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2011年1月9日 ルカの福音書 3:1~20「心を備えて」

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2011年1月9日 ルカの福音書 3:1~20「心を備えて」

序文)バプテスマのヨハネの活動は福音の歴史において貴重な時代の幕開けを表します。主イエス様が「あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネよりも大きい人物はいない。」(ルカ7:28)と言われたのです。ルカも同じ観点でヨハネの出現の時を詳しく歴史的に裏付けています。世界史の目でローマ皇帝テベリオ在位の15年目の時です。これは紀元28〜29年ごろのことです。パレスチナの政治組織が次に紹介されます。ヘロデ大王は既に死んで、その子供達が領土を三つに分けて治めていました。ヘロデ・アンテパスがガリラヤとペレアを治め、ヘロデ・ピリポがテラコニテとイツリヤを治め、アケラオがユダヤ、サマリヤ、イドマヤを治めていました。このアケラオは悪王で,ローマ帝国はこの人物を首にして,ピラトを総督にしてユダヤに派遣しました。

宗教的には大祭司が本来は一人なのに、二人もいました。アンナスとその娘婿カヤパです。アンナスはローマ帝国の命令で退職しましたが、ユダヤ人たちは、彼の職務が継続していると見なし、新しく任命されたカヤパとともに二人の大祭司が実質的に存在しました。

人々の生活状態も暗く、取税人は決まっている額以上を取り立て,兵士は人を脅かしたりだまし取ったりしました。政治の世界から宗教の世界まで暗く、人々はバプテスマのヨハネを通して神の裁きのメッセージを聞かねばなりませんでした。あまりにも現代と似通った現実がそこにはありました。今日の私たちもバプテスマのヨハネを通して神の警告に耳を傾けなければなりません。

 

Ⅰ バプテスマのヨハネの働きと、説教の内容

1     バプテスマのヨハネは神様からことばを与えられていました。そして、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるために悔い改めのバプテスマを受けるようにと説きました。このヨハネの働きは「イエスがキリストである」という中心点をめぐって行われました。荒野で集まってくる人々にした火を吐くようなメッセージも、ただ「イエスが救い主(メシア)」であったからでした。主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷は埋められ、すべての山と丘は低くされ、曲がったところはまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。人々の心にある救い主を受け入れるための障害を,すべて取り除くためにバプテスマのヨハネは神から派遣されました。キリストの御国への道を閉ざす罪を、悔い改め、さまざまな人間的な困難のまっただ中に道を備えてゆく。

それは,あらゆる人が神の救いを見るようになるためでした。ですから「イエスがキリスト」でないなら、イエスの直前にこのような働きをしたヨハネの存在ほど、むなしく意味の無いものはなかった。

それで、ヨハネは人々に心を備えさせるとともに、16〜17節にあるようにイエス・キリストを指し示して紹介をしました。ヨハネは自分を救い主の前を歩むものにすぎないことをはっきりと示しました。救い主ご自身をあかししました。この方こそ聖霊と火でバプテスマをお授けになると言いました。また、手に箕をもって脱穀場をことごとくきよめ麦を倉に納め、からを消えない火で焼きつくされます。キリストは救い主であると同時に、信じない者に対しては審判者である事を予告しています。

 

2 ヨハネのメッセージの内容

バプテスマのヨハネのメッセージは救い主を心に迎え入れる大前提とも言える内容をもっています。罪の悔い改めが中心です。このメッセージは選民イスラエルに向けられています。7節でヨハネはイスラエルの群衆を「まむしのすえたち」と呼んでいます。人々は異邦人のような罪の存在ではなく,神の民、アブラハムの子孫としての特権があり、いざというときは、この理由で神の裁きからまぬがれると思っていました。バプテスマのヨハネによると,そのような特権意識は神の裁きの前に何の役にもたたない。神が、望まれるならアブラハムの子を石ころからでも起こすことができるのだ。

大切なことは選民イスラエルかどうかではなく、選民にふさわしく歩いているかどうかなのだ。特権意識にあぐらをかき、時代の罪の中にともに歩み、曲がった生き方をしているなら、危険である。良い実を結ばない歩みであるなら、主は斧でその木を切り、火に投げ込まれるだけだ。

まことの心備えが、日々にあるということが第一義である。力ある方は、神の民でも、異邦人でも、罪のうちに歩んでいるなら切り倒すことができるのです。バプテスマのヨハネのメッセージは現代風に取るなら、私たちがキリストにより神の子とされて洗礼を受けている、聖晩餐式に与っているというだけで、安心しているのなら、イスラエルの人々と同じ危険に陥っていないかを反省させるのです。神の子にふさわしい日々、主の前に悔い改め赦され真心を整えて歩んでいるかどうかを!

