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2013年11月24日礼拝

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★   2013年11月24日 「生きている者の神」    ルカ20:27-40

★    序文)主イエス・キリストの受難週の火曜日に起こった論争は、サドカイ人の登場によって第三ラウンドを迎えました。それは「復活」をめぐっておこなわれました。サドカイ人は、主イエス・キリストに敵対するという一点を除いては、いろいろの点でパリサイ人の正反対でした。サドカイ人の属するサドカイ派は宗教団体と言うよりは政治団体に近く、当時の最高会議の議員の大半を占めていました。貴族的な祭司階級でした。★ 時の権力者と結びつく世俗主義者で、時代の流行に敏感な進歩主義者、合理主義者でした。使徒23:8[サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人はどちらもあると言っていたからである。] 彼らは、また、しかし、聖書の見方についてはパリサイ派と違って口伝や、習慣や、規則は排除して、ただモーセの五書のみを神の言葉として認め尊重していました。

★    Ⅰ サドカイ人の質問 28-33節

サドカイ人が、主イエス・キリストを陥れようとして放った質問は、復活の信仰がいかに馬鹿げているかを示すための律法論争であり、また、教義論争でもありました。

この28節は申命記25:5-10のモーセの律法の引用です。一群の兄弟たちが一緒に住んでおり、そして子どもが無くて彼らの 中の一人が死んだ場合、その死んだ兄の未亡人を妻として、その死んだ兄の家のために子どもをもうけるのが、次の弟の義務であった。★子どもが生まれた時には、その子どもは本来の夫(死んだ兄)のものとされた。これは家族の名称がイスラエルの内に絶えないためであり、また財産がその家族の内部に受け継がれるようにという配慮のためであった。

さてサドカイ人たちの質問は、もし、この律法によって一人の女が次々と七人の兄弟たちと結婚した場合、もし死人の復活があれば、その時に彼女は誰の妻かというのでした。

★このことにより復活の思想がいかに馬鹿げたものであるかとしたのです。サドカイ人たちと同じように人間の霊魂の永遠の存続、復活の体をもったありようなどは考えられない。

目に見え、手で触れる物質だけが実在であるという、現代的唯物思想にそまった者たちや、死は消滅以外の何物でも無いと考える者たちに対してイエス・キリストの答えはどのようだったでしょうか。

 

★Ⅱ 主イエス・キリストの答え その一 34-36節

サドカイ的合理主義者への主イエス・キリストの答えは、「この世」と「次の世」の相違を知るようにと先ずこたえます。この世ではめとったり、とついだりする。人間の性別や男女の結婚は「人類が地に満ち、地を従わせる」という目的のために、この世の文化のために神が定められた。神の被造世界で、神のお心の実現のために、男と女は使命を与えられた。

★    しかし 「次の世」では復活がおこり、人がよみがえるとき、肉体的生活の古い法則はもはや不要となる。よみがえった者は天使のようであり、結婚するとか出産するとか死亡するとかいう肉体的なことがらはない。新しい世界には必要がない。永遠の生命を神から直接受け続けるので、一人一人は地上のように、誰それの子という結びつきではなく、神の子といわれる。そして救われる者の数は、永遠の聖定により決まっているので、誰ひとりも増えたりへったりはもうしない。天国では地上のような結婚はない。

★この相違をしらないから思い違いをしている。それは実は聖書も、神の力も知らない、宗教的な無知なのだ(マタイ22:29)。聖書と神の力を知らない不信仰が復活と復活の世界を受け取れなくしている。復活の世界は地上的血縁にもとづく世界とは違うのだ。主イエス・キリストによる結びつきの世界である。聖書の教えに対する疑いや否定は、いつも「神の力」そのもの評価と関連しているのです。そして「神の力」と知ることは「聖書」を知ることと結びついているのです。

★    Ⅲ 主イエス・キリストの答え その二 37-38節

主は、サドカイ人たちが聖書を知らないこと、をわからせようとされて答えます。彼らが論争を仕掛けてきたモーセ五書を同じように用いて答えます。サドカイ人たちは日頃モーセ五書には復活の論証が無いと言って、パリサイ人たちに、その証拠を示すようにと挑んでいたのでした。主イエス・キリストは、死人がよみがえることについては、モーセ五書の中にあることを出エジプト3:6,13-15を用いて論証されました。

★    「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」これは実は、旧約聖書の大指導者モーセが、まだ、羊飼いの生活をしていた時、神がシナイ山のホレブに現れ、ご自分を名乗っておっしゃったことばでした。これに励まされて、モーセはイスラエル民族の救出者として、エジプトに派遣されたのです。モーセが召命を受けるのを渋って、ためらって神様に聞きました。「出エジプト3:7-15」

★    神は答えられました。「わたしは有って有る者」だ。このヘブル語は別の意味として「わたしは成ろうとする者に成る者」だというのです。聖書の神はアブラハムの神に成ろうとして成ってくださった。イサクの神に成ろうとして成ってくださった。ヤコブの神に成ろうとして成ってくださった。それぞれの神に成ろうとして成ってくださった。交わりを結び契約を結んでくださった。そして、この神は、私たちの神に成ってくださった。永遠にそうなりつづけてくださっている神様です。

★    ところが、それだけではないのです。ルカ20:37-38によれば「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。というのは、神にたいしては、みなが生きているからです。」と語れました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という名前は、単純に過去を思い出して列挙しているのではないということを示しています。もしアブラハム、イサク、ヤコブが死んで無に帰したのであれば、ここは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」となるところです。今はモーセあなたの神になる。★しかしそうではなくて、現実に「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」である方なのです。現在形。神は死んだ者の神では無く、生きている者の神のです。今も神様に対して生きている「アブラハム、イサク、ヤコブ」の神様なのです。神はアブラハムの神であったが、今は彼が死んだのでその関係は断ち切られてしまった、というのはないのです。神は、アブラハムの死を克服して、アブラハムの神に、今もなりつづけておられる。それができる力ある神様です。★信じる人はこの地上で神に出会います。神のいのち、主イエス・キリストのいのちに結びあわされています。地上で体の死が起こってもなお、神のいのちの結びの中にあるままで、神に対して生きつづける者なのです。地上の体の死が来ると、霊は完全に清められて直ちに主イエス・キリストのみもとに行くのです。そしてこの命のむすびつきにありつづけるので、体の復活は、必然的に起こるのです。その時に完全に救われて整えられるのです。

★     その復活の世界は、神とキリストのみ顔を人が仰ぎ見る、神との交わりの世界であって、親族・縁者が互いにどう見るかという世界ではないのです。

主イエス・キリストは、人間がよみがえるのは、人の内になる霊魂そのものの力によるのではなくて、永遠の神が、信仰をもった者とのいのちの交わりを地上で成立させてくださったので、この天の神が死なない限りは、そして真に神は死ぬことはありえないのですが、その神との交わりに生かされたアブラハムも、イサクもヤコブも、歴代の信仰者たちも、そして私たちも死滅することはなく、よみがえらされるのです。

 

★結び) よみがえるということは、この神との交わりの世界であります。今、地上で信じる者の神と成ってくださる神との交わりが、よみがえりの力を受ける源なのです。このことは聖書と神の力を正しく信仰によって受け止めることによって起こるのです。

信仰によって、この復活と自分を結びつける人となりましょう。神は生きておられます。そしてこの神に対して信じる者は生きているのです。

「ヨハネ福音書 11章25-26節 」•

イエスは言われた。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことはありません。このことを信じますか。」

 

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