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2012年2月5日 ルカ 9:49-56「真の寛容と柔和」

2012年2月5日 聖書朗読  ルカ 9:49-56

聖書の話し    「真の寛容と柔和」  廣橋嘉信

序)今朝の聖書箇所は、前節の主題「謙遜」(48節)を引き継いでいます。主イエスに「反対しない者」と、「受入れなかった者」とをめぐる、弟子たちの対応が書かれています。継いで弟子たちの対応に対するイエス様の答えが書かれています。そして、これら文脈の根底に教えられていることは、謙遜をおしえつつ「真理問題への寛容と柔和」についてです。ことばの説明を先にします。寛容–ギリシャ語でマクロスミアといいます。マクロは「長い」シュモス「こころ」苦難、困難に遭遇した時の忍耐として使われますが、特に神様が私たちかたくなな人間にたいして示された忍耐としての寛容を示すのに用いられます。柔和–謙遜は柔和と優しさを生じる。柔弱、優柔不断とは違います。へりくだりからそれらは来る。

Ⅰ 真の寛容 49〜50節

主イエス様が「わたしの名のゆえに、幼な子をうけいれる者」の重要さを語られたのを聞いた、弟子ヨハネは、「イエスの名のゆえに」ということの大切さを心に思いめぐらしました。そして、以前、ガリラヤ伝道に自分たちが遣わされたときの経験を思い出しました。主イエスさまに、その時に自分たちの取った態度が正しかったのか、どうかを尋ねました。「先生、私たちは先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、止めさせました。私たちの仲間ではないので止めさせたのです。」(49節)弟子たちがガリラヤ伝道に遣わされたときに、彼らは病人をいやし,悪霊を追い出し、御国の福音を宣べ伝えていました。そこで、同じように彼らのまねをしてイエスの名を用いて悪霊を追い出している者に出会いました。この男は、良い働きをしていたのです。そして、イエス様に対して最大の敬意を表していたと考えられます。イエスの名を用いるのに、自分の利益の為にする人がいるかもしれません。しかしこの男は、そのような人物だったかどうかは分かりません。弟子たちの働きや、イエスの働きに感銘を受けて自分も見習いたいと思っていた人である可能性があります。

ところがヨハネたちは、彼の性質とか、どのような心で、そうしているかは問いませんでした。弟子たちは、彼を自分たちの仲間ではないというだけで、外面的で、偏狭な考えで退けました。

ヨハネの問いかけに対する、主イエス様の答えは「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」(50節)

弟子たちが、なぜ、男を退けてしまったのでしょうか?弟子たちは、イエスの名によって悪霊を追い出す力を独占したがっていたかもしれません。彼ら以外の者が、イエスの名を用いるのを嫌ったと思われます。根本的には高慢の精神でしょう。このことは自分たちの教会、教派の仲間によってなされるのでなければ、世界でなされたことは良いこととして認められないという考え方に通じているのです。偏狭な教派意識でしょうか。他の人々が、私たちの計画を選ばない。彼らが、自分たちの側に立って働かないという理由で、止めさせたり、非難したりする傾向があるのです。それは、ヨハネたちの取った態度を似ているのです。そのような傾向から救い出されるために、寛容についての二つの基礎に心を留めておかなければなりません。

Ⅱ 寛容についての二つの基礎

1 第一の基礎 キリストの真理は、一人の人が把握できるよりも常に大きい。自分の理解、主張、生活、経験、教会の教理、戦い、奉仕が、真理全体を尽くしているとは決して言えない。主イエスさまは「わたしは真理である」と言われました。このキリストを信じる一人一人が完全に、このお方を理解できない事を思えば、この基礎は了解できることです。主イエスさまの真理が、さまざまな家に住み、さまざまな衣装を身に着け、種々な聞き慣れないことばで語るのを、自分の心で認めましょう。

キリストの真理の多様性を認める心は大切です。そして、このことは一方で、真理における寛容が「中途半端なあいまい、拒絶をしらない怠惰、日和見主義、無関心、持続的対決の欠如に通じ、彼我の自覚の浅薄さを許すものでは決していない。真理は、真理としてあくまでも真理で無いものを認める事ができない。そして、真理探究者の側の未熟、誤謬、偏向の可能性の大きさを問わずに、遊離させて、何でも、かんでも寛容でなければならない式に考えて、真理の真理であるゆえんまでも引き下げてしまうことは本来のあり方から、全く外れるのです。」(小畑進:「福音主義神学」第四巻 1973,11,34頁)

キリストの真理は、一人の人が把握できるよりも常に大きいということは、以上の用な事を考えに入れた上で主張されなければなりません。イエス様はここで、あなたがたに反対しないのだから邪魔にも、妨害にもならない。さらに悪霊を追い出す愛の奉仕をしているのだ。そして、イエスの名により、イエスをあかししているという点をみて、寛容であるようにと教えられました。「わたしは道であり、真理であり、いのちである。だれでも、わたしによらないでは、父のみもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と言われる主イエスは、この男の人が真理であるイエスの名によらないで、何か他の偶像の名によって行動していた場合には、同じように答えられなかったと思います。

2 第二の基礎 寛容についての第二の基礎は、自分は真理ではないけれども、真理を授けられた者である。託された真理の管理者であるという心です。

自分が真理ではなく、真理を託された者であるという意識におり、独善と偏狭性から逃れる事ができます。このことは十字架の救い、キリストの真理に込められた謙遜の徳によって可能となるのです。

