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2011年6月12日 ルカの福音書 6:27〜36 「愛とあわれみ」

2011年6月12日 ルカの福音書 6:27〜36

「愛とあわれみ」

序文)前回、26節までで、私たちは神様との関係で「幸いと哀れ」を理解する事の大切さを学びました。今朝、36節まで、私たちと隣人とのあり方で「愛とあわれみ」についてまなびます。イエス様の教えの中で、「あなたの敵を愛せよ」という27節のことばほど多くの誤解と論議を受けたことばは他にないでしょう。主は弟子たちに「愛せよ!敵を!あなたの!」という語順で語りました。聞いていた弟子たちはここで「愛」についてキリストの教えの積極的な部分を知らされて、行動するようにと励まされました。

新約聖書の中に「愛の賛歌」があります。コリント第一13章です。結婚式の時に良く読まれます。また兄弟を愛せよ。隣人を愛せよ。神を愛せよ。ということばもあります。しかし、ここは「あなたの敵を愛せよ」です。このような愛の実践のために二つの大原則が教えられています。第一は28〜31節「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」第二は32〜36節「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深くしなさい。」

Ⅰ 第一の原則は、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」です。新約聖書の奨める愛の実践は、積極的です。聖書の世界以外では、次のように語られます。ユダヤ教最大のラビ(律法学者)・ヒレルは「自分にとって嫌だと思う事を他の人にするな。それが律法であり、ほかはすべてその説明だ。」と言いました。アレキサンドリアの哲学者ヒロンは「自分が被りたくない事は、他の人にもしてはならない。」ギリシャの哲学者で雄弁家ソクラテスは「他の人の仕打ちにあって、あなたが憤慨するようなことは、他の人にもしてはならない。」哲学の一派であるストア派の基本原理「自分にしてほしくない事は、他人にもしてはならない。」中国の孔子のことばは「己の欲せざる所は、人に施すなかれ。」以上ほとんどは否定的に語られています。これらのことばと主イエス様のことばは本質的に異なっています。キリスト者の愛の実践は、悪い事をしないことではなくて、積極的に良い事をすることにあるのです。「あなたをのろう者を祝福しなさい。」「あなたを侮辱する者の為に祈りなさい。」「あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。」「上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。」「すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。」これらの奨めは本当に文字通り守れるかというと、ある状況下では,それほど難しいことではなく、どのような人間でも実行可能です。例えば、強盗に襲われている状況で、いのちが惜しければ、言われる通り、要求する通りにするでしょう。まして、すぐに取り戻そうなどと考える余裕も全くありません。戦争で敵軍が占領してきたときに、その支配下に置かれた人々は、これらの言葉が暗示するような行動にでます。大きな権力が民を抑圧して無理難題を押し付けてきたとして、断固いのちがけで抵抗するよりも、従順に従う人の方が多いでしょう。

ですから主イエス様のおことばは、文字通り守れるかどうかの議論ではなく、31節に「自分にしてもらいたいと望むとおり、人々にもそのようにしなさい。」に中心があるのです。このことばは,現代社会に溢れている倫理、道徳、人間関係に関わる一切の教科書の教えを、一語で要約してしまうほどに大切で単純なことばであります。

私たちが、人にたいして、どのような態度を取れば良いか、ことに敵対してくる人に対して困っているなら、主イエスは、こうするべきだと言われるのです。何よりも相手について考えるよりも、自分について考えることから初めなさい。「私は何をして欲しいか。どのようにされたら嬉しいか。助けられ励まされるか。」さらに「私は何をしてほしくないか。どうされたら困るか。いやでがっかりするか。」

積極的に考え、次に消極的に考える。両方考えてみる。今朝、家に帰ったらぜひ自分の生活や行動の全体にわたって、行い、おもい、会話の点でも、具体的に詳しく書き出してみましょう。

次に、自分のまわりにいる人々、また、遠くにいる人々にも接するとき、自分にたいして、この人もこうした点では自分と全く同じだと言いなさい。さらに、相手に対して、自分の行動や態度を決めるとき、自分がされると好き、嫌いと思うことに注意を払って決めなさい。これらは単純なことです。しかし、こうしないために人生のあらゆる不和、騒ぎ、不幸がまき散し、散らされているのです。私たちは人がパンを求めているのに石を与え、魚を求めているのに、蛇を与え石を投げつけ、コブラの毒によって人を害してきたのです。さて、この原則を実行にうつせるでしょうか?イエスさまは第二の原則を考えるように奨めておられます。

 

Ⅱ 第二は32〜36節「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深くしなさい。」

常識的に考えられる事、人間同士のレベルで行う事、愛してくれる人を愛すること、良い事をしてくれた人に良い事を返す事、返してもらうつもりで貸す事、はイエス様に言わせると「そうしたことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。」と片付けられています。罪人たちでさえ、そうしている。だが、イエスは「あなたがたの行いにおいて普通の人々をどれだけまさっているか?と問われている。人間の常識の秤で、量るのではなく、神のみ前に量る。それは「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深くしなさい。」天の父は、恩を知らぬ者、悪しき者に対してなさけ深い。悪しき者の上にも善き者の上にも太陽を上らせ、雨を降らせられる。そのような天の神の情けふかさを水準として人々に対するように。このように天の父を覚えて行動をするなら、実行できるになる。

天の父は聖霊によって働かれる。「天の父は、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう。」(ルカ11:13)。天の父は求める、私たちに聖霊をくださるのです。聖霊の助けのもとに祝福と力をいただく者は、この愛の原則を実行する恵みに浴する。

実はこれらのことばは、キリストを信じ神の子とされた者の光栄、身の崇高さ特異性をイエス様が認識した上で語られているのです。

主はご自分を信じ従う者を神の子と呼んでおられます。だから、神の子たちは、主イエスさまにいのちにより結びつき、キリストに似る者となるようになるし、天の父のおこころを身を以てあらわすことができる。その点でカギを握っておられるのは私たちを宮として、うちに住んでおられる聖霊さまです。一人一人のうちに神の性質が力を表し、古い自然に死に、新しくいのちに生きる歩みが、強くなればなるほど、神のあわれみ、愛はその人の中に働く。天の父のあわれみをいただき経験し、自分でもはっきりと憐れみを施せるようになる。そのとき愛の積極的実践も、また身についてくる。

 

Ⅲ このような主イエス様の教えと、私たちへの主の目を意識するとき、自分を省みて失望する事が多い。なさけなくなる。しかし、今朝、もう一つの大切な自分に気づいてもらいたい。あなたが天の父から日々にいただいている永遠のいのち!についてです。キリストはブドウの木、わたしたちは枝です。必要ないのち、栄養分が日々に供給されているのです。私たちは信仰によって、主イエス様の言葉に応じることによって実が結ばれる事を発見するに違いありません。

結び)第一原則を実行する力は、第二原則のうちに秘められているのです。わたしたちは天の父を与えられた神の子だということだからです。天の父のあわれみのこころは、私たちのうちに同じ心を持たせておられるのです。実際に信仰をもって使用してみる事で、実が結ばれることを経験するでしょう。だんだんと確信を増していただき、主はさらになし続ける力を供給してくださるお方なのです。

神の愛に生かされてある日々を、自覚することの深さに従って、人は他の人を愛せるのです。

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