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2011年10月2日 ルカ8:22〜25 「嵐よ、静まれ!」

2011年10月2日  ルカ8:22〜25「嵐よ、静まれ!」

序文)主に従う日々は平坦ではありません。一人一人はさまざまな身体的,霊的危機に直面しながら歩みをつづけています。弟子達は勝手知った生活の現場,ガリラヤの湖で激しい突風に不意に襲われ、荒れ狂う波に翻弄され、死の危険にさらされました。突然やってくる事故、病気、死別、失業、台風、地震、火事、洪水、津波は一瞬のうちに私たちを窮地に追い詰めます。これらは、人の心に誘惑の嵐や、激情の嵐、悲嘆の嵐を巻き起こしてゆきます。そのようなことがらは、私に限って起こらないと言える人は誰もいません。

 

Ⅰ 弟子達は主イエス様が湖の向こう岸にわたろうと言われたので、船を漕ぎだしました。忙しい伝動活動の連続で、彼らには休息が必要でした。ガリラヤ湖は,もと漁師だった弟子達にすれば、手に取るように隅々迄分かっていたところですし、操船術は玄人でした。イエス様は伝動活動で疲れ果てておられました。一日の疲れ、精神的、肉体的に重労働であることは30才まで大工として鍛えた身体を持っておられた主イエス様でも、船の中で熟睡するほどの激しいものでした。イエス様は元漁師の弟子達の操船術を信頼して彼らの手に任せて安心して眠られました。主はまさしく人間でした。私たちと同じようにつかれ、弱さを知り眠られたのです。

そうこうしているうちに突風がやってきました。周囲500〜600mの高さの山々から、水面下180mの水面に吹き下ろしてくる風は、いくつかの川によってできた渓谷を通風溝のように駆け抜けて、恐ろしい突風となり波を巻き上げ湖面に猛り狂いました。

湖に関して専門家である弟子たちは、その恐ろしさを十分承知していました。

それゆえにこそ、彼らの恐怖は深く強烈でした。船は風波に翻弄され、水も入り込み、沈没か転覆の危機に見舞われました。しかし、なお、そのようなときにも,主は眠っておられました。

嵐の最中、船で眠ったもう一人の人を聖書は記録しています。預言者のヨナです。彼は神様の命令を拒んでニネベとは反対の方向にあるタルシシ行きの船の中で、やっと神様の目から逃れたと思って安心して舟底で眠ったのでした。ところが神様は嵐を送り、船を木の葉のようにゆらしたとき、乗組員たちが慌てふためき,それぞれが信じる神々の名を呼んだのです。そのときでもヨナは麻痺した良心の故に眠りこけていました。神に背いた神無き現代人が、この世の荒波にもまれても図太く眠っていることが中にはありますね。

でも主イエス様の眠りはそのようなものではありませんでした。聖い良心をもって、この危険の中で神を信頼し切った平安から眠り続けておられたのです。神におこりくる一切をゆだねきった者の平安がここにあります。生きるも死ぬのも突然襲うあらしも神のため、神にあって一切をゆだねて闘う信徒に恵みくださる平安があり、身につける幸いを味わえるのです。ピリピ4:6、7。

 

Ⅱ 弟子達の反応 24節

弟子達は最初から主を起こそうとした訳ではありません。しかし、危険があまりにも迫ってきたために,主をおこさなければいけないと思ったのです。弟子達は「先生。先生。私たちは溺れて死にそうです。」と叫び、起こしました。

「死にそうです。」いのちの危機に直面していると感じたのです。人生に送る予定外の事件はあまりにも多く、私たちの心の平安を奪い取り、死にそうだと悲鳴が口をつきます。あわてふためくことにより自分たちの危険を増し加え、沈まなくてよい船を沈めてしまうのです。恐怖過剰は不信仰を生み出してしまうのです。主は起き上がられました。風と波を叱りつけられました。すると風も波も治まり、凪ぎになりました。

イエス様は、彼らの現実の不安を取り除いてから、彼らの信仰を「あなたの信仰は、どこにあるのか?」と問いかけられました。別の福音書では「なぜ、怖がるのか。」「どうして、信仰がないのか。」と言われたとあります。弟子達は眠っておられたイエス様を呼びおこしたが、イエス様は弟子達の信仰が眠ってしまっていたと指摘されました。彼らは、いままでに数多くの奇跡を持って働かれた主イエス様を目の前に見て来たのでした。そのみこえも聞いてきました。そのお方が、共に船に乗っておられるにもかかわらず、「死にそうだ。」と叫んだのです。主が乗っておられる船が沈む可能性がある。主も共に死ぬ。と思いました。主が平然と眠っておられるのに、死ぬとおもった。神の赦しがなければ髪の毛一本の地に落ちない、と言われたおしえを忘れました。このように苦しんで恐れている自分たちをほっておいて眠っているなんてとおもったし、自分たちはもう死んだと同じだと騒いでいるのでした。

