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2013年10月13日 礼拝

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★ 2013年10月13日 「主がお入用なのです。」ルカ19:29-40

★   序文)主イエス・キリスト様の地上生涯の終幕が28節から始まります。エルサレムに入城されるすぐ前の出来事がここに記されています。ことに「王」として主イエス・キリストがはっきりと印象づけられるように行動なさったことをしることができます。このメッセージは話しによる教えではなくて、行動による教えです。

★   Ⅰ 昔預言者たちがよく「ことばによって人々に訴えても、民が受け入れることを拒み、使信を理解使用としないときに、行動によって自分のメッセージを表したのと同じです。エゼキエル書5:1-4で、エゼキエルは頭とひげをそって、その毛を三等分し、三分の一を町の周りで焼き、三分の一を剣で打ち、三分の一を四方に散らせと命じられました。それは三分の一が疫病で死に、三分の一が剣で倒れ、三分の一が四方に散らされることを示しました。

★    イエス・キリスト様は、今、様々な教えをもって、真の王、平和の王であることをあらわしてくださいました。いよいよ、生涯の最後の週を迎えて、首都エルサレムに入城しようとするとき、すべての人々にご自分の行動で、はっきりと真の王、平和の王であることを示されたのでした。

★   Ⅱ ろばの子に乗るイエス・キリスト

ろばの子に乗って入城する姿にメシア、神の油注がれた王であることの主張がありました。

主張の一 ロバの子の入手方法 主イエスは、ベテパゲに二人の弟子を使わして子ロバを引いてこさせようとなさいました。この状況は、前もってエルサレムに住んでいる友人に、ろばの子を用意させておいて、合い言葉として「主がおいりようなのです。」ということを打ち合わせてあったのだろうと言うようなことではありません。「なぜ、このロバの子をほどくのか。」(33節)ということばからも、この出来事はイエス・キリストの全く超自然的な予知の全能ぶりをしめしているのです。

★   その二は、「まだ誰ものったことのないロバの子」といわれていることです。重要な目的のために用いられる動物は、他の目的のために用いられたものであってはならなかった。このことは主イエス・キリストご自身が、神の子であることを暗黙のうちに主張しておられるのです。

★   その三、ろばの持ち主が「主がお入り用なのです。」ということばだけで、ロバの子を渡してくれるというほどに、主は、自分の用いようとするときに、好みの方法で動かせる支配力をおもちである。主はメシヤとして自分が全知、全能である主権者、神であることを示された。」私たち自身に主の御声が、今朝かけられています。「主がお入り用なのです。」どうぞお用いくださいと、自らを差し出して、献身してゆきましょう。

★   その四、ロバの子に乗ることで王である姿が示された。弟子たちは自分たちの上着をロバの上に投げかけると、イエス・キリストをお乗せしました。これはマタイの福音書によると、ゼカリヤ9:9「シオンの娘よ。大いに喜び、エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」ゼカリヤはBC6世紀にシオンの娘すなわち選民イスラエルの都に向かって契約の血のゆえに、世界的改心をもたらす主人公を紹介しています。★ろばの子の上に乗る王は「正しい方」と言われ、神様との関係で正しい王です。また「救いを自らのうちにもつ」王です。そして柔和です。この王がろばの子に乗ると言うことは、主が平和の中にやってくるということを示しました。王は戦争の時は軍馬にのるのです。平和の時はロバに乗るのです。この王の姿あ、彼の国が、この世の壮麗さや権力、軍事力や富と共通するようなものではなく、神の目に正しく、救い主であり、平和の王として君臨される霊的なものであることを象徴していました。

 

★Ⅲ その五は、このイエス・キリスト様への弟子たちの反応です。弟子たち

はイエス・キリストさまのこの姿を見て、主は王様であるとの理解をしまし

ました。ろばの上に上着を敷いたり、道にも敷きました。そしてイエス・キ

リストに向かって「祝福あれ。主の御名によってこられた王に。天には平和。

栄光は、いと高きところに」(38節)と喜んで大声で神を賛美しました。

弟子たちは賛美に詩篇118:26を用いました。

★「天には平和。栄光は、いと高きところに」は、イエス・キリストの誕生の時に天使たちが賛美したことばを思い出させます。救い主の誕生が、天の軍勢と天使たちの「地に平和あれ」の賛美で満たされました。主の地上生涯の終わりには、弟子たちが「天に平和あれ」と叫んでいるのです。このへんに美しく楽しい賛美の交換がありますね。

★   しかし、それと同時に、このことは主の誕生により「地上に平和がある」はずなのに、まだ、「天には平和」としか言えない状態であることを教えています。それは39節「するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエス・キリストに向かって、先生、お弟子たちをしかってください。」といったことにもあるように、弟子たちの賛美を沈黙させようとする勢力悪い嫌がらせによっても証明されています。

★   パリサイ人たちは、この賛美の声がローマの政府当局者たちに聞こえたら、弾圧が下ると言うことを恐れているのです。弟子たちの口封じをしようとしたのでした。この事柄自体に平和が無いことをしめしています。

★   その六は、イエスさまが彼らに答えます。この明々白々たるイエス・キリストのメシヤ性は沈黙させたり、迫害で押しつぶそうとしても、打ち消しがたいほどであることをはっきりと示されました。「この人たちが黙れば、石が叫びます。」このようにイエス・キリスト様の「ろばの子」に乗りエルサレムに入られる姿は、まさに、メシヤ、救い主の入城を公然と示す、否定しがたい事実でありました。

★ 人間が自分たちの都合で、イエス・キリストを否定し、この公然とした救いを沈黙させようと宣教の働きを圧殺し、教会を迫害し、クリスチャンたちを亡き者にしようと脅してきました。しかし2000年にわたる、世界の歴史が、「石が叫んだ」という事実を証明しているのを、わたしたちは忘れてはなりません。

★   結び)私たちは主イエス・キリストを信じる者として、罪に繋がれていた

た者が、主の用ですと罪から解かれて、今は用いられる身となっているのです。イエス・キリスト様を心の中にお迎えして、主の福音を伝えるために、遣わされているところに、お運びしている「ろばの子」であることを覚えてその光栄を思うのです。この明白な救いの事実をほめたたえつつ、この世の旅路を全うしたいものです。

そしてまことに「地に平和、御心にかなう人にあれ。」と言える日の一日も早く来るように祈り求めましょう。

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