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2012年3月18日 ルカ10:25-37「永遠の生命への道」

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2012年3月18日 聖書朗読  ルカ 10:25-37

聖書の話し    「永遠の生命への道」

序文)先週、主イエス様が救いの知識が知恵ある者や賢い者には隠され、70人の弟子たちに代表される幼子といわれる一般人に現されたという点をまなびました。彼らの名が天にしるされているということを喜ぶようにと、主はいわれました。ところが、この話を聞いていた者の中に、律法学者がいて、立ち上がり、主イエスを試そうとしました。彼はイエス様がおっしゃった天の父のみこころが納得できなかったのか、自分たちのような律法の専門家をさておいて、弟子たちのような無学なただの人たちが救いに入るなどとは到底諒承できない。天のいのちの書に彼らの名前が書かれていると思えない、と考えたのかもしれませんね。

この25〜37節では、結果として律法学者が賢さによっては、やはり永遠の生命に入れなかったことを示しているのです。

わたしたちは、ここで、改めて永遠の生命への道が、どこにあるのかを考えながら、主イエスの救いの道を問うてみましょう。

 

Ⅰ イエス様と律法学者の問答 25〜29節

律法の専門家は当時律法の解釈と規定と適用についての専門家として、人々に教える仕事をしていました。神の律法を613に分け、248が積極的な律法で、365が消極的な律法であると論じていました。その中で「永遠の生命を受ける」にはどうしたらよいかについては、とっくに研究がされていて、答えを持っていました。

ユダヤ人にとって、求道の目的は「永遠の生命」にいかにして到達するかにありましたから、もっとも真剣に問いあっていました。彼は主イエス様が、あまりにも無造作に弟子たちの名前が天に記されていると言われたので、「永遠の生命を受ける」道を正しく理解していないのではないかと考えました。試験をしてやろうと思ったのですね。「先生、何をしたら、永遠の生命を自分のものとして受け取ることができるでしょうか?」自分は分かっている。賢い、知恵があると自負していました。ところが、主イエス様は彼に「律法には何と書いてありますか?」あなたはどのように読んでいますか?」と逆に尋ねられました。彼の心を見抜いておられたのです。攻守所を代えました。

すると彼は応えました。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とあります。」(27節)イエスは言われました。「その通りです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」(28節)

唯一のまことの神、契約の主、全人格をもって愛してくださる神を、わたしたちが全身全霊を尽くして愛するならば、この主にたいして、自らと同じ立場にある隣人に対して、憎しみ、恨みを抱けるはずがない。隣人を愛することができる。そのとき永遠の生命を得ます。そのとおりです。正しいです。知恵があれば分かる事です。だからといって永遠の生命をそれで受ける訳ではないのです。この律法学者には、行いがなかったのです。理屈としては「律法による義を行う人は、その義によって生きる」(ローマ10:5)のです。しかし、行わなければ何もならないのです。

ところが、彼は、自分の正しさを弁護しようと思って、反問します。「私の隣人とは、誰のことですか。」(29節)当然、専門家として彼らは「隣人とは」について議論を重ねていたので、答えを持っていたのです。彼らにとって隣人とは「ユダヤ人」「同朋」のことであって、異邦人は含まれていませんでした。自分、肉親、同僚、イスラエル人全般(サマリヤ人を除く)、それからユダヤ教への改宗者までをさしていました。

 

Ⅱ 隣人とは30〜36節

主イエス様は、「隣人とは」について一つのたとえ話しをして、律法学者自身が隣人と成っていない事、罪にあること、律法を守っていない事を気づかせようとされました。「サマリヤ人のたとえ」説明する。

1 当時の宗教家、祭司、レビ人たち、律法学者も含めて、ユダヤ人の専門家でも、「半殺し」のめにあった人の隣人になっていない。

2 ところが、異邦人扱いされ、民族的反目の中におかれていたサマリヤ人が、彼の隣人になった。サマリヤ人は宿屋の主人にバトンタッチして、おまけに帰ってくるときも隣人になった。

これを聞いた律法学者は、憐れみをかけてやった人が隣人になったと正しく答えました。このたとえは、律法学者が聞く事で、自分の罪を自覚させる内容のものでした。しかも、自分にも救い主が必要であって、律法を守ることによって永遠の生命には至らないのだと気づかせるものでした。なぜなら、主は「あなたも行って同じようにしなさい。」といわれましたが、彼にはできないと見ておられた。

 

Ⅲ 主イエス様の真意は?

さて、ここで主イエス様が言おうとされた真意を正しく理解する必要があります。ことの発端は、この律法の専門家が「何をしたら、永遠の生命を自分のものとして受け取ることができるでしょうか。」と尋ねたことでした。「何をしたら」と質問を彼がしたので、イエス様は、彼の答えを「実行」しなければ何もならないと、警告を与えられたのです。

彼が隣人とはと反問してきたので、イエス様は隣人とはユダヤ人だけをさすのではない。否、誰が隣人か、隣人でないかとえり好みするものではない。あなたのそばにいる人、助けを必要としている人、半殺しにされている人、誰にたいしても、あなたが隣人にならなければならない。隣人とは誰かと、探しまわるのを止めなさい。サマリヤ人のように目の前の隣人に隣人となりとおさなければならない。

主イエス様は律法学者のように「何をしたら」と律法主義的に永遠の生命への道を求める者には、そのように行えと命じられました。そして、律法を行える人はいないのだよ。専門家でもだめです。其の方法で永遠の生命に至ることはできない。救いに至らない。律法の要求を本当に意味で全うしたお方は、イエス様だけです。「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と求められるのです。」(ローマ10:4)キリストが律法の完成者でした。

人間が、永遠の生命にあづかるのは、何をしたらと、自分の行いによって勝ち取るのではないのです。人間が自分の賢さにたより、知恵をほこり、自力を発揮して、永遠の生命を獲得しようとしても、其の努力は成功しません。律法学者は本来なら、このことを謙虚に認めて「何をしたら」というのではなく、「どうしたら、この戒めが実行できるでしょうか?」と問うべきでした。そうすれば、主は「信じれば、神が与えてくださるいのちによって、その歩みができるように変えてくださるのだよ、と教えられたと思います。

「永遠の生命」は「ヨハネ3:16」にあるように、神のみ子を信じることにより、神が与えてくださるのです。「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとをしることです。」(ヨハネ17:3)と言明されました。そう祈ってくださっているのです。また「ローマ10:9〜13」とも書いてあります。

実は、主イエス様こそ、わたしたちの隣人として、罪の滅びの中にうめいていたわたしたちのために、良いサマリヤ人として、労苦し、ご自分のいのちまでも罪の代価としてさしだし、十字架の身代わりの死を遂げてくださったのでした。

 

結び)わたしたちが、この主イエス様を罪の救い主として信じ、このかたの愛のうちに生きるなら、永遠の生命は、すでにあなたの中に注ぎ込まれているのです。そして、その時始めて、永遠の生命を得た者、神のいのちに支えられ生かされている者として、あなたも、わたしも良き隣人となれるのです。

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