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2013年11月10日 礼拝

 

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★   2013年11月10日 「教会の礎石」ルカ20:9-19

★    序文)先週、イエス様が天からの権威を持って地上に来られたことをまなびました。それにつづいて、今朝の「ぶどう園の主人と悪い農夫」のたとえ話しが語られています。イエス様は、このたとえを通して、ご自分が誰の権威で来たのかと言うことを直接答えておられます。同時に「悪い農夫たち」すなわち、サンヒドリンが、これから犯そうとしている罪をも預言されました。

★     このたとえの意味ははっきりしています。ぶどう園の主人は天の神様です。ぶどう園 そのものはイスラエルの人々です(イザヤ5:1-7)。ぶどう園はすべてのものが整っていました。境界を示し、泥棒を防ぎ、垣根をめぐらし、酒ぶねがありました。やぐらがあり、農夫たちの宿舎があり、収穫期には、ここで盗人の見張りをしました。農夫はイスラエルの支配者たちを表しました。

★主人が派遣したしもべたちとは、バブテスマのヨハネを頂点とする数世紀にわたる旧約の預言者たちのことです。そして、ぶどう園の主人の愛する息子は、イエスご自身でした。たとえ話しを聞いている人々は、このたとえをすぐに理解できました。ことに律法学者、祭司長たちはよくわかりました。彼らが農夫としていま、現実におこなっていることを、イエスに図星されたとわかりました。

 

★    Ⅰ このたとえ話しが私達に教えている神についての事柄

1 神の恵み豊かさ。ぶどう園は農夫たちが働きやすく、利益も上げることができるように、すべての施設が整えられていました。良い実りが結べるように十分な備えが与えられていました。エデンを準備してアダムとエバをそこに住まわせた主は、人々に与えられた人生において恵み豊かな方です。

★    2 神の信頼について。主人は旅に出かけました。ぶどう園は農夫たちにその経営を任せられました。神は、私達を十分に信頼し、その選ぶままに人生を送る自由を与えられました。

3 神の忍耐について 一度や二度ではなく、幾度も、主人は農夫たちに彼らが負っている負債を支払う機会を与えられました。主人は次々と派遣したしもべたちが、帰ってこないのは、しもべたちが敬われなかっただけではなく、辱められたのだとわかっていました。それなのに、なおも主人は自分の子を遣わそうとしています。

★4 神の究極的正義の勝利について語っています。人々は神の忍耐を利用することができるでしょう。神の忍耐を利用して、さからい続ける人々がいます。そして神は何もなさらないとたかをくくっています。小作人たちはうまくやろうと考えていました。しかし神は正義の権利を放棄されたのではありません。人間はどれほどうまくやったと思っても、決算の日は必ずやってくるのです。最後には審判と当然の報いがやってきます。神は不従順と反抗に対して、長い間、耐えられますが、最後には行動を起こされます。

 

★    Ⅱ このたとえ話しが私達に教えているイエスについての事柄

1 イエス様は、ご自分をしもべとしてではなく、み子とみなしておられます。イエスはみ子である。天の神の愛する息子である。神として、人間に最後のことばを語られる方です。預言者たちとは違うのです。イエスがメシヤであるという間違いのない主張が、含まれています。これがサンヒドリンにたいするイエスの回答であり、挑戦だったのです。

★    2 イエスは、ご自分が死ぬのだということを知っておられました。15節。十字架はイエスにとって、不測の出来事ではありませんでした。イエスはご自身、他のかたちでの終わりがありえないことをしっておられました。知りながら、そこから逃げることをしないで、進んでゆかれたのです。

3 イエスは、その究極的な勝利を確信しておられました。不当に取り扱われ、殺される。しかしそれが最後ではない。その後に栄光がくる。

 

★     Ⅲ このたとえ話しが人間について教えている事柄

1 農夫たちが犯そうとしている罪について 主人の取り分を納めない。契約違反です。主人のしもべたちが幾度も来て催促しても、悔い改めないのです。強情の罪です。彼らは、息子を跡取りとしって殺しました。人間は、もし本当にイエスが神の子だとわかっていたら、イエスを殺せないと言うほどに善良ではありません。人間はイエスが神の子だとわかっていればこそ、かえって殺すのです。

