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2012年7月8日

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2012年7月8日 聖書朗読  ルカ 11:5-13

聖書の話し    「求めよ!捜せ!たたけ!」

 序文)主の祈りを学び終えて、次に主イエス様が弟子達に教えられた事は、「神様への祈りの態度」であります。また、天の父が与えてくださろうとしている,素晴らしいいのりの答えについてです。祈りは、実践する者に、真の力を神様からいただくのです。 

Ⅰ 求めよ! 5-10節

1 私たちは普段の信仰生活でどうもピリットしない、祈れない、あかしができない、というような「無い無い尽くし」に落ちっている自分に気がつく事があるでしょうか?全く自分は、どうも、と言う風で、愛想を自分につかしている。私なんかは、としょげかえり、くよくよと悩む。あるいは、自分の状況を忠告してくれた兄弟姉妹をけむたがり、うらみがましくおもったりする事があるでしょうか?

主はたとえ話しをもって勧めをしてくださいました。必要が目の前に起こったのに、自分には出してやる物が無いのです。真夜中にやって来た旅人を,なんでこのような時刻にとうらんでみても始まらない。くよくよとしても旅人をもてなすことができるわけではない。そうだ!自分のところにはないが、友達ならば何かあるかもしれない。パンを二つ貸してもらおう。友達の家にゆきました。真夜中です。当然「めんどうをかけないでくれ。戸締まりもしてしまったし、子どもたちもわたしも寝ている。起きて何かをやることはできない。」(7節)と返事がありました。

イエス様がおしえられた大切な事が次に記されてあります。「あくまでも頼み続けるなら、ついに相手は必要な物を与えるでしょう。」ということです。祈り求める執念と忍耐です。

過去の失敗ばかり見つめて,無い無い尽くしの思いに捕われやすい、わたしたちにとって、この主イエスさまの教えは、未来に向かって目を向けさせます。「あくまでも頼み続ける」とは、主イエス様のことばによれば「求めなさい、捜しなさい、たたきなさい」ということです。祈りも泊めるさまざまな形があって、自分の課題に応じてしきりと願うようにというのです。

求めよ!自分のほしいものを要求する祈り。祈り求めがはっきりとしている。それはひたすら祈りつづける。教会は新五カ年計画を立てて、徐々に実施しようとしている。先週から二回礼拝を試みている。ラミークラブも分級を試みている。求道中の方々に救いが明確に届くように。信仰決断している方々が洗礼に、信仰告白にいたるように。この町に福音が満ちるように。教会の経済的な支えのために、予算が満たされるように。個人的な願いではっきりとしている事は求めよ!と主は言われる。「君パンを三つかしてくれ」

願っている事がはっきりとしているのです。

2 捜しなさい! 何を求めれば良いかが分からない。自分に何がかけているのか、がわからない。そのような場合は捜しなさい。足を運んで、捜すために、いろいろの教会の集まりに来て見る。何が足りなくて、自分の求めが具体的にはっきりしないのかを捜してみつける。ただ家にじっとしていて、くよくよとなやみ続けるだけは,何も見つからない。変化が起こらない。判断をくださす資料も、良い知恵も浮かばない。停滞している気分をかえるためには、何を祈るべきかを捜す。

また、別の面では、求めていることが、どこで手に入るかを捜すということもある。求めははっきりとしている。「パンが三つ」どこで手に入るかを捜す。友人の家に行った。「この聖書を読んでみよう。」「あのセル集会にでてみよう」「教会図書の信仰書に何か答えがあるかもしれない。」「同じ経験をしている信徒がいるかもしれない」

3 門をたたきなさい! 時にはあまりにも自分が罪深く弱いために天国の扉が目の前でぴしゃりと締められていると感じることがある。外に掘り出されてしまったような絶望を感じることがある。孤独感がつのるのです。そのような時にも、門を叩き続けなさい。

ようするに、自分に与えられた課題を解決してゆくために,祈りの置いてあらゆる手を打ちなさいと、主は勧められているのです。「あくまでたのみつづける」とう、そういうことでしょう。教会は、このような祈り、何が何でも心を合わせて必要のために必死で祈るとか、あちらこちら探しまわるとか、門をたたきつづけるとか、言う事を信徒一同心を合わせて行わなければなりません。

Ⅱ なぜか?

なぜそのように求め、捜し、たたくのが良いのか?

