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2012年7月29日 礼拝

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2012年7月29日 説教個所 ルカの福音書 11:29-36

「全身が明るくなる」

序文)主イエスは、ご自分が働きをなさっていた時代を「この時代は悪い時代です。」(29節)と言われました。それを説明して「しるしを求めている」といわれました。前後文脈として11:16の「イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。」と言う事へのイエスさまの答えでした。人間が神の遣わされたメシア・救い主キリストを試みて、その証拠のしるしを見せよと問いかけているのです。先週も学びましたが、今の時代でも、同様に、イエス様に対して、またその信仰集団であるキリスト教会に対して、不思議なこと、奇跡といわれること、しるしを求めて、あるいわ、そのようなことをしてみせるといって人々を自分に引きつける存在があります。人が、主イエス・キリストさまによって示された、神の救いのご計画とそのめぐみだけでは信じられないというのです。何か異常なもの、超自然的なもの,神秘的な体験によらないと信じられないというのです。それは根本的に,神様の救いの方法と、お働きに不信を示しているのです。そのような姿勢に、主イエス様は、答えます。

 

1 主イエス様の答え

さて「しるしを!」と迫られた時,イエス様は二つの答えをなさいました。

1 「ヨナのしるしのほかには何もしるしは与えられません。」しるしは証拠と理解してよいのです。イエス様を神の子救い主と信じるための目に見える証拠です。それも、人々の求めは、「天からのしるし」でした。イエス様はヨナのしるしがあると答えられました。ヨナは紀元前8世紀に北イスラエル王国にあらわれた預言者です。旧約聖書のヨナ書に彼の体験がつぶさに載せられています。

当時 北イスラエルを脅かしていたアッスリアの首都ニネベに行って、悔い改めを説き、神の裁きが近づいていると宣教するようにと、ヨナは命令を神から受けました。彼はイスラエルの敵国ニネベが滅びることこそ、望んでいたので、救う事等とんでもないと、ニネベに行かずに反対の方向のタルシシに行く船に乗り込んで,神のみ前から逃亡したのでした。神は船旅の途中で、大嵐をヨナの乗った船に見舞い、おおいに船は揺さぶられ沈むばかりになったのです。

ヨナは舟底で自分のために神が怒っておられると悟りました。少しの劇的経緯ののちに、彼は船から海の中に投げ込まれました。其の時,海の嵐は静まり、ヨナは神の備えられた巨大魚に飲み込まれました。三日三晩魚の腹の中にいたのです。三日目に神が魚に命じて,彼を吐き出させました。そこはニネベに近い陸地でした。ヨナはニネベにゆき「40日したらニネベは滅びる」と町中を説いて回りました。その結果、ニネベの人々は王様を始めとして悔い改めて心を入れ替えたのでした。神は裁きを思いとどまられました。

三日三晩海に沈んで死んだはずのヨナが,不思議にも生き返ってきて、海中から出て来た。そして、あかしをこめてヨナがニネベに伝道したので、人々は彼の事を神からの人だと信じて悔い改めたのでした。

同じように、人の子(イエス)も、この時代に対して「しるし」となるからです。イエス様が十字架の上で死に、三日目によみがえるとき,本当の神の子救い主としての力を発揮するのです。三日三晩イエスは地の中に死んで葬られたのに、三日目に死人の中からよみがえって来られると言う証拠が、この時代にたいする最大の証拠・しるしなのです。人々はこのイエス・キリストの復活によって信じなければなりません。

イエス・キリストが救い主である事を示すしるしは、この復活の事実にあるのです。ところが,時代は,しるしを示されても、あれを見せろ,これを見せろよ、次々と要求してくるのみで,一向に信じようとしないのです。人間の不信仰の根深さがあります。人々はセンセーショナルものを愛するが、神を愛し、信じようとはしないのです。

 

2 さて、イエス様の第二の答えは、31-32節です。イエス様にしるしを見せろと迫った人々は,実はまだイエス様の復活が起こっていない時代の人々でした。それで主イエスは30節「人の子が、しるしとなるからです。」といわれました。しるしはヨナのこと以外に、まだ起こっていない事として語られたのです。では、彼を信じられないのは、無理もないことでしょうか?実は復活を知らなくても,イエスを信じる事ができたし、信じなければなりません。

南の女王の例を考えてみましょう。彼女がソロモンの知恵を聞くために地の果てからはるばるエルサレムにやって来ました。(列王第一9−10章)。ソロモンが豊かな知恵と武力により、紅海の付け根にあるエジオンゲベルに大貿易港をもうけて、インドとの貿易を始めました。そのために、アラビア半島の南端にあったシバの国は、今まで貿易の中継地となっていたのが、だめになり、大損害を被るようになりました。それで、シバの女王は、うわさによると知恵深い名君と聞いているソロモンに直談判をするためにはるばるエルサレムまでやって来たのでした。彼女は異邦人でした。商売敵でした。しかし,ソロモンのうわさを聴き、その知恵を聞くために旅をして来たのでした。

さて、しるしを見せろと言っている人々は,目の前におられるイエス様はソロモンよりも勝っているお方ですと認めるべきでした。

次にニネベの人々はどうだったでしょうか。異邦人でした。彼らが敵国イスラエルの預言者の言葉を聞いて悔い改めました。自分たちが信じてもいない神の遣わした者を迎え入れ、そのことばを聞いて信じ,生き方を改めたのです。その内容は「ニネベは40日たったら滅びる」という耳障りの良くない内容でした。彼らに取ってはおどしのことばだったのです。なのに、ニネベの人々は受け入れました。さて、人々よ,目の前にいるイエス様はヨナよりもまさった者です。

ソロモンより勝り,ヨナよりも勝る方が目の前におられるのです。

どの点でまさっておられるのでしょうか?

