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2014年 5月11日 礼拝 

 

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2014.5.11 礼拝ルカ23:39〜43節

「今日パラダイスにいます」

序文)ルカの福音書から、十字架上でイエス様が強盗の一人を救いに導かれたことを学びましょう。十字架の記事はどこを読んでも暗いのです。今日の記事の出来事は、44節によると12時なのに、全地が暗かったと異常な自然現象を書き留めています。それは3時まで続いた。ですから十字架上で三人は真っ暗闇の中で語り合っていたのです。

どのような人間にも、人生において、自然現象としてではなく、霊的な暗闇の部分があります。一生懸命積み上げて来ても、この暗闇に会うといっさいがゼロからマイナスになるように思うことがありましょう。自分で努力して手に入れた地位も、名誉も、財産も何の力もないと感じるような暗さです。死を目前にして、暗闇の中で人は何を考え、何を語るのでしょうか?人はどのようにふるまうのでしょうか?

1 キリスト様に悪口を言っている男

「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」彼にとって死につつあること、その暗闇は何も生み出しませんでした。神さまを知らず、愛を知らず、多くの者を簡単に苦しめ、殺し、積み上げてきた生涯の果てが十字架刑だったのです。無情、冷酷、無反省の人生の結果が十字架刑だったのです。まもなく息を引き取ろうとしています。そんなせっぱ詰まったときの声が、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」という台詞です。お芝居とは違うのです。

多くの人々がこの犯罪人と同様に、十字架上のキリストを見あげて「自分と私たちを救え」とあざけるのです。そのあざけりの言葉は「私たちを」に強調があります。この男の関心は自分をこの期に及んでも救うことにありました。彼はキリストに向かって「あなたは犯罪人ではない。」というのではない。兵隊に「ここから彼をおろしなさい」というのでない。「あちらにいる犯罪人を救いなさい」というのでもない。現実的、実際的に考えて、逃げ道はないかと思って、「私たちを救え」といったのです。「キリストではないか」といっています。「キリスト」の意味を正確に理解しているのですが、信じてはいません。キリストがなさったという奇跡の数々を聞いていたかもしれないのです。ひょっとしてと思う心と、キリスト当人が十字架にかかっているようじゃあ、なあ・・、どうしようもないいなあ。

私たちは同じ立場だったらどうするでしょうか?自分の罪を認めることを拒否して何とか助かる道はないかと考えているのです。自分の工夫で自分を救おうとしました。イエス様に十字架から降りて、次に自分もおろしてくれというのです。悪口をいいながらそれでも彼なりに筋の通った計算があるのです。

この悔い改めない犯罪人の悲劇は、自分のすぐそばに本当に救うことのできる方がおられたにもかかわらず、霊的には真っ暗闇で、遠く離れた所にいたことです。神の御子が十字架にかかっている現場にいたことが、彼を遠く離したのではないことが、同じ状態にいたもう一人を見るとわかります。神さまは私たちのすぐそばにおられるのに、私たちは遠く離れて立っているのです。その原因は私たちの側にあるのです。

主イエス様は約束しておられます。「二、三人、私の名によって集まるところに私はいます。」今朝の礼拝の真ん中に主はおられるのです。

体は礼拝の場所にいながら、霊的にはイエス様と遠く離れているのは悲しいことです。かの強盗は十字架上でしたがイエス様のすぐ隣にいたのです。しかし自分の罪を直視することなく、悔いることもなく、神に近づくこともなく、イエス様の許し、愛を拒否しているのです。

2 40節 もう一人の男

「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。我々は自分のしたことの報いを受けているだから当たり前だ。だが。この方は、悪いことは何もしなかったのだ。」かれは悔い改めた者としていつわりない言葉で語っています。事実をありのままで受け止めています。何事も飾らず、弁解もしません。ぎりぎりのところで自分の生まれ育だった環境に理由を見つけたりしません。自分のよわさ、貧しさ、悪い仲間たち、他の何者にも咎めをかぶせようとしません。そうではなくて、自分自身が、この刑罰に価するのだと認めました。私は神さまと人にたいして罪を犯したのだと。「自分の背きの罪をかくす者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者は憐れみを受ける」箴言28:13.人生ぎりぎろのところに立たされている人間への、神さまの治療方法は「告白」にあるのです。自分の罪をかくす者はみじめであり、敗北しており、壊滅しています。しかし、主イエス様に告白する者は、憐れみをうけ、深い赦しを経験し、解放されます。

自分の真相に気づいた者は悔い改めます。次に祈るのです。

「イエス様、あなたの御國の位におつきになるとき、私を思い出してください。」彼は祈りました。簡単な祈りです。しかし大胆です。イエス様、御國においても、私・盗賊で紛れもない自分のやったことを受け入れて刑についている者を思い出してください。素直になって、イエス様は王位に着かれる方である。十字架上で死ぬような方ではない。自分を十字架に付けた者たちのために「赦しを祈るようなお方がいただろうか」本当にこの方は救い主なのだ。だから、自分を思い出すぐらいはしてくださるだろう。王座に着かれてやがては再びお出でになるときがあるだろう。

歴史的に十字架の出来事の真っ最中に、イエス様を救い主として信じたのは、この男だけだったのです。私たちが信じた時の状況とは全く違う信じがたい中で信じたのです。私たちは、十字架の後で何が起ったかを知っています。葬りと復活の事実を知っています。多くに人々が信じて救われ、教会が生まれ、2000年以上もつづいていることを知っています。神さまの智恵と力とよみがえりのいのちの事実を知っています。そして信じたのです。しかし彼はちがいます。

私たちはこれだけ真実な情報を得ていながら信じるために躊躇しています。くもの巣のような自己弁護と自己欺瞞に囲まれて、罪の奴隷の鎖を断ち切ることができないでいるのです。自分の宗教的無関心や、罪の仲間との絆を切れないでいるのです。心からの悔い改めをしたくないのです。自由にならないとおもっているのです。

3 43節 彼への、主イエス様の言葉は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

彼の祈りは「御國の位にお着きになるとき」でした。イエス様のお答えは「今日」です。皆様にとって、「今日」はあるでしょうか。ずーっと未来ですか。あるいわ明日ですか?

「パラダイス」そこはイエス様がいるところです。御國のことです。神のみ住まいのことです。死後直ちにイエス様がおられるところに、彼も一緒にいるというのです。イエス様がおられるところに共にいることほど確かで安心で平和ことはありません。

主イエス様を信じる者たちが、死後直ちにいるところそこはイエスがおられるところで、パラダイスです。

結び)「勝利を得る者に、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」黙示録2:7。いのちの木について黙示録22:1〜5。

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