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2012年11月18日 礼拝

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2012年11月18日 ルカ13:10-17 「束縛を解くイエス様」  招き詞 エペソ2:1-6

序文) 聖書の書かれているところによれば、わたしたちは信仰に導かれ、尊い救いをいただく前までは、「自分の罪過と罪のなかに死んでいた者であって、そのころは、それらの罪のなかにあって、この世の流れに従い、空中の権威をもつ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいました。」この表現は、救いをいただく前は、悪魔の束縛の中に、罪の奴隷となって日常生活を送っていたということでした。しかし今や、あわれみ深い神のめぐみによって、罪と悪魔の束縛から救い出され、キリストのいのちにあづかり、よみがえりのいのちをいただき、永遠に生きる者としていただいたのでした。

私たちは自分で気がつかないうちに、悪魔の束縛の影響をいろいろの生活状態の中で受けてきたのです。今朝の聖書の箇所は、病いの霊に18年間も縛られていた女性が、いやされ,解放された記事が、前半にあります。後半は、イエス様の解放を巡って,会堂司が咎めた事へ主イエス様の答えです。

Ⅰ 女性の状態 10-11節

1 18 年間も苦しみの日々と送って来た。しかしこの女性は、安息日には会堂に出席して,神に祈る習慣をちゃんと身に付けていた。この人はその人格まで狂わしてしまうような悪霊に憑かれていたわけではなかった。イエス様は彼女をいやされるときに、前に、悪霊に憑かれた人たちをいやしたときのように、霊に向かって叱りつけたり、命じたりなさらなかった。ただ手を置かれるだけでいやされた。

2 彼女の病気の原因はサタンに束縛されていたと判断された。サタンは、人の心に働きかけますが、からだにも働きかけます。旧約聖書のヨブは、心は神に向かって全てただしかったのです。神ご自身がそうおっしゃっています。しかしサタンはからだに働きかけて,彼を誘惑しました。いやなできものがからだ全体にできたのです。他方、サタンが働きかけて心も身も病むことがあります。しかし聖書の中にでてくる病気は,全てがサタンというよりも、アダム以来の罪の腐敗をからだが負っているために、病いに陥る事がおおいのです。究極的にはからだは全てが腐敗して死をむかえ、土に帰るのです。

3 腰が曲がって,全体を伸ばすことができなかった。そのような中で、公の礼拝を守っていた。普通ならば、自分の状態に対して、あきらめたり、神に不平を言ったり、日々生きる事のくるしさ、重さ、自分がこのようにしてまで生きていて何になるのかと考え,嘆き内に籠ってしまうところです。彼女の信仰はおどろくべきです。18年間,からだに関してはなにもできないでいたけれども、心は神様に向かっていた。

主イエス・キリスト様が地上生涯で行われたいやしの数々が、次のように言われています。マタイ11:4-6「主は、すべての病気をあなたから取り除き、あなたの知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病気を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」主は神の国の到来をご自分で見せられました。

Ⅱ イエス様がいやされた病いの数々

A 1 ツァーラアス(〈ギ〉レプラ。マタ8:2‐4、マコ1:40‐45、ルカ5:12‐14)は、レビ記(13‐14章)では神の前に汚れたものとされていたので、イエスのいやしの場合にも「きよめ」が重視されている(マタ10:8、11:5、ルカ7:22)。旧約聖書でらい病気の意味に使われる〈ヘ〉ツァーラアスは、35回用いられるうち29回はレビ13‐14章に出てくる。この箇所にはらい病気とそれに似た皮膚病気の見分け方、診断の仕方が詳細に述べられている。真性のらい病気と診断された者は予防上隔離されることになる(13:45‐46)。また宿営内を歩く時は衣服を裂き、「汚れている、汚れている」と叫び、周囲の人々に自分の存在を目立つようにしなければならなかった(13:45)。これも予防の一つの方法であった。らい病気は前2400年頃のエジプトのパピルスにすでに記録されている。エジプトに長く住んでいたイスラエル人は、エジプト脱出の時この病気を持ってきたと思われる。それゆえに特にこの病気についての診断、予防の方法が詳細に指示されているのかもしれない。レビ記で扱われるらい病気が、現在ハンセン病気として知られているものと同じであるかどうかは、いくつかの点で疑問がある。衣服のらい病気(13:47以下)、家屋のらい病気(14:33以下)はそれぞれ「かび」のようなものではないかと思われる。

