロニケの人たちよりは良いひとたち」

第一は、「テサロニケの人たちよりは良いひとたち」。「良い」ということばは「生まれが良い」ということばから「育ちが良い」となり、それが「高貴」という意味に変化しさらに「素直」という意味になりました。さらには「寛大である」「偏見がない」「自由である」等を意味するようになりました。

ここではパウロたちの伝えたイエス/キリストの福音にたいして、ベレヤの人々は虚心に耳を傾け、素直に聞き、偏見なく受け取ろうとしたことを指しましょう。聖書の真理にたいして心を傾けていた。

聖書のことばは、伝え手により、神からの文脈にしたがって、みことばの全体を語ろうとしているのですから、聞き手が偏見を捨てて聞く必要があります。あらかじめ自分たちの予想によって、このように話すに違いない、結果は分かっているといった態度ではなく、素直に聞き従うならば、大変な祝福をもたらすのではないでしょうか。

信仰の第一関門は、主イエス・キリストとみことばへの素直さでありましょう。みことばの実りは、素直に聞き従う者にもたらされるのです。

 

Ⅱ 非常に熱心に聞いた

第二は非常に熱心に聞いたことです。みことばを聞く上で熱心であることは大切です。「熱心に」とは乗り気になってとか、心を傾けてという意味だと言われています。上の空で、いいかげんに、きまぐれに等で、心の中にみことばが留まらない。熱心に聞くと、心にみ言葉が吸収されます。聞いているうちに真理だと分かれば飛びつく(カルビンは素早く、迅速にと説明)のです。

熱心に聞こうとするなら、連続で聖書を講解説教していますから、礼拝を休まないことです。毎週すこしずつ連続していますから、とびとびに聞くのと違ってみ言葉の全体を把握することができるのです。

熱心に聞くことは「習慣的に聞くこと」です。習慣は良い面もありますが、神の言葉を聞くことが習慣化してしまうと、恵みに慣れてしまい、感動を失う危険に遭遇します。もう分かっているという気持ちになると、その時点で新しく聞くことがストップしてしまう。さらに説教はもう分かっているという場合、そのように行っているということとは、別のことであることに注意しなければなりません。分かっているつもりが、新発見につながるみことばの奥深さを、見せなくしてしまうのです。

熱心に聞くことのもうひとつの敵は「馴れしたしい聴き方」です。「預言者は故郷では敬われない」との主イエス様のことばが、「親しさの故に侮辱を招く」という点に立って話されたのです。それは、親しさが、本当の親しさではなく、自分流儀の親しさでしかなく、主イエスへの敬虔さの欠けた接し方であったために,ガリラヤ人たちは真の祝福に至らなかったのです。説教者である牧師と会員が親しくなることは良いのですが、個人的な関係に馴れてしまう危険性があるのです。説教もその親しさの延長上で聞いてしまうのです。心酔したかと思うと、反対に自分に当てつけを言っていると受け止めてしまうのです。それは、神のことばを聞こうとする熱心をくじいてしまいかねないのです。

Ⅲ はたしてそのとおりか毎日聖書を調べた。

第3は、「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」みことばを聞き流しにしないで、家に帰ってからも毎日聖書を調べた。聖書を話してもらったところを、確かめようとした。パウロの説教方法は、主イエスが旧約聖書に預言されている救い主・メシア・キリストであることを預言の聖句によって論証する方法でした。テサロニケでもしたようにしました。それでベレヤの人々は自分たちの聖書を持っていて、だれにもとらわれずに、自分で、聞いた話を聖書によって吟味したのです。それは聞いたことを確信し、さらに聖書の真理の深さと適用を自分のものとして当てはめる作業でした。語られた部分は、わずかでしかない。しかし、さらに詳しく自分で聖書を調べるならば、その祝福が倍増しになるでしょう。生活の中で実を結ぶことになります。

ある人たちが考えるように、彼らベレヤの人たちは疑わしいと思いながら聞いていたから、そうしたのではありません。もしそうならば素直な人たちであったなどと書かれることはありません。又パウロに対して高慢になっているのでもなかった。

いわゆる説教のあら探しをしていたのでもありません。そのようなことは、自分たちの方が良く知っているといおうとしたのでもありません。若い予言者エレミヤの伝える神のことばに対して、かたくなになって、自分たちがバビロニア捕囚になるまで、逆らい通したイスラエルの姿を忘れないようにしましょう。自分たちがそのようにならないためにです。

伝える側は、それが永遠のいのちを間違いなくもたらす、神の約束のことばであり、信じる者を清め、励まし、確立し、悔い改めによって永遠の祝福に、今すぐにでも入れて頂けると信じて語ります。自分の限界をよく知って、なお、できるかぎりの準備と努力を重ねて祈りつつです。が、聞く者が、パウロ何者ぞ?若造エレミヤ何者ぞ?又言っている。耳慣れないことばだ。心を騒がせることばである。聞こえ良くないといっている間に、真理がもたらすめぐみといのちと力を捨て去ってゆくのです。聖霊様がそのときに語られるみことばを用いて働かれようとしているのを拒否してしまうのです。

ベレヤの人々は、そのようにしたのでは断じてありません。多くの者たちが信仰に入ったのですから。信仰の確信を得ること、さらに確証を得ることを目指したのです。聖霊が確信させてくださったことがらを、後になって聖書のあちらこちらを調べて確証をえるという道もあります。聖書は調べる程度に従って、さらに多くの証言を神の真理について与えてくれるのです。その結果、信仰は不動のものになるのです。

結び)ウェストミンスター大教理問答160問「みことばの説教を聞く者に、何が求められているか。」答え「みことばの説教を聞く者に、次のことが求められている。すなわち、勤勉、準備、祈りをもってそれを聞くこと、聞いた説教を聖書によって調べること、信仰・愛・柔和・心の供えを持って真理を神のみことばとして受け入れること、それについて瞑想し、語りあうこと、心に蓄えて、生活の中でその実を結ぶことである。」

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