ヨハネたちは、そのように振る舞ってしまったけれども、主イエスのことばに触発されて、彼らがためらいを覚えていた事柄をあらわにしました。ですからイエスに問いかけたのです。正しかったのか、正しくなかったのかを主イエスから教えられたいと誠実に求めたのでした。この点は、ヨハネたちが良心的なところでした。「イエスに反対しない者は、わたしたちの味方なのです。」

 

Ⅲ 真の柔和 51〜56節

次の節では、イエスに反対する者の態度が教えられています。主イエス様はご自分が天に挙げられる時の満ちた事を知り、エルサレムにみ顔を堅く向けて決然と進まれました。ガリラヤからエルサレムに行くのにサマリヤを通って南下するのが近道でした。そして主イエスは、サマリヤに宿泊するか、食事をするために、弟子たちを先発させました。ところがサマリヤ村の人々は、イエス様の一行がエルサレムに行く様子であることが分かり、歓迎しようとしませんでした。受け入れを断ったのです。サマリヤ人は、神を礼拝する場所はサマリヤのゲリジム山であり、エルサレムの神殿に参詣する人々を退けていたからでした(ヨハネ4:21)。

これらを見て、弟子のヨハネとヤコブは、「主よ。わたしたちが天から火を呼びくだして、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(54節)と言いました。彼ら二人の激しさは、あだ名を「雷の子」と呼ばれていた事からの伺いしれます。 なぜ彼らがこのような激しいこと言ったのか。それは、旧約聖書に実例があったからでした。サマリヤの王アハズヤが、偶像のバアル・セブブと呼ばれるエクロンの神に使者を遣わして、王を苦しめていた病気を治せるかどうかお伺いを立てさせました。これに対して預言者エリヤが、神の怒りのしるしとして、天から火を呼び下し、王の使者たちを滅ぼしたことがあったのでした。この例を、ヨハネたちは、ここで引き合いに出しているのです。

ヨハネもヤコブも、主イエスを受入れようとしないサマリヤにたいして、怒りの感情を爆発させたのです。いらいらして、腹を立てました。それと同時に、主イエスの名誉を重んじようという誠意も溢れでたのです。でも、彼らは、もっともらしい口実のもとに無情な迫害者、凶暴な熱狂主義者のように振る舞おうとしました。主イエス様をその中に巻き込もうとしたのです。

しかし、主は振り向いて彼ら戒められました(55節)。一行は別の村に向かいました。

イエスは柔和さを示されました。哀れな無知を偏見に生きて来た、サマリヤ人に対して、柔和さを示されました。主イエスの持っておられた神の激しさは、もっと重大な罪たいして向けられました。イエスは、天の父の家(エルサレムの神殿)が、当然しっているべきであり、知っている人々によって強盗の巣に変えられてしまっているのを見て、激しい怒りを燃やされました。

そこを商売の場所に変えてしまっている者たちを神殿からおいだし、商品と机等を覆して、しまわれました。高慢な樫の木のように頑なパリサイ人には雷を落とされました。しかし、井戸端にいたサマリヤ人の女性のように、礼拝するべき方を知らない異邦人のように、暗黒の中で、神を探り求めていた人々にたいしては、哀れみを感じられるだけでした。何も知らない取税人、罪人たちは、これを見逃し、受入れられました。

ヨハネとヤコブの霊的状態は、まだ福音の使者にふさわしく整えられていませんでした。主イエスのために熱心でしたが、誇り、怒り、強情、欲望などの入り交じったものであったのです。主イエスが、サマリヤ人といえども、彼らを滅ぼすために来たのではなく、救うために来たことを、弟子たちは、まだ思い至らなかったのです。なぜ、彼らは伝道の初期にイエスがサマリヤ人の女性に示されたようなお心配りを思い出せなかったのでしょうか。あおのときの主イエスのお心を十分に汲み取っていなかったのではないでしょうか。二人の名誉のために申し上げます。十字架と復活の主の出来事の後になってから、ヨハネとペテロはサマリヤに出かけて伝道をしました。彼らのこころは成長し、福音の神髄に与って、聖霊の助けのもとに伝道に行きました。使徒8:14〜17「さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤ人たちが神のことばを受入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところに遣わした。ふたりは下って行って、人々が御霊を受けるように祈った。・・・・二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」

「天から火を呼び下して焼き滅ぼしましょうか。」と叫んだヨハネは、今や「聖霊が彼らに下るように」と祈る者となり、事実聖霊は彼らの上に下った。主イエスの福音が彼らを素晴らしく成長させた。驚くべき恵みの成長があった。主イエスは、このような後の成長を遂げるヨハネをこころの中で見て、

今の激しいヨハネを忍ばれました。ヨハネが、謙遜と柔和と深い愛の使徒となってゆくことを、見て、今を忍ばれました。サマリヤ人に対してだけではなく、弟子たちにたいしても柔和でありました。

結び)すぎさった一年間、わたしたちは、彼ら弟子たちのように、未熟であったのです。迎えている一年間もまた、おなじようであるかもしれません。しかし、救い主イエス様の寛容と柔和は、確実に、私たちの将来の成長をお心に見ておられ、導いてくださっているのです。霊的に成長した弟子たちのように、わたしたちもなる日がくる事を信じましょう。主イエスの真理に仕え、真理を託された者として、御名のもとに、ますます主の寛容と柔和を養い育てていただきましょう。

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