船が沈没したら弟子達だけではなく主もまた危ないのですが。もしこの場面で、主イエス様が、突風の始まりから起き上がって、大変だ、船をうまく操れよ。お前達は玄人ではないのか。と、慌てふためかれたら、弟子達はどうなっていたでしょう。

主は,神のみ手の中で、自分の人生はあり、すべては主の赦しのもとに起こる事だと知っておられました。その歩みの中に主が経験させようとしておられる憐れみや恵みや力や忍耐があるのでしょう。そのゆだねきった歩み、なすべきをなし、眠るべきはねむる。神が、ゆるされたのであれば、その地上生涯も、これまでである。神がゆるされたのでなければ、何が起こっても守りはあると信じきって歩む。このように信じる。主は私たちと共におられる、私たちを住処としておられる。その内に住んでおられる。ならば、その地上生涯を支え守り用いられる。生きるのも主のため、死ぬのも主のために、用いられる人生と思い極めよう。

もし、弟子達のように主を見て信仰を眠らせてしまうと、みすみす主がなしてくだろうとしている好意や善意を拒否してしまう事になりはしないか。主イエス様や聖霊様のお働きを通して、神様があなたに、また、教会にしてくださろうとしている恵みの御手を払いのけて、ゆかないように互いに注意しましょう。

私たちは、どのような状態の中にも、わたしたちのために御子を送って十字架の上につけてまで救主として下さった神のご愛を覚えねばなりません。ローマ8:31〜39.

 

Ⅲ 主が海に向かって風と荒波を叱りつけると風波は治まりました。弟子達は、驚き恐れ「風も水も、お命じになると従うとは、いったいこの方はどういう方だろう。」と言った。

自然は人間のような心をもっていません。まして、神に逆らう罪の心を持っていません。主イエスは多くの人の心をいやし、救い、病人を治すという難しい働きをなさいました。この時、自然を左右する事等は、人を救うこととくらべれば,いと容易い事でした。自然は神が創造され,神が支配しておられるのです。神がみことばをもって自然の秩序と動きを定められました。(ヨブ記38:11)

神の命じたとおり働く自然は,神のみ心の一定不変の誠実さから生じる秩序ただしさにより、人間の目にそれが法則として受け取られています。自然法則というのは、常に変わりない神のみ心とみことばのままに動いているのです。ですから、弟子達は風も水も従わせる,このイエス様を摂理をもって働いておられる神だと気づき驚き恐れました。

主イエス様は自然法則を破ったのではありません。すべてのことをみ心のままに導いて下さる神様が、弟子達のために特別に心を砕いてくださったということにおどろくべきだったのです。天地の創造主が、この小さいものたちのために、天地海風の日頃の動きを一時変更してもよいと思ってくださる。この恵み深い心を信じる。

苦しい時の神頼みと日本ではいっているのですが、実は平穏な時の神頼みだけで、苦しい時は、人頼みではないでしょうか。本当に信仰は大嵐でも、凪ぎでも、平穏でも大迫害の中でも、どのような時でも、目覚めていて、主を信頼し、神の心とみことばにしっかりと捕らえられているのだと、いうことを確信することではないでしょうか。パウロがローマに護送されるとき、14日間の大嵐に会いました。その時、主があらわれて嵐を静めて下さったりはしませんでした。船は浅瀬の乗り上げ、壊れました。でもパウロは主のみ心を確信して、使徒27:22〜25一人も失われないと船長に告げローマの役人に告げました。また自分も必ず生きてローマに着くと疑いませんでした。

結び)私たちが本当に、恐れるべきは、突然襲う嵐ではなく、主のお心もみことばも信じないで、あわてふためく自分の不信の嵐なのです。この嵐により、主イエスをうらんだり、皮肉をもって見たり、主ご自身が弟子達のために働こうとされる好意、善意、恵み、を拒否してしまうのです。

主は私たちと同じ身体をもっておられました。弱さ経験し、疲かれ、痛みをおもいやることができます。この主イエス様が私たちの人生の船に同船してくださっているのです。家族も教会も滅びさる事はありません。主が共におられるのです。おられないように思える時でも、パウロのように、主のお心とおことばとを確信して、祈りつづけましょう。いま嵐に見舞われている兄弟姉妹のために主は立ち上がって「風よ静まれ、水よ凪げ」といってくださるのです。アーメン

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