コメントはまだありません

2011年12月11日 アドベント第二主日 ヨハネ1:3〜8「光は闇に輝き」

2011年12月11日 アドベント第二主日 ヨハネ1:3〜8

「光は闇に輝き」

序文)クリスマス・シーズンに入りますと、教会では、その年ごとの特色ある装飾を会堂内全体にほどこし、特にクリスマスイブにはロウソクを多く利用して「闇と光」の演出をほどこします。集う者もメッセージする者も主への感謝と喜びのこころに新たにします。

Ⅰ 闇と光

⑴ クリスマスの主題の一つは「闇と光」です。これは聖書の主題です。聖書のはじめの書・創世記1:1-3 『初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。』天地の創造のはじまりは混沌の中、やみが水の上にある状態から神が「光よ。あれ」といわれた。物理的にエネルギーとしての光がないときそれをやみといいます。ですから、創造の始まりにおいて、やみもひかりも悪と何も関係していませんでした。やみは罪を指すというわけではありませんでした。そして、聖書の終わりの書・黙示録21:23には「都にはこれを照らす月も太陽もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」とあり、さらに22:5には「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽もいらない。」としるされて、物理的な光や、天体としての月、太陽でなく、もっと重大な光である小羊・主イエス・キリスト様(ヨハネ1:4,5ロゴス)があかりだといわれ、永遠に存在されると記されています。やみについては言及されていません。やみも光も、もはや創世記の意味と違って用いられています。

⑵ 聖書のやみと光についての主張の、始まりと終わりの丁度中ほどに、ヨハネの福音書のやみと光についての一連のみことばが記されているのです。ヨハネの福音書では、「やみ」はこの罪の世の暗さであり、人間のいのちの行く先の暗さです。「やみ」は、生まれてくる主イエス=光を憎み殺そうとしたヘロデ王に象徴されます。救い主を抹殺しようとするやみです。十字架を実現させた力であるねたみの集積をさします。立場だけでものをいい、判断し、裁いてしまう、人間の習性のやみです。知的か否かだけで人間を評価し、あるいわ体力があるか否かだけで評価する。財力があるどうかがすべてであるかのように人間を評価するやみです。神のみすがたに似せてひとりひとりが創造されたことの尊さを、人間同士のレベルだけで何か別の判定基準をつくって、尊いとか卑しいとか、賢いとか賢くないとか、気に入るとか気に入らないとかいって裁きあい差別し合っているやみです。人間関係の暗さです。外側は物質的な豊かさで包まれていますが、中身は罪のどろどろした底なしの沼のような社会の中で、老いも若きも悶え苦しみながら、小さな愛の光を求めて叫んでいます。現実に発見できなければ、せめてコンピューター・グラフィックスが描き出す仮想現実(バーチャル・リアリテイー)のはざまの世界に救いを求めます。親たちが子どもに確信をもって、まことの光り主イエス様を示すかわりに、小さいときからそのような仮想現実の世界に浸り込ませて、いつ目覚めるときが来るのか分からないほどにのめり込ませる結果、時に思いもかけない悲惨な現実をもたらして闇は深くなり続けるのです。永遠の滅びのやみです。霊的な暗さであり、迷いの深さです。

でも、人間関係の不和・破壊が原因で、互いに存在する環境までも破壊され疲れはてているあなたでも、仕事も家庭も学校も、隣近所も友人も仲間も、この関係にまことの愛の光が照らされているならば、それがどれほど体の疲労をともなっても、なお、耐えられるし、楽しくも思うでしょう。そもそも、愛の交わりは、世界が創造される前に、父なる神・子なる神・聖霊なる神が三位一体において永遠から持ち続けておられ、それが出来るようにと人間は神様に似せて創造されたからなのです。

クリスマスの中心メッセージは、このやみの世に・言葉を換えれば罪人であるわたしという存在の中に、まことの光が射し込んで輝いているということです。

Ⅱ 「光はやみに輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」5節

⑴ここに語られている「光」は、太陽のような自然の光や、ろうそくや、電気のような人口の光ではありません。この「光」は9節に「すべての人を照らすまことの光が世にこようとしていた。」とあるように「まことの光」です。「まこと」とは「偽り」に対比する「まこと」というのではなくて、本源的な光をさすのです。あらゆる光がそこから出てくるといった意味です。私たちのいのちの光、霊を照らす光、真理の光、恵みの光、愛の光、義のひかり、消えてなくならない光です。

