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2011年8月7日 ルカの福音書 7:11〜17 「青年よ。起きなさい!」

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2011年8月7日 ルカの福音書 7:11〜17 「青年よ。起きなさい!」

序文)先週は、主イエス様が、百卒長の信仰の願いを聞いてしもべを癒されたところを学びました。今朝は、主イエス様が自分から一方的に憐れみのお心を示して、やもめも一人息子を生き返らせてくださった記事を学びます。主は一時しのぎの救いを与えるために来られたのではありません。永遠のいのちの恵みに共に与りましょう。

 

Ⅰ 出来事の背景

ナインという町に一人のやもめがいました。やもめは過去にご主人を亡くして、女手ひとつで残された息子を懸命に育ててきました。自分の生き甲斐のすべてだったのです。家の中では、二人きりでしたから、なにをするにも息子に話しかけ、また、たよりとして、時には慰められて生活してきたのです。

ところがその息子が突然病を得て死んだのでした。その棺の傍らに母親は一人残されました。その衝撃にどのようにして耐ええたでしょう。彼女のすべての希望が取り去られました。息子中心に描いてきた生活設計は、覆ってしまったのです。いよいよこれから少しは夢が実現するかというときにストップです。おおぜいの町の人々が同情をもってやもめをなんとか慰め励まそうと集まってきました。しかし葬列がどれほど盛大であっても、一人息子を失ったという人生の悲嘆、いのちの悲哀を取り除くことはできません。こうしているあいだにも心やぶられ,悲哀を味わっている人々が増えています。

予想された悲しみではなく、突然の出来事に出会うとき人はショックを受け、体が何か重い物で強打されているような感覚におちいります。意識が薄れるような反応も起こり、つづいて、時には心理的パニックが襲います。長引くと立ち上がれなくなります。東日本大震災の被災地の、すべてを一瞬にして失った方々のために、最初にするべき事は、いのちの救出であり、次に、傷ついた方々の治療であり、さらに衣食を救援することでありました。救護所に物資を配布する事など、一段落してきたら、次は実は心理的なケアーで、心の中の悲嘆をこころの外にだすように話を傾聴する奉仕が必要です。そうこうしながら、仮住まいを見つける事や、津波で破壊し尽くされた町全体のがれきを取り除き、再建する方法を検討し、その手順を速やかに遂行することです。しかし精神的には、絶望状態の中で、将来への希望をどのようにして生み出すか、何がとっかかりになるかを、思いはからなければなりません。一度に家族を全部亡くして、自分一人だけ残された方々、子供たちもおられるからです。涙もでない状態になります。一ヶ月、二ヶ月後にようやく泣く事が出き、涙が流れるようになったと、言っておられるのをテレビで見ました。

ナインのやもめのばあいは、絶望状態でした。彼女はほとんど無感覚な状態になって、どうしたら良いかも判断つかなかったと思います。そのような状態でお葬式が行われる事になります。周りに居る人たちが手伝ってどんどん進めます。母親は徐々に心痛の中にもと涙を流せるようになります。悲しみを外にぶちまける事は立ち直るために重要なのです。涙は人を立ち直らせる作用をもっているのです。今や葬列は町の門を出て、墓地に向かいました。

Ⅱ 主イエス様のお取り計らい

この母親の耳に突然「泣かなくても良い」という声が聞こえました。顔を上げてみると、一人の見知らぬ男の人が、同情のまなざしで彼女の前にたっているのです。そして、この人は「泣かなくても良い」と言われたのです。「死」の現実に直面して,私たちが今迄知らされてきた対処の方法は、思う存分泣きなさいとであり、心が晴れるまでというのです。また、人は皆死ぬのだと最終的には語るようにというのです。あきらめなさいです。あるいわ,悲しみ、さびしさ、悲嘆の乗り越えると人生に深みを刻み込むというのです。

しかし、このお方は「泣かないでよい」と言われたのです。この語りかけはよくある「泣くな、泣くな」という単成る軽々しい、あえて明るく振る舞おうとするたぐいの言葉ではないのです。

「主は、その母親を見て、かわいそうに思い」と書かれています。これは「心の底から揺り動かされた」という強い同情の表す言葉が使われています。主イエス様の憐れみが、どのように、この母親の悲しい経験を良く見て、良く見抜いたのです。物事を良く見た。困難、問題、痛み、苦しみ、必要の存在に敏感なのです。私たちも「どれほどよく見ているか?」自問自答させられます。主イエス様は,心の底から揺り動かされるほどに見て感じてくださっていました。

