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2012年4月15日 ルカ10:38-42「どうしても必要なことは?」

2012年4月15日 聖書朗読  ルカ 10:38-42

聖書の話し    「どうしても必要なことは?」

 序文)先の受難週、イースターでヨハネの福音書を取り上げました。今朝からはルカの福音書の連続講解説教に戻ります。それで、38節のすぐ前はどのような記事であったでしょうか。それは律法学者がイエス様をテストして「永遠のいのちを自分のものにするには、何をしたらいいでしょうか」と質問したこと、それに対して、良きサマリヤ人のたとえと言われているお答えをなさった事が書かれていました。つまり永遠のいのちは、どのように受けることができるかのつづきの記事と38節からはなっているのです。

 イエス様の一行は、エルサレムを目指していました。いよいよ近くにきて、ある村にとどまられたのです。他の福音書によれば、そこはベタニヤでした。ベタニヤはどこか? エルサレムの南東約2.8キロ(ヨハネ11:18。15スタディオン)、オリーブ山の東のふもとにあった村です(マルコ11:1、ルカ19:29)。イエスはこの村をよく訪ね、特にその生涯の最後の週には、ここからエルサレムへ通われたと考えられています(マタ21:17、マコ11:11‐12等)。そして、その村に住むマルタ、マリヤ姉妹、ラザロ兄弟3人の家に滞在されました(ヨハ11:1、12:1)。永遠のいのちをえるための示唆が、この箇所にはあります。

また主の弟子となった二人の姉妹がたの、信仰の表現が,互いに補い合って、主の栄光を表していることに気づかせられます。

Ⅰ  出来事の描写

1 38節 まず、イエス様一行がベタニヤにはいられると、マルタが喜んで家にお迎えしたことです。彼女は、イエス様の事を「主よ」と呼んでいます。主イエス様を歓迎して家に招く事は、初めてでなかったのでしょう。イエス様はユダヤ伝道の時この一家と親しくなり、また彼らを愛していた(ヨハ11:5)。また、時々この家に招かれていたと思われる。今回も喜んで招かれました。

自分の家に主を招く事は、救いに至る道です。今ならば、自分の心の部屋に主を招き入れる事に通じます。心の扉をたたいておられるイエス様を、家の外に立たせたままでは、永遠のいのちは手に入りません。「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは,彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(ヨハネ黙示録3:20)マルタはいつものように喜んで迎えました。

2 39節 「彼女にマリヤという妹がいたが,主の足もとにすわって、みことばに聞きいっていた。」この表現は、「律法の先生に弟子入りする」、「先生について習う」と言う事を意味しています。主イエスさまの話されるみことばに聞き入っていることは、熱心な求道姿勢です。永遠のいのちをえるために、主のみことばに聞き入る、習う、弟子入りすることが近道です。それが信仰を呼び覚ますからです。マリヤの主イエス様への愛は、みもとでみことばに聞き入るという姿勢で表されました。

3 40節「ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。」「みもとに来て言った。」は、原語では、「突っ立って言った。」「爆発して」「激して」です。 イエス様に立ったままで、激しく言ったのです。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように,妹におっしゃってください。」

マルタという名前の意味は「女主人」です。主客に対して、突っ立って言ったこと自体礼儀に反しています。それも、私だけが忙しくしているのにと訴えています。本当ならマリヤに文句をいうはずでしょう。それがイエス様に言わせようとしています。もてなしどころではない、風情ですね。

 

Ⅱ イエス様の対応 41−42節

1 イエス様はマルタに「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。」といわれました。優しい呼びかけですね。イエス様は、ダマスコ門外で、あの迫害するサウロをパウロに変えるとき「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかけました。はっと気づかせようとするときに、名前を二度重ねてよびます。呼ばれた人は、取り乱している意識を、はっとして落ち着かせられるのです。マルタはヒステリックになっていた可能性がおおきいのです。

