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2013年2月10日バイリンガル英語礼拝

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2013年2月10日 聖書 マタイの福音書 1:18-25「主は聖霊によりやどり」

主は聖霊によってやどり、処女マリヤより生まれ、

 

序)救い主イエス・キリストの誕生について、聖書の立場は、マタイ1;1-17の系図といい、18節からの処女降誕の記事といい、およそ世の人々の受入れがたいような書き方で示されています。しかし一方では人々がどのように受け取ろうと、起こった事実は事実として書くという神さまの側の真実とお計らいがあることも確かです。なぜならイエス・キリストの誕生はその日からの出来事ではなく、さらに2000年前のアブラハムにまで歴史が遡り旧約聖書に預言されていた誕生であったからです。

工.イエスの母マリヤはヨセフの妻と決まっていた、と書き出しています。ヨセフとマリヤの婚約中にイエスを身籠もることが起こった。この事実をマタイ福音書もルカ福音書もはっきりと書いています。ュダヤの社会では「婚約をすることは」重大なことでした。法律的には、夫であり妻であるとして扱われました。それで婚約者が死ぬとおとめの側は「やもめ」とみられました。当然、婚約中にその貞潔を破るようなことが起こると、姦淫の罪で死罪となったのです。

ですから、19節で夫ヨセフは婚約解消を考えたときに「離縁」しようときめたのです。 そのように重大な関係にあったマリヤがみごもった。二人が一緒にならないうちに、マリヤがみごもっているということがヨセフにはっきりと分かった。ヨセフにとってギョッとする発見でした。なぜならヨセフはそれが聖霊によると知らなかったのです。もちろん自分の身にもおぼえのないことだったからです。もし二人が挙式まえにはやまったことをしたとか、婚約したがサラリーもやすいし、家もないので、一緒にすめないでいるうちに女性のお腹が大きくなってあわてているということであったら、何もヨセフとマリヤがショックを覚える必要はなく、ユダヤの法律では正式な夫婦だから同居すればすむことでした。そういうことではまったくなかった。

マタイは「聖霊によって」という一語で説明しようとしました。これはマリヤに加えられる不当な誹謗や、しまおくそくをゆるさないかのように書かれています。直接の原因は聖霊である。「夫ヨセフは正しい人であったので、」正しいとは律法を重んじそれを遵守する「実直な人」の意味です。律法はいいなづけの妻の姦通は「石で打殺す」死罪をめいじていました。しかし同時に彼は彼女をさらしものにしたくなかった。それは彼女への愛と誠実さのゆえでありました。ついにマリヤを密かに去らせようと決心しました。これは公の裁判にかけずに最小限二人の証人の前で離縁状に離縁の理由をかかずに離縁すること。これによりマリヤは婚約中の妻としての律法から解かれる。

預言者イザヤは、7:14「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」と預言しました。このとき「処女」として使った言葉はへブル語の若い娘をさす「ベルラー、ナーダー、ヤダー」ではなくて「決して処女を失っていない処女」をさすことば「アルマー」でした。マリヤがこのような決して処女を失っていない処女だったので、起こった出来事に夫ヨセフを悩みましました。

Ⅱ ヨセフはこのことを思い廻らしていた。どれ程苦しみ、なやみ、しずんでいたかしれない。しかし、神からの助けが夢の中で丁度良いときに彼にきた。20−21節「タビデの子ヨセフ」天の使は日頃大工として生活していたヨセフに、ダビデの子と呼び掛けた。これは世が世ならば、ヨセフに王位継承権があることをさしているのです。天の使いはダビデの子として生まれる救い主のおとずれを伝えようとしていた。「おそれないであなたの妻マリヤを迎えなさい。内密に去らせようとした考えを捨てて、迎え入れなさい。なぜなら、その胎に宿っているものは「聖霊による」のです。神の力によって身籠もったのです。天の位を離れて救い主として地上に来られたイエスは、マリヤを母とし、天の神を父とする神の子である。彼はダビデに約束され、来るべき救い主としてダビデの末として生まれなければならなかった。それでマリヤを母とする正真正銘の一人の人間として、しかもダビデの王位継承権をもつヨセフを法律上の父とする夫婦関係の中で生まれたもうた。しかも「処女」マリヤからである。聖霊によって清められつつ。罪の世に、罪無くしてうまれた。ルカの福音書では「それゆえに生まれ出る子は聖なるものであり、神の子ととなえられるでしょう」と天使はマリヤにいったとかかれています。

マリヤは男の子を生みます。その名を「イエス」となづけなさい。「イエス」なぜ「イエス」なのか。それは「この方こそ、ご自分の民を罪から救ってくださる方です。」天の使いはヨセフにこの男の子によって「エホバは救いである」ということが現実に成し遂げられる、と伝えた。

この方こそ、その聖さによって「民をもろもろの罪から救う」ことができる。ご自分の民−それは神が永遠に選んでその民となしたもう契約の民、ユダヤ人も異邦人も区別なく、信仰によるアブラハムの末たちのことです。イエスは罪人たちのために来てくださった。死と滅びのうちにある者たちのためにきてくださった。わたしたちは自分を救うことはできない。私たちは救われなければならない。イエスは救いを備えられるだけではなく、ご自分で救うことができる方です。わたしたちを罪からその結果である死と滅びから、救うためにきてくださった。主イエスは成人してから「私がきたのは世を裁くためではなく、世を救うためである」とおっしゃった。これが福音です。

24節ヨセフは眠りから目をさますと、ただちにまじめに天使による神の命令に服して、マリヤを自分の家に迎え入れて、彼女と結婚した。これによりマリヤの胎にやどるもの、マリヤから生まれるものが、法律上はヨセフの子となり、旧約聖書の預言のとおりダビデの王位継承者となった。マリヤはこの世の不当な取り扱いから保護された。

Ⅲ.聖霊よる誕生と処女マリヤから生まれたことは、救い主としての誕生をなさるときに主イエス・キリスト様が、聖く生まれたことを意味します。無罪性。それはキリスト様の人間としての性質が純潔であったと言うことです。罪は咎めと不潔を含んでいますが、この両方について主イエス・キリストは無罪であったのです。咎めは人格を対象にする法律的な判決です。キリストの人格はアダムの子としての人格ではなく、神の三位一体の第二人格でした。当然無罪です。しかし不潔、腐敗は性質や性向を対象とします。怒りとのろいと罰をともないます。キリストがマリヤを通して人性をとられた時に、これらの一切の汚れから守られるために、聖霊が直接働き、聖よめつづけられたのです。聖化活動の完璧さを示します。

結び) 私たちの罪を救うために世に下られた主イエスをヨセフのような心で受け入れる者はだれでしょうか。あなたがその一人であることをいのります。

ヨセフがどうしてこのように決定的に天使の告げるところを信じ服従しえたのか、神が彼の心に備えをあたえられたからである。キリストの処女降誕は歴史的事実である。私たちはこの事実を聖霊の賜物を受けた福音書記者の権威ある証言によって、また、同じ聖霊が私たちの内に働きかけられることによって事実として信じうけいれるのである。イエスの誕生にさいして神はヨセフの信仰、従順、決断、勇気、思慮深さを供えておかれた。

 

 

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