光はやみのなかに輝くことが出来ますが、やみが光りの中に割り込むことは出来ません。「勝つ」ことが出来ないのです。やみは光りそのものである本源的なひかりを克服して消し去ったりできないのです。やみがどれほど攻撃しても成功しないのです。あなたのいのちがまことの光りに包まれていることの必要性がここにあります。「たとえ死の陰の谷間を歩むともわざわいを恐れません。あなたがわたしとともにおられますから。」詩篇23:4という詩人のことばはそのままアーメンなのです。

Ⅲ まことの光はイエス・キリスト

⑴ このような光りとは何でしょう?「まことの光」といわれているのはヨハネの福音書の文脈では「ことば」といわれており、「人のいのち」といわれ「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」と言われています。さらに「父のみもとから来られたひとり子」と証言され、18節では「ひとり子の神」です。主イエスご自身は「わたしは世の光りとしてきました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」ヨハネ12:46といわれました。「まことの光」は、最初のクリスマスの日、誕生された御子「イエス・キリスト」です。

⑵ 見たり聞いたり触ったり出来る人間としてひとり子の神はご自分をあらわされた。私たちの間に住まわれた。人間の性質、肉と血をとられた。空間と時間の制約を受けられた。疲れたり、餓えたり、苦しむ可能性を持つ身体をまとわれた。まことの光であるお方のいのち、愛、人格のすべてに父なる神の愛の輝きが溢れていて、見て、触れて、照らしていただき、御声を聞いて、贖われることを知り、愛されていることを知り、赦されていることを知り、聖められてゆくことを知り、栄光の復活のいのちにあずかる幸いに安らぐ。決して抽象的な思弁や、遁世的な瞑想の中で作り出された思想ではないのです。まして仮想現実の箱の中の救い主ではありません。

⑶ヨハネはキリストの公の伝道生涯につき従ったので、さまざまな主イエスのお姿と教えと実践に触れ続けました。その結果、「栄光を見た」と証言しました。ひとり子なる神としての栄光が、人間イエスの歩みであらわされ、それに与った者たちは愛と力と恵に溢れるばかりであった。「栄光」とは単純に神様の臨在を意味します。イエスの誕生から、地上での数々のわざ、十字架とその後の復活、昇天、再臨は、ことごとく「神」そのものなる方の歩みを示し、栄光につつまれたものでありました。それは卑屈な恐怖心を起こさせるような栄光でなく、「恵みとまことに満ちた」神を示すものでした。16節「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」とヨハネは経験を告白しました。

⑷キリストによって神の恵みは示され、実際の経験として弟子達に伝えられました。恵み–それは受けるにあたいしない分不相応なもので、常に、私たち自分自身で勝ち取ることも、完成することも、到達することもできなかったものなのです。

主イエス・キリストが、人間のために生き、さらに十字架にかかるために地上の貧しいさまで来られたという事実は、私たち人間が受けるあたいすることではないのです。それは一方的に、神の大きな、深い、広い愛から出た行為なのです。クリスマスは、人間のどうすることもできない貧しさと、神の愛の限りない思いやりをはっきりと示した恵みの日であるのです。

主イエスさまの救い主としてのお働きを信じ受け入れた者は、その恵みによって神の子としていただく特権を受けることとなりました。光そのものである主イエス・キリストによって、必ずあなたのやみは消し去られるのです。死のやみ、罪のやみ、苦しみと、病のやみ、目的のない人生のやみは、あらゆるやみは、主の十字架と共につけられてしまい、よみがえりのいのちと、聖めと解放といやしのひかりによって、神の栄光と喜びを体験する永遠の人生に転換するのです。

 

結び)主イエス・キリスト様は、信じ仕える私たちの導きの光です。12:35-36まだしばらくの間、光はあなたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光がある間に歩きなさい。」現在あなたの内に、あるいわ周辺にやみが覆っているのなら、十字架上の尊い命の犠牲を払って光をもたらされた主イエスを迎え入れて、永遠のいのちの交わりに結びつけていただき、真の愛と交わりを回復することを通して、喜びと賛美のクリスマスを迎えられますように!

コメントを投稿

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church