★    2 罪に対する刑罰 16節。 選民としての特権を奪われ全滅します。彼らはたとえイエスを殺しても、ぶどう園の所有権を入手することはできません。農夫たちは大きな計算違いをしていました。跡取り息子は殺しても「父」は健在なのです。この主人はただ、憐れみにより忍耐していました。この主人は遠く離れているので、すぐには行動に出ないだろう。

あるいは、これほどのことをしても、何も起こらないのは、主人は死んでいるのかもしれない。天の神様は、本当はいないのではないか。人は、神にむかって背き続けられると思っているのです。しかし、神は生きておられて、ついには裁きの日がくるのです。

★    3 次に選民の特権が他の民たちに移されます。異邦人たちに神の国は移るのです。「ぶどう園はほかの人たちに与えられる」のです。マタイ21:43では「み国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられる」とあります。キリスト教会が、現実に世界に存在していることは、ここでイエスが言われたことが成就しているのです。不信のユダヤ人は裁かれたのです。

★しかし、同時に次のような警告を異邦人である私達は忘れてはいけません。ローマ11:22[見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者のうえにあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただしあなたがそのいつくしみのうちにとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。]

★    4 神の国がユダヤ人民族から異邦人キリスト教会へと移されるという点を17-18節は教えています。「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。」このことばは詩篇118篇22-23節の引用です。捨てられた石が、すべての石の中で一番大切な建物を結びあわせる石になり、建物の基礎になる石になった。ここでイエス様は農夫たちに殺されても、のちに復活することをしめされました。神の家のかしら石として、復活の主は新しい国を組織されます。(エペソ2:20-22)この石に打ってかかる者は、だれでも自分が粉々に砕かれるのです。イエスをあざけって、捨て、滅ぼそうとする者は、自分で破滅するのです。

 

★    Ⅳ 信徒一人一人がキリストに結びついている生ける石

使徒ペテロは、このことばを用いて、ユダヤ人に殺されたイエスが。復活し、昇天して、教会のかしらとして君臨しておられることを論証しました(使徒4:10-11、第一ペテロ2:4-8)。

「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。」見すてられたけれどもイエスは隅のかしら石です。神の国を建てるためにこの世の権力が捨てたイエス・キリストがかしら石・礎の石となられたのです。何よりも尊い方となられたのです。

★そして、この「石」は第一ペテロ2章6節では、イザヤ28:16の引用を通して、神とその民クリスチャンとの確固とした尊い石、ゆるがない信頼関係を見ています。イエス・キリストが、神の動かない土台石で、信頼に足る方であります。ところが信頼しない者にとっては、「つまずきの石」「妨げの石」です。イエスを拒む者は恐怖、破滅となります。イエスは裁きます。罪を断じます。ペテロは以上の事柄をイエスのかつての教えを思い起こして解きおこしました。

★     キリストを土台石として、生ける石として築かれる教会は、信仰者一人一人が生ける石となります。生ける石キリストに結びついているゆえに、信徒は生ける石なのです。霊の家・教会・共同体です。一人一人が建物の一部分になるのです。神の臨在される場、溢れる場は、霊の家です。神の聖霊の住んでおられるところですから、教会は霊の家です。「霊の」は「聖霊に影響もしくは支配された、聖霊にご性質にあずかる」の意味です。そこは、家ですから共同体です。良くわたしは自由な立場のキリスト者ですから、教会に縛られませんと言っている人がいますが、そのようなクリスチャンは矛盾しています。教会の交わりの中で共同体として、キリストを信じる者は存在しているのです。

 

★ 結び)イエス様こそ、礎の石です。主の主権を認め、打ちかかろうとするのを止めて、自分の人生を、真理である主の上に立てましょう。主こそ巌(いわお)です。なぜなら主イエスは、人より出られたのではなく、天よりのお方だからです。神のいつくしみのうちに、地上人生を全うさせていただきましょう。

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