2 41節 「いろいろのことを心配して気を、使っています。」「気を使っています。」原語では、心の中に「不安」があり、それが外に表れて政治的、社会的不安をアジテーション、煽動、世論に訴えること等を示す言葉です。マルタは、もてなしのために忙しく立ち働いているうちに、イエス様に妹のことを、激しく訴えています。彼女の心の中で不安、不満があって、それが外に現れて、アジっているのです。主は彼女の心の動きを示して、落ち着かせようとしています。イエス様の穏やかさ、優しさは、福音を聞く者のこころを静かにさせます。みことばが心に届くために、今置かれている状況を正確に示し気づかせます。

 

3 「しかしどうしても必要なことはわずかです。いや一つです。」原語では

「食事のために、おおくのお皿がいると思って心配しているが、いるのはただ一皿です。」と言われた。イエス様はマルタの空騒ぎにたいして、どうして欲しいかを言われた。それはマリヤのように「どうしても必要な一皿だけ」を選んでもらいたいと言われた。

実際は、マリヤが良い方・一皿の方を選んだといっている。それは主のみことばのもられた皿であった。と理解している。良い方を、すなわち「ベストのお皿」と言う意味である。イエスとともにいることです。

これは比喩的な教えになっている。イエス様はマルタの「空騒ぎ」ではなくて、マリヤのこころの位置を選ばれた。永遠のいのちをえるために、みことばに静まって聞く事により、救いの主客であるイエス様からもてなしていただけるように心を開いて迎え入れましょう。それは、マリヤだけではなく、マルタにも大事な事でした。

 

Ⅲ この後のマリヤとマルタの成長ぶり

1 ヨハネの福音書11章20-44では、死んだラザロがよみがえった奇蹟が記されています。マルタはここでも、ラザロを救おうとしておいでになったイエス様を出迎えます。そして、「主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言いました。その結果重大な約束の言葉を私たちは聞くのです。「私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決してしぬことがありません。」行動的なマルタがこのイエス様の素晴らしい言葉をいただいたのです。

マリヤは、家の中にいたのですが、姉からイエス様がおいでになったと聞いて、会いにでかけます。そして足下にひれ伏して、マルタと同じ事を言うのです。32節「主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」二人は主イエス様に、同じ事をいいましたが、マリヤのことばを聞かれたイエスさまは、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」られました。そして「涙をながされた」(11:35)のです。そして、ラザロは生きかえらせていただきました。

2 ヨハネ12章1−8 イエスさまが、最後の過越の祭の為にベタニヤにこられたとき、人々はマルタ、マリヤ、ラザロの家で晩餐を用意しました。イエス様に給仕していたのは、例によってマルタです。万端整ったもてなしがありました。盛んな晩餐の途中、マリヤの感性は、何かがかけていると感じていました。300デナリもする高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪の毛でぬぐったのでした。彼女は高価な香油を主イエス・キリスト様の頭にそそぎかけました。1デナリが一日の労働賃金だったのです。今の一年分の給料に相当するのです。

ところが、この有様を見ていた弟子たちが非難しました。「何のために、こんな無駄使いをするのか。それを高く売って貧しい人達に施すことができたのに」とマリヤの行為はそばで見ていた人々(常に傍観者から出る言葉です)には、大変な浪費と映ったのでした。「むだにする」とは、必要以上を与えることです。あまりにも小さなものに、あまりにも多くを与えることです。弟子たちは、主イエス・キリストに対するマリヤの奉仕を「むだ、もったいない」というのです。この出来事の後でユダは主イエス・キリストを銀貨30枚で敵方に売り渡しました。

このような意見は世間の代表的な意見で「信心もほどほどに、そんなに入れこんではいけない。クリスチャンになって、人生を無駄に過ごしてはいけない。クリスチャンでなければ出世するのに。日曜日ごとに集まるなんて時間の浪費である。」クリスマスとイースターと特別な時だけ行けばよいのだ。献金をそのようにするのも無駄だ。そのような大金を使うなら、社会福祉にでも寄付したらいいのに。