ヨハネは彼のメッセージに反応した人々に答えています。10節以降。

11節 所有物を分かち合いなさい。13節 決まっているもの以上を取らないように 14節 自分の給与で満足しなさい。不正な手段で金品を増し加える事を考えないように。それぞれの立場で、改める必要がある事に気づくように!自分の任務を正しい心で果たし、なすべき事を正しくおこない,自分のおかれたところで最善を尽くして生活しなさい。

今日の社会において、それぞれの立場でただすべきことをしたならば、危機をいくらかでも良くできるでしょう。政治家が真の政治を行い、商人が不正の利益を取らないようにしというようにです。それぞれの立場で都合のよいことだけを語り、真実を隠して残されたものは、やりきれなさだけが積もるのではないように!ヨハネの悔い改めのメッセージは群衆にも向けられて、普遍的でもあります。迫ってきている神の裁きのメッセージを聞かねばなりません。

 

Ⅱ ここでウェストミンスター信仰告白第15章「命にいたる悔い改めについて」を概観しておきましょう。

一項「命に至る悔改めとは、福音的恵みであって、その教理はキリストヘの信仰の教理と同様に、すべての福音の教役者によって説教されるべきである。」 このいのちに至る悔い改めは、福音的恵みです。悔い改めは、救いをえるための人間的なわざ、律法的な行為ではなく、神の恵みの賜物です。ただ、神様だけが人の心に起してくださるのであって、人間の力によるのではない。

また悔い改めは、罪の許しのため、永遠の生命を得るために必要であるといっても、悔い改めが、罪のための償い、また罪の許しの原因、となるのではないという意味で、信仰と同じく福音的です。

悔い改めは、信仰とともに神の恵みの賜物であると同時に、人間が果たすべき義務でもあるのです。イエス・キリストは「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」と宣教を始められた。そして「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。」とご命令と約束で最後を締め括られました。

福音的説教がなされるところでは、この悔い改めも正しく伝えられなければなりません。信仰と悔い改めがともなうとき改心がおこるのです。

二項「これによって罪人は、自分の罪を神のきよい性質と正しい律法に反するもの として、その危険さばかりでなく、そのけがらわしさをも見また感じ、そして後悔している者へのキリストにある神のあわれみを悟って、自分の罪を悲しみ憎んで全くそれを捨てて神に立ち帰り、神の戒めのすべての道において神と共に歩むように目ざし努力するのである。」

これは悔い改めとは何であるかをのべている。その本質である。悔い改めの出発点は自分の罪を自覚して、嫌悪することで、その立脚点はキリストの許しと助けへの信頼にあり、その目的は、神の律法に従って神とともに歩もうとするこころざしにある。この三つがともにあって悔い改めが成立する。

このような悔い改めは、知性と感情と意志の全面にわたる変化、全人格的行為である。ローマ書3:20、コリント第二7:9〜10、使徒2:38、ローマ2:4。

 

三項「罪のための償いまたは罪のゆるしの原因は、キリストにある神の自由な恵みの行為であるから、悔改めが、何かそのようなものであるかのように信頼されてはならないが、それはすべての罪人にとって必要なものであって、だれも悔い改めないならば、ゆるしを期待することはできない。」

四項「永久刑罰に価しないほど小さな罪がないように、真に悔い改めている者にも永久刑罰をきたらせることができるほど大きな罪はない。」

三項と四項は義認と悔い改めの関係を記している。

まず、三つの誤解が否定されている。①悔い改めを罪の償いの手段とみること、②悔い改めたから許してもらえる、③もう許されているから悔い改める必要はない。(岡田稔著89P)。

