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2013年10月20日 礼拝

 

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★ 2013年10月20日 「キリストの嘆きと涙と怒り」ルカ19:41-48

★   序文)イエス・キリスト様はエルサレムに対して嘆かれました。それはオリーブ山を下る道で、エルサレムの全景が一望できる所でした。エルサレムのために泣いて、言われた、と41節は書き出しています。それはこの町に起こることを知っておられたからでした。この町の人たちは気づいていなかったのです。

 

★   Ⅰ イエスの嘆きと涙

エルサレムが知らなかったこと、それは神の訪れの時についてでした。

平和のこととは、この町が滅亡を免れ、神の都としての平和を楽しむために、

いかになければならないか、何をすれば良いかについてです。

来ようとしている神の怒りをさけるために、人々に与えられた根本的な救いの道があるのです。その道はイエス・キリストの道です。神から遣わされたキリスト神の子を信じる信仰です。

★イエスをキリストであると信じる道です。

すなわち救い主であると信じるならば、人も町も国民も、罪のために招く神の裁きと怒りを逃れることができる。滅亡を免れ救いに入ります。神との平和が造られ、それが基となって人と人、国と国の間に平和が造られます。

イエス・キリストはこの道を教え、示し続けられました。都エルサレムに、来ようとしている御怒りを逃れよと教え、示し続けた。

★それ故に、ルカ13:34[ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなの翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。]と言われたのでした。ついに、そのエルサレムを目前にして、感極まり、声を放って泣き、嘆かれたのでした。平和のことを知っていたら。しかしエルサレムは、イエス・キリストを救い主と信じることを好まなかったのです。神の側から見ると、「今は、そのことがおまえの目から隠されている」(42節)。

★イエス・キリスト様はエルサレムの運命を知っておられた。事実AD70年にエルサレムは滅亡しました。ユダヤ人たちが政治的な力で、平和をと画策し平和の王イエス・キリストを拒否した。その結果、エルサレムは荒廃した。彼らがキリストの道を選んでいたらば、世界はかわっていたことだろう。

イエス・キリストに見えていたことがエルサレムにはわからなかった。心をかたくなにして見ても見ず、聞いても悟らなかった。それは「神の訪れの時」をわきまえなかったからです。

★神の訪れのとき、神があなたを省みて恵みを施し、救い主を遣わし、救いの福音を宣べ伝えさせておられる日々をわきまえなかった。心をかたくなにして救いの機会を過ぎ去らせてしまうからである。

キリストの嘆き、涙、悲しみ、それは神の涙である。今日、なお、キリストは私たち一人一人のために同じ嘆きをもっておられます。神のおおいなる最後のさばきから逃れる平和の道は、すでに備えられています。神の訪れの日とは、今日なのです。あなたが福音を聞いた日、その日が神の恵みの省みの日です。

 

★   Ⅱ 怒りの宮きよめ

オリーブ山の麓で嘆かれた主は、ついにエルサレムに入られました。神殿の構内に足を踏み入れました。宮には異邦人の庭がありました。宮の外庭でした。

そこはさらに奥に入って行くために祈りと準備の場所だったのです。この庭が捧げ物を売買する商人たちで満ち、ある者は鳩を売り、またある者は賽銭ようの両替をし、声だかに商売をしていました。そのために、祈りとしずまる心の瞑想を不可能にしていました。この時代、元大祭司アンナスが、この利権を一手に握っていました。

★ ユダヤ人は誰でも、一年に半シケル(約60円)の納入金を宮に納めなければならなかった。その納入金は特定の貨幣で納めなければならなかった。それで、ローマ帝国各地から来る人々はギリシャ、ローマ、シリア、エジプト、フェニキアなどの貨幣を半シケルに両替する必要があった。両替手数料は約10円でした。鳩は、犠牲のために欠点が無いものでなければならない。神殿の外で買うと、鳩は一対が約50円だった。しかし宮の係官は、必ず難癖をつけた。宮の中で買うようちにと勧めた。宮の中では鳩は実に一対750円。ここに利権をあさる元大祭司一族がいた。詐欺、強盗行為の横行する実態があった。

★   イエス・キリスト様の怒りは、この祈り家を台無しにした悪行為に向けられ

ました。「祈りの家」神殿、神の宮、教会は、祈りの家なのです。どのような人々も真心から神を礼拝するなら、受け入れられる家です。教会が日常の憎むべき行為に対する悔い改め、砕けた祈りと礼拝を忘れて、神の林材の場所であることを忘れてしまったら、それはイエス・キリスト様の怒りの対象となります。

★   「強盗の巣」(エレミヤ7:1-11) エレミヤは宮の門に立ち、礼拝に来た人々に呼びかけました。彼らは神殿にきて「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」といって避け所とし、わたしたちは救われていると安心していました。同時に、彼らは盗み、殺し、姦通し、偽って近い、偶像であるバアルのために生け贄を焼き、神々に従っていたのです。

★   平気でこれらの憎むべきことを続けていながら、まるで強盗が巣窟に集まってここまで逃げたから安心と考えるように、神の宮を考えていたのでした。

彼らにとって主の宮は祈りと悔い改めの場所では無く、日常の愚行をつづけるためのさけ所、強盗の巣であったのです。

教会が主の前にま心から悔い改めと祈りをもって礼拝する場所でないなら、あなたにとって速やかに悔い改めて立つ所にしましょう。主イエス・キリスト様の怒りは強盗の巣にする者を追い出すのです。宮をきよめたもう主のお心と怒りを思うとき、私たちの心の宮、聖霊の宮を同じ思いできよめていただかなければなりません。

 

★   Ⅲ 47-48節 イエス・キリストは、それから毎日宮で教えられました。主の権威ある教えに民衆は熱心に耳を傾けていました。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエス・キリスト様を殺そうと狙っていました。しかしどうにもできませんでした。彼らはユダヤ議会の構成員でした。彼らを向こうに回してイエス・キリストはエルサレムを救おうとする熱心の故に、一言一句にいのちがけで教えを続けました。

★   ★ エルサレムへの嘆きと怒りは、彼を救おうとする主のお心の表れでした。神のことばが、わたしたちの心や耳に痛くひびくとき、それは神があなたの救いを何とかして完成させたいと導いておられるからです。宮きよめの荒技でさえ、エルサレムが立ち直る、最後のチャンスとして、主は与えておられるのでした。

 

★    結び)一人一人、これ以上、主を嘆かせ、涙させ、怒らせるのはやめよう。真心こめて、主に従い、祈りの家のいのりを盛んにし、主の訪れの恵みの日々を生かして、そのみことばに熱心に耳を傾けましょう。

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