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2012年4月29日 ルカ11:1−4「主のいのり」シリーズ2「み名があがめられますように」

2012年4月29日 ルカ 11:1−4 「主のいのり」シリーズ2

「み名があがめられますように」

序文)先週「天の父よ」と呼びかける事柄の意味のすばらしさを説明しました。永遠の神、力ある方、愛に富まれる方、聖なる神、このお方がイエス・キリストにあって父となってくださった。神様の子供たちとされた私たちのために父として深く豊かな配慮をもって、摂理的に働いてくださっていることを知りました。

今朝は「み名があがめられますように」を学びましょう。

 

Ⅰ 私たちの祈りにおいて、第一番目に祈ることは、父なる神の栄光にかかわることです。「み名があがめられますように」

今、祈っている自分がどのような状況におかれていても、自分自身のことから祈り始めるのではありません。

最も重要な一番目の祈りは、神のその威厳と栄光への関心をもって祈ります。「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。」との生活の大原則が祈りにおいても実践されねばなりません。

そうするなら、神のことを思わないで祈った全てのことよりも、はるかにまさったものを得ます。私たちは神に仕えているのであって、神が私たちに仕えているのではないからです。私たちは主のしもべ、はしためにすぎないのだということを忘れてはなりません。

ここで「み名があがめられますように」と最初に祈るように、主イエス様が教えられたのはなぜか。それは人間が神様について多くの間違った考えをもって、神の栄光と神のみ名を汚し曇らせているからであります。

神に、神としてのふさわしい栄誉が帰せられる事を願うようにと、お教えになったのは、人がそのようにふるまっていないからです。

祈りのはじめは、このことだよと、主イエスさまに教えられることは、私たちの恥なのです。神様への不敬虔と自分を神とする思いに従って行動し、神に帰するべきさんびや告白がないのです。

私たち日本人は古来、八百万の神々に祈りをささげる風土の中で育ってきました。各人は自分の都合のいい神々を選び、その神々に向かって通過儀礼にしたがって祈りをささげてきました。日常生活ではいくつかの神々が必要でした。それはごく自然に自分の為に存在する神々という風で、必要ならばその時々に応じた神々を作ることさえしてきました。

このような神信仰が、祖先崇拝と結びつき、支配者の宗教である天皇崇拝と結びついていったのです。それによって、日本人の神々信仰の中に倫理道徳的な側面が初めて備えられたのです。この結果、日本人はたてまえとして支配者宗教である天皇崇拝を前面におき、後ろに、本音として土俗宗教としての神々崇拝をおいて信仰をしているのです。

唯一のまことの生ける神、キリストにおいて救いを与え父となってくださった神をさまざまな偶像や被造物にすりかえて、また、人間崇拝をもって良しとしたのです。

この点で、わたしたちは「神のみ名」を汚し続けてきたわけです。

 

ここにあらためて「み名があがめられますように」と祈ることは、日常生活での神への汚しごとを反省させ、当然、まことの神様に帰すべき栄光と聖さを、神の前に求めることなのです。

 

Ⅱ ことばの意味

「み名」とは何か? ユダヤ人にとっては、「み名」とは「神ご自身」にほかなりません。普通に「神ご自身」をさすときの表現方法でした。神の偉大さ、神聖さを思うと、自分たちがあまりに小さく、いやしいので、神の名を口にすることさえ恐れおおく感じたのです。エホバといい、ヤーウエーといっている名は正確に発音することがわからなくなってしまったほどに、彼らは神のみ名を口にしなかった。その代わりに「み名」と神様の事を呼んだのです。

名前はそのものの本質、本性を示します。人格、個性を表現します。さらに、そのものの実質を象徴するのです。主イエス・キリストといえば、釈迦でも日蓮でもない、主イエス・キリストなのです。

「神のみ名」 神についていえる全部のことです。啓示されている全て、その属性のいっさい。本質の一切、神のなさったこと、なさろうとしておられることの一切、全ての全てを含めての神です。主イエス・キリスト様が天の父に祈られたときに「わたしは、あなたが世から取り出してわたしにくださった人々に、あなたのみ名を明らかにしました。」ヨハネ17:6といわれました。これは弟子たちに主イエス・キリスト様が単純に、神のみ名を教えたということでなく、父がいかなるお方であるかを明確に示してくださったということなのです。

「あがめられんことを」とは、原語(ハギアソート)「聖別する、神聖にする、崇拝する」で、ここでは「み名が聖別されますように」

聖別とは「何かを切る」という意味があります。刀で何かを切る。切ると二つになる。言い換えると聖なる区別、即ち聖別です。イスラエルの民が「聖なる民」といわれるのは、神が全人類の中からイスラエルを切り分けられたからです。クリスチャンのことを、新約聖書で「聖徒」といっていますが、多くの人々のなかから神の子たちとならせるために、神が聖別されたからです。ですから「み名があがめられんことを」とは「み名を聖とせよ」。神の絶対性、尊厳性、超越性、神のなさること全て、人間のようにではなく、聖別された方、聖別されたこととせよ、ということになります。

 

Ⅲ 人間社会において、み名があがめられますように。

さて、この祈りは、わたしたちの祈りですから、当然、この願いは、人間社会の中で「み名があがめられますように」ということです。

私たちの生活の中で二つの事に注意を向けましょう。

① 私たちは神様にたいして、正しい関係と、正しい姿勢を自ら取ることです。神を神とする、そうしないと間違った信仰理解と偽善的行為によって、神のみ名を汚すことを行ってしまいます。

神様をさしおいて、みことばを飛び越して、人間の教えや自分勝手な考えを第一にしてゆく姿勢が偽善を生みます。日常生活のさまざまな局面で、神様に対して真実に振る舞っているかどうか、この祈りを実現してゆくきめてになります。

② この祈りは、他の人に対する正しい関係と正しい生活を要求しています。倫理的な意味を持っています。「み名が聖別されますように」と祈り、神様に対して真実をもって信じ、従ってゆくとすると、自ずと他の人にも真実でなければならなくなってゆきます。

クリスチャンは熱心に教会に来ていれば、それでよいというわけではありません。熱心に聖書を読み、立派に奉仕していればそれでよいというのではないのです。それが具体的に他の人々との関係に生かされて真実でなければならないのです。

他の人々に対して不真実な態度振る舞いをしたら、それによって神様のみ名を、神様を知らない人々の中で汚してしまうことが少なくありません。

私たちは自分が思っているよりも。言葉と行いとにおいて不真実で、神様を汚しています。この罪を言い表して赦しを求めましょう。

結び)主イエス・キリスト様は私たちが考えているよりも愛に富、赦す事に置いて深い方です。その十字架の犠牲の愛を信じましょう。

父なる神様は、今年一年間、どれほどまで栄光を現そうとされたでしょうか。一つ一つ思い出して、栄光をみ名に帰しましょう。これから共に祈りたいと思います。週報に記されている一年間のめぐみと祝福と忍耐に感謝して、主を褒め称えましょう。

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