1 それは,主イエスさまが「求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者は開かれます。」と約束してくださっているからです。ここに神の保証があるからです。祈り求め、捜し、たたく者は、かなえられるのです。そのように確信して疑わないで求めましょう。

ヤコブ1:5−8「あなたがたの中に知恵がかけた人がいるなら、その人は、だれにでも

おしげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」

2「だれであっても」と主は言われました。あくまで頼む者は,誰であっても、そうです。

求める者はだれでもです。主に信頼して「天のお父さん」と求める者です。子どもも、成人も、信じて間がない者も、成熟している者も、「だれでも」です。

3 このような信仰をどのようにしてやしなうことがえきるでしょうか?

11-13節.子どもが魚をくださいと言う時、父親は魚を与える。代わりに蛇を与えたりはしない。卵をくださいというとき、卵を与えるよりもサソリを与えたりはしない。わたしがたとえ悪い者だとしても、自分の子どもには、その求めに応じて良い物を与える。わたしがよい者だったら、なおのことそうでしょう。それならば増して完全な天の父は、求める子たちに対して、それ以上のものをくださらないことがあるだろうか。

主の祈りで学びましたように、私たちは、主イエス・キリスト様によって「天の父よ」と呼びかけていのることができるようになったのでした。確かに天の父はこどもたちのために最善をしてくださるのです。求め、捜し、たたき続ける神のこどもたちのために、天の父は愛と配慮を豊かに払ってくださるということなのです。

Ⅲ 聖霊をくださらないことがあるでしょうか?

このように祈り求めるものへの,神のお応えを汲み取る時に、聖霊をくださらないことがあるでしょうか、との主イエス様のお応えがよくわかります。

神はいっさいの良きものの源泉である聖霊をくださるのです。この聖霊様こそが、父なる神とわたしとの結びを保っていて下さるお方なのです。

実はヨハネ7:37-39をごらんください。主イエス様がこの地上に救い主として全面的にはたらいておられたときには、聖霊は表立ってはおられませんでした。しかし主が十字架の贖いをなしとげ、死に葬られ、復活なさり、天に戻られたときに、約束の聖霊はペンテコステの時にみ父とみ子から、地上に遣わされてきました。主イエスを救い主と信じるすべての者のうちに宿っておられるのです。以来、人が信じる時に聖霊は信徒の中に住み、祈りの霊としてとりなしを開始されました。信徒が聖霊の力に満たされ「その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が涌き出す」(ヨハネ4:14)のです。

神様は、私たちに「聖霊に満たされなさい」(エペソ5:18)と命じておられます。神が私たちに聖霊を満たしたいと願っておられるのです。それで命じておられます。私たちが神の子としての健康とたくましさを身につけてもらいたいと願っておられるからです。いつまでも、うじうじと、後ろ向きで、座り込んでいてもらいたくないと、お考えなのです。私たちをきよめ,自由にし、み子のすがたに似る者とし、聖霊のみちからと、いのちと喜びに満たしたいと願っておられるのです。神は実に私たちのうちに住まわせた聖霊をねたむほどに慕っておられるのです。そうであるならば、私たちは聖霊に満たされる事を求めよう、捜そう、たたきましょう。

御霊に満たされる事は、私たちが聖霊をもっていることに気づくと言った事ではなくて、聖霊が私たち自身をご自分の所有としておられるのだとわかることであります。それは自分の全部を神にゆだねることで、神がゆだねた全部 を所有される事を意味しているのです。「もし

あなたが信じるなら、あなたは栄光を見る。」(ヨハネ11:40)

祈り求めましょう。そして与えられましょう。与えられたと信じましょう。生活の全般にわたって広く、強く、調和に満ち、発展過程において輝き、他の人に伝えられて行く豊かないのちがあなたからながれだすでしょう。

御霊は私たちをきよめ、他人の関心を引きつけるようなみ力を、わたしたちのうちに働かせてくださる。賛美や感謝の礼拝を保つ事ができるのです。

これに勝る幸福はないのです。

 

結び)求め、捜し、たたく者は、日々に豊かないのちにと、あづかり、聖霊に所有されている自分自身を発見して、そのいのちの幸福にみたされます。これにまさる善きものはありません。神様がそうしたいとひとりひとりのために願っておられます。かみのこどもとされた、わたしたちは、祈らなくてよいのでしょうか?

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