次に語られました。「泣かなくても良い」主はやさしい憐れみを持って介入してこられました。何か親切を使用とする時、誰かが、先に行動を起こしてくれたらとしばしば考えますが、自分から気づいた者が率先するようでなければなりません。主はやもめを助けようとかたられました。この母親の重荷を取りのぞき、痛みをやわらげ,必要に応じる用意がありました。やさしく行動にうつされました。そして主の憐れみは彼女を救いました。主イエス様のまことの姿がここにあります。「泣かないで良い」と語られた以上、泣かなくても良い力を与えてくださるお方です。なぜ、泣かなくても良いのかは、語られていません。

しかし、語っている主イエスは天から遣わされてきた救い主です。何をしようとしているかをご自分でご存知なのです。「人の目から涙を全くぬぐってくださる。もやは、死もなく,悲しみも叫びも痛みもない。先のものがすでに過ぎ去ったからである。」(ヨハネ黙示録21:4)という将来に実現するみことばを、今、必要と思われると、即、実現なさることができる救い主なのです。

主は、葬列に近寄り棺に手をかけられました。担いでいる人々の注意は主に向けられました。彼らは立ち止まりました。主はご自分が祝福しようとしている人々の注意を引き、その絶望状況を転換されました。立ち止まったところから,彼らはそれ以上墓に向かって進む必要が亡くなりました。いのちの主は、死が自分の餌食だと取ったものに手をかけて、ちょっとまて!!すべてを支配している本当の主は、わたしである。死よ、ちょっとまて。と自分の主権を主張されました。

そして「青年よ。あなたに言う,起きなさい。」と言われました。この生死をも支配する天地の主イエス様の力ある言葉の前に、死というちからある存在は、飲み込まれてしまいました。未だかつて、死もまた、私の支配下にある」と主張された方は、この世界に存在しませんでした。主イエスは天においても地においても一切の権威をもちたもう方として、死の世界も支配される方として、その力を示されました。この青年は生き返りました。

憐れみに満ちた主イエス様のいのちは,今日もこのようにして、私たちに注ぎ込まれます。この恵みの力ある働きは、主の一方的な憐れみによってのみ成し遂げられることなのです。ここに私たちを救いに入れようとしてくださる深い一方的な神の恵みをはっきりとみることができます。

さてこのやもめと息子の生活は、元に復帰する事ができました。しかし、それも後何年つづいたことでしょうか。やがては母親も年を取り、死によって二人は再び引き裂かれるのを経験しなければならなかったでしょう。では、主イエスの慰めは一時的で、その場限りのものなのでしょうか?

 

Ⅲ 聖書は、主イエスの救いの働きは、その場、限りではないと教えています。

実は死人を生き返らせる力を持っておられた主が、その力を発揮されたのは新約聖書では三回しかないのです。この息子とヤイロの娘とラザロです。なぜ主はその力があるのに、次々と死人を生き返らせたまわないのでしょうか。当時も、現代でも、大災害で突然亡くなった方々を生き返らせてくだされば良いのにと、私たちは考えてしまいます。

それは主イエス様が究極的な救いを再びこの地においで下さる時(ご再臨)に与えてくださる約束によっているのです。一時的なすくいでなく、信じるすべての人々に究極的なえいえんのいのちによみがえり、完成を与えようとしておられるからなのです。「キリストにあって死んだ人々を皆、よみがえらせてくださる」ご計画をおもちだからです。「第一テサロニケ4:13〜18」

一時しのぎの救いではなく、まことに意味で、私たちの悲嘆を消し去り、涙を拭い取ってくださる方は、この約束の故に「泣かなくても良い」と仰ってくださり,一人の青年にたいしてだけではなく、すべてのキリストを信じる者たちに、その日に「起きよ。」と声をかけてくださるのです。そのときは、また死ぬかもしれない生き返りではなく、永遠のいのちに霊も体も不死によみがえるのです。

主イエスをいのちの主と信じる者たちに,一時的慰めではなくて、永遠のなぐさめを用意してくださっているのです。その実証として、新約聖書でイエス様は三人の人々を生き返らせなさり、死に打ち勝つ力がある事を証明されました。

このいのちの主イエス様は、この出来事ののちに、ご自分から私たちの身代わりとして十字架にかかり、死に,葬られ、三日目に死人のうちからよみがえられました。さらに豊かないのちに溢れていることを証明されたのです。

もし私たちのために祈ってくれる家族もなく、願ってくれる友もなく、地震、神のあわれみを知らないとしても、絶望する必要がありません。主イエスは、お一人ひとりを憐れみ、その痛みをご自分の痛みとして引き受け、その悲しみ、うめきをご自身の悲しみ、うめきとしてくださって,近づいて「泣かなくても良い」「青年を起きなさい」と声をかけられるのです。これこそ福音です。

結び)この主イエス様を、今朝あなたの心に迎え入れてください。

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