2 てんかん(〈ギ〉セレーニアゾマイ)。直訳は「月に打たれた」(マタ17:15欄外注)。この病気の症状は「火の中に落ちたり、水の中に落ちたり」(マタ17:15)、「あわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせる」(マコ9:18。ここでは口のきけない霊につかれた者)激しい発作を伴うものである。この病気は「悪霊」(マタ17:18。マコ9:25では「汚れた霊」)のしわざであると考えられており、悪霊を追い出すイエスのわざによっていやされる。

3 中風。中風の人を表す〈ギ〉パラリュティコスは「麻痺に侵された者」という意味である。この病気人はほかの者に運ばれなければ動けなかった(マタ9:2)ように、半身不随のことで、脳血管障害などの後遺症である。この病気の場合には特にそのいやしと罪の赦しとが関連づけられている(マタ9:1‐8、マコ2:1‐12、ルカ5:18‐26)。しかしこの病気だけが特定の罪の結果であると言うのではない。

4 長血(マタ9:20、マコ5:25、ルカ8:43)。マタ9:20は〈ギ〉ハイモルロエオーで「出血する」という意味の語を用いる。マコ5:25とルカ8:43は〈ギ〉リュシス・ハイマトスで「血の流出」(参照ルカ8:44「出血」)という意味の語を用いている。婦人科の病気でひどい痛みが伴うものであった(マコ5:29)。この婦人は12年間もこの病気に悩まされ、医者の治療では直らなかった(マコ5:25‐26)。当時の難病気の一つである。

5 水腫(〈ギ〉ヒュドゥローピコス。ルカ14:2)。からだの組織のすきま、体腔内に多量のリンパ液がたまる病気。腎臓機能不全等によるいわゆる「むくみ」のことと思われる。

6 悪霊につかれた(〈ギ〉ダイモニゾマイ)。この人たちは悪霊によって視力や聴力が奪われ(マタ9:32、12:22)、狂暴性を帯び(マタ8:28)、人々によって連れて来られなければイエスのもとへ来ることもできず(マタ4:24)、自分の意志さえも失われてしまう。その症状は精神病気のようにも見えるが、精神病気とは異なるもののようである。神が霊であると認めるなら、サタンの存在と同様に悪霊の存在も認めなければならない。悪霊の力によって本来の人間としての諸機能が奪われている状態のことである。

以上に取り上げたものは、イエスの公生涯の中で行われた病気のいやしの奇蹟の中でも、特に目覚しいもの、意味のあるもの、福音書記者たちの印象に強く焼きつけられたものであって、このほかにも多くの病気のいやしが行われた。

B さて、この18年間病いで苦しんでいた女性にむかってイエス様は「あなたの病気はいやされました。」と言われた。イエス様の憐れみと主のいのちの力により、サタンの束縛から解放されました。彼女が助けを求める前に、イエス様の方から語りかけて解放してくださいました。私たちにも、よみがえりの主は、み手をおいてくださいます。彼女は、腰が曲がり全然伸ばすことができなかったのです。からだの解放を得ました。「女は立ちどころに腰がのびて、神をあがめた。」