すなわち、彼らイスラエルは選民であって,シバの女王や、ニネベの人々のように神を知らない異邦人ではなかったのです。神の救い主の約束を知っていたのです。この神を信じる人々だったのです。しかもメッセージを伝えたイエス様は,敵国人でも商売敵でもないのです。彼と同じイスラエル人です。さらにイエスの宣教はおどしや威嚇ではなく、救いの喜びのみわざの福音でした。おまけにイエス様に聞くためにはるばる旅をしてこなくてもよいのです。目の前に神から遣わされてきて,立っておられるのです。その教えと働きはうわさとしてではなく、明瞭に彼らの耳にとどき、目の前で数々の奇跡まで既になさったのです。

人々はどうしたのでしょうか。彼らのシバの女王のような求める心があったらば、すぐにもイエス様を信じたでしょう。ニネベの民のように自分たちの非を悟り,素直に悔い改め,神への恐れの心があったなら,イエスのみ声を喜んで信じうけいれたでしょう。

異邦人でも、ただの宣教のことば、それも40日したら滅びるとか,風のうわさに聞いた事柄で十分だったのでした。まして神の選民はしるしなしでも復活の証拠なしでも,旧約のヨナの例だけでも十分であり、イエスから直に聞いただけでも十分であるはずです。なのに,彼らは信じなかったのです。罪に定められるのは当然です。

 

2 では、今の時代の,私たちはどうでしょうか。 33-34節

神は福音のあかりを全人類に見えるように燭台の上に掲げられました。ベイタウンの人々にも見えるように掲げられました。今朝、人々は求めさえすれば福音の光に接することができます。聞く機会があります。絶好の機会に恵まれています。かの時代の人々よりもはるかに比べるべくもないほどの好機と特権に恵まれています。

それに、イエスは事実、三日目に死人の中から復活されたのでした。その結果として教会が今日までも、なお存在し,働き続けています。あらゆる者にまさるお方イエスは、明白に世の光りです。隠されているのはありません。最大のしるし復活を信じ枯れなかった弟子のトマスのために、主はわざわざ現れて,手と脇腹を示して、「信じないものにならないで,信じるものになりなさい。」と言われました。この復活のイエスを見ないで信じる者は幸いです。

ニネベの人々や、シバの女王のように復活がまだ起こっていない時にも,信仰を表すことができた。また、復活が起こったあとも、それを自分の目でわざわざ確かめて、証明しなくても、その目撃証人のことばにより、信仰はもてるのです。キリストを信じるものに不可欠なものは「しるし」では無くて、宣教のことばです。みことばの説教です。みことばは、「わがあしのともしび、わが道の光です。」(詩篇119:105)福音は今や全世界に語り伝えられた光で、かがやいているのです。第一コリント15:1-8.

この神のみことばを聞くことから、信仰は生まれます。そして今まで見えなかったものが見えるようになり、罪のための心の暗やみに光がさしこみ、全身が明るくなるのです。主イエス様のいのちが宿り全身に満ちあふれるのです。このお方を信じましょう。信仰の目が健全にイエスを見つめており、実言葉を受け入れましょう。聞いているならば、あなたの全身は明るいのです。

 

3 既に信仰に入った人々への警告と励まし 35-37節

主イエス様からすでに受けた内なる光,信仰の光を暗くするなということです。光を受けながら最大のしるしと最大の神の知恵を「神事ながら、信仰の光を暗くし、聖霊の油によってもやし、輝き続ける事をしないならば、からだ全体が真っ暗になって、脱落し,キリスト教を捨てて行く者が多いのです。

世の光であるキリストの輝きは,隠されてはいません。輝いているのです。人のことばに乱されず、主イエスのことばを心に入れて照らされ無いといけません。みことばの光は私たちのまわりにあふれているのに、その中にいながら、不信仰に逆戻りして、光が見えないといっているなら、これほどの悲劇はありません。

また、しるしを見せろとみことばの宣教から迷いでて、いくのなら、それはニネベの人々にさばかれるのです。神は人々の求めるしるしに対して、主イエスご自身を持って答えられました。これ以上を求める事は,もはや,信仰ではなく、神への不信仰です。

もしあなたの全身があかるくて,何の暗いところもないなら、その全身は丁度あかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。そのありさまは,主イエスが、あなたがたは世の光りですと言っておられるようになります。光であるイエスを信じ,従い、みことばに聴き、したがってゆくとき、その人が光となり、あかしの輝きがますのです。そのように主イエスを輝かすものを通じて、また他の人々が、光りなるキリストに導かれて、みことばを聞き救いにいれられるのです。あなたの耳元に語りかけられることばが、神の生きていることばなら其れによってあなたの心はかがやくでしょう。しかし,それが人間の発する不信のことばであれば、その結果あなたの全身を暗やみが覆い隠すでしょう。自分がどこに行くのかわからなくなるでしょう。

結び)ヨハネ12:35-36,46

 

 

 

 

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