「悔い改めはどういう意味で絶対必要なのでしょうか。−自分が本当に病気で、治りたいと切に願う人でなければ、医者にかかり、薬を飲もうとしないでしょう。自分の罪を知り、この罪を悲しみ、憎み、この罪を許されたいと願わない者が、キリストを正しく信じることができるでしょうか。第四項は罪を軽視する者にとってはきびしい警告であり、自分の罪のおおきさに苦しみ悩む者にとっては慰めです。小さな罪だから許され、大きな罪だから許されないのではありません。どんな小さい罪でも、罪は罪であって、永久の刑罰に価するのです。と同時に真実に悔い改め信じる者にとって、許されないほど大きな罪はないということ、これはすべて真実に罪を悲しみ、憎み、それから離れようと切に願っているすべての悔い改める者に大きな、豊かな慰めです。」(矢内昭二著166P)

 

五項「人は、一般的な悔改めで満足すべきでなく、自分の個々の罪を個別的に悔い改めるように努力することが、各人の義務である。」

六項「各人は、自分の罪のゆるしを祈りつつ、神に対しそれを私的に告白すべきであり、その上その罪を捨てることによってあわれみを得る。だから自分の兄弟やキリストの教会をつまずかせた者は、自分の罪を私的または公的に告白し、またそれを悲しむことにより、被害者に対して自分の悔い改めを進んで表明すべきである。これによって被害者は、彼と和解し、愛において彼を受けるべきである。」

 

悔い改めの実賎にあたっての注意。

自分の個々の罪を、具体的に悔い改め、それを許され、とり除かれ、それに勝利することを祈りもとめるべきである。一般的な罪、弱さ、けがれを告白するだけではいけない。罪は原罪と行為罪を含むものですから。悔い改めも両者を含むものでなければならない。自分の性質の腐敗と、腐敗した行為とをよく反省・点検することにより、深く悔い改めなければいけない。

罪の告白と許しの問題は、それが犯された相手にたいして、すなわち神だけでなく、人にたいすることであれば、その人の前に罪を言いあらわし、許しを求める勇気と謙遜さが必要である。個人の場合は私的に、教会にたいしては公的になすべきです。公的な罪は、教会の秩序のために正規の手続き−教会戒規−を心より遵守しなければならない。

被害者は、彼と和解し、愛において受け入れるべきである。教会はこのことにより罪に対して勝利するのです。

 

Ⅲ ヨハネの宣教の結果 18–20節

ヨハネのメッセージは、イエス様のメッセージと中身が違います。ヨハネは福音そのものを語ったのではなく、福音の入り口を語りました。イエス様は、福音そのものを語られたのです。

そして、どちらの場合も、人々の反応は二手に分かれました。

1 悔い改めて罪の赦しを受けた者たちは、救いに入れられました。神の裁きの火から救い出され、良い実は天の倉に納められ、記録がつけられたのです。

今も、神の真実はイエス・キリストにより日ごとの罪を告白する者を十分に赦し、きよめておられるのです。

2 一方かたくなに悔い改めないものは、神のメッセージを聞くことにより、今以上にさらに悪を加えるきっかけとなります。そのことがかさなり、ついには滅びにいたるのです。その実例は18〜20節に記録されているヘロデです。ヘロデ・アンテパスは自分の兄弟の妻ヘロデアを誘惑して、自分の妻にしていたのです。二人の関係はもともと叔父と姪でした。バプテスマのヨハネは二人にはっきりと神の真理にもとづきものを言ったのでした。専制君主を非難する事は危険このうえないことで、ヨハネはついに投獄されました。少し後になってヘロデアはヨハネの首をもらいたいと自分の娘をそそのかして王に言わせました。獄中で殺したのでした。この事件が、そのままで見過ごされることはありません。

神の真理の言葉を語ることは危険をともなうのです。真理のことばに立つ人は、一時的に投獄されたり、憎まれたり非難されたりします。しばしば殺されたりします。けれども結局は神のみ前に出る日に勝利を収めます。人間は神の真理のみことばを伝える者を殺す事はできますが、神の真理そのものを殺す事はできません。神の真理はキリストとともに葬られた者を、いのちによみがえらせるのです。

 

結び)わたしたちはキリストの福音を前にして、ヘロデ・アンテパスのようにあしき反応をするのでしょうか、それともバプテスマのヨハネの側に立つ者でしょうか?聖霊と火によってバプテスマを授けられるお方、キリストの側に立ちつづけましょう。

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