主イエス様を救い主として仰ぐ時,私たちは過去のサタンの束縛の下にあった罪人としての自分が、赦され、解放され,新しいいのちの誕生を与えられた事を経験します。人によってこの新しさはどこに顕われたかは,様々です。自分を捕らえていたぬくシミの心が消え去ったとか、偽りに偽りを重ねて話し続けていた人生が、マッス儀になり,いつわりを言う必要がなくなったりとか、つい積み重ねていた悪習慣が止んでしまったとか、いろいろです。自分の中にある罪深い囚われから解放されてきたのです。主イエスさまは私たちを存在の根本において変えて「神の子」としてくださった。「キリストは自由を得させるために,私たちを解放してくださいました。」(ガラテヤ5:1)「あなたがたは、今は、聖徒たちを同じ国民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)

神様をあがめます。私たちは、サタンと何のつながりももうないのです。主イエス様とつながっているからです。私たちはキリストのものです。サタンとは何の関係もないのです。「あなたの病気はいやされました。」と主イエス様はいわれたのです。

 

Ⅲ 14-17節 イエス様のわざを歓迎しない者たち

1イエス様のこのすばらしい救いのわざを歓迎しない者がいました。会堂管理者です。彼は群衆に向かって14節といいました。彼は救い主に向かって直接言わないで、群衆に向かって憤りをこめていいました。イエス様への攻撃と皮肉をいったのです。それでいて、自分は彼女を救えないのですから「六日の間に来て直してもらえ」と言わざるをえませんでした。

2 「15-16節」 この管理者に向かってイエス様はいわれました。主は厳しく彼に立ち向かわれました。偽善者たちよ。ユダヤ人は安息日に守る律法の細則を決めていました。行き過ぎてついには、神様が何のために安息日を与えられたのか、わからくなったのでした。どのように用いれば良いのかを忘れました。ただひたすら安息日を守る自分たちの姿だけを気にしているのです。「本来安息日は,人が神の恵みを味わい、神のみ旨を一層深く知って、神を礼拝する日でした。歴史的には、天地創造のおり、すべての良いものを作られた神が、七日目に休まれたことを記念して、人間に与えられた日でした。イスラエルの民が奴隷とされていたエジプトの地から、神ご自身によって救い出されたことを感謝し,神をたたえる日でした。また,やがてくる終わりの日に完成する永遠の安息を予表する日でもありました。こうした背景を知れば安息日が神に愛されている事を覚えて、神を愛し、かみの憐れみをもって人々を憐れむ日である事が分かるはずです。また,神のあわれみを受けて、18年間の苦しみから、解放された女性のゆえに、神に感謝して、み名をたたえるはずです。」(鈴木英明著)

ところが、会堂管理者は憤りました。彼が本末転倒し、神にたいする無知をさらけ出し、その上自分を正当化し、イエスと女性を非難したのです。

自分の家畜ならば、水を飲ませに小屋から解いて連れてゆくでしょう。それならばサタンに縛られて18年間苦しんだ女性を束縛から解いてやって行けないはずがない。うしやろばとアブラハムの娘とどちらが大切か。

2 主のことばに対し、反対する者は皆、恥じ入りました。主が、今という恵みの時代,救いの日に、素晴らしく働き続けておられるのです。信仰をもってみことばに応答する者は

、その恵みにあづかります。さんびと喜びがあふれます。そのために働きにあづかり、あるいわ祈り、あるいわ証して、導いてきた人々は、ともに神を褒め称えます。そして、さらに主は働いておられると知ってゆきます。ところが、そのような事に気づかないで、あるいわ気づいても、なお、主イエス様とその働きを分かち合っている兄弟姉妹方の存在が、日案の対象となり、憤りの対象となるのならば、その人々は,主イエスの前に恥じ入る日が来ます。悔い改めが必要なのです。

教会も注意しなければなりません。主イエス様のお心をこころとしましょう。神はどのような人も不必要に長く苦しむのをのぞまれません。今日,助けることのできる事は、今日しましょう。

 

結び)私たちはサタンの束縛から解放してくださる主をしっています。解放されたからです。この主を中心に全ては巡っていきます。このお方を紹介し、あかしし、み名による祈りをささげて、このお方のお心を実現してまいりましょう。

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