何事であれ、主イエス・キリストのために熱心に仕えることは無駄であるという考えです。しかし、もしわたしたちの主が、それに値するおかたであるなら、世間がなんといおうが問題ではないのです。ことがらは心のなかの優先順位の問題です。

第一に、神様はあまりにも罪深い人生を送っているわたしたちのために、ひとり子主イエス・キリストをくださって十字架の上で身代わりのいのちをささげてくださったのです。

無駄というならこれほどの無駄が他にあるでしょうか。自分のいのちを、罪深く自分勝手な道にさまよっている者のために注ぎ込む、これほどの無駄はない。神様は敵対し、罪にさまよっている者達のために最愛の御子をささげてくださったのです。

この主の愛に答えようとしているわたしたちにとって、主にためにささげるすべての心遣い、働き、捧げものが無駄というようなことは一つもありません。主はいわれました。「この女のするにまかせよ。」真に主イエス様の愛を知るものは、主に対して良くしすぎるということは全くありません。常に足りないぐらいです。いや程遠いのです。

この出来事について、当のイエス様は彼女の愛の行為を感謝し、これは自分の埋葬の準備であると告げられたのでした。主は「あらかじめ」とおしゃいました。復活の朝、主の体に香油をぬりにいった女性たちは、目的を果たすことができませんでした。肝心の主が復活されたからです。だから、たった一人マリヤだけが、あらかじめ葬りの油を注いだのでした。教会の歴史にとって「丁度今」でないと、主のためにできないことがあります。後ではもうチャンスがないというような奉仕もあります。13節「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、」

主のための奉仕は、主ご自身に仕えることから湧きでます。この女のしたこと、そして、私が喜んだことが、語り継がれる。主イエス・キリスト様が全面的に彼女を受け入れてくださったことを忘れないようにしましょう。「この人の記念となるでしょう。」長く記念されると語られました。主がこのように喜んでくださった。主のために良きことをしよう。美しいことをしよう。

結び)以上のような二人をみると、マルタは敬虔主義的、マリヤは神秘主義的であるとよくいわれます。私たちは自分を囲む見える世界のほかに、心のなかにもう一つの世界がある。それで内なる世界を、外の世界を美しくするための準備室として用いることもできるし、また、外の世界から退いて自分の内なる世界に避難する事も出来る。これらは両極端で、大抵は中間をいったりきたりしている。どちらかというと外の世界に出てゆくことを好む女性と、内にこもることを好む女性がいる。外に活動的であることを好む女性がクリスチャンになると敬虔主義的な女性となる。自分の内に退くことを好む女性は神秘的な甘美さに浸ろうとするだろう。あなたを支配しているのはどちらの傾向だろう?

環境の影響を考慮に入れたとしても、気質的、本能的な傾向と言えるので、自分は此方だと決定してしまう事には注意したほうがよい。また、敬虔主義的な女性が神秘主義的な女性を裁かないようにしよう。 逆もまた真である。

どちらのタイプも権利を持っている。どちらが欠けても世の中はうまくいかない。ベタニヤのマリヤはそういう意味ではイエス・キリスト様の友人群の中では独特な地位を占めている。彼女は深い内なる思いをだく女性を代表している。彼女は他の人が見ていないものを見ていた。静かにすべての事柄を見ていた。

イエス・キリストはマリヤの言動に心を動かされた。然しだからといってセンチメンタルな病的な神秘主義的傾向をよしとされたのではなかった。マリヤはそれとは違っていた。マルタもまたほめられている。重大な真理をイエス様から聞くことができた。

教会の光のために油を供給する人々もいれば、それに点火する人もいる。神様にみことばを聴き、祈りと瞑想をすることでさらに聖霊の働きを豊かに受け取る人々もいるし、活動に転じることで聖霊の働きを自分の身を通して展開して行く人もいるのです。

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