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2014年7月27日

 

7.27礼拝 音声

2014年7月27日 詩篇1篇「時がくると実がなり」

序)今朝から、旧約聖書詩篇を連続してまなびます。さしあたって第一巻に挑戦します。

神を褒め称えることは、地上にあるキリスト者の神への最高の奉仕であり、特権です。また天上では贖われたものの永遠の歓喜は、神に対する尽きぬ賛美となってあらわされています。聖書の詩篇は何よりもまず、賛美の書です。詩篇第一巻第一篇一節の最初の語はアシュレイ「幸いなことよ!」です。詩篇の最後の語は150:6ハレルヤ-「あなたがたは主をほめたたえよ!」です。

150篇からなる詩篇は、人生のあらゆる局面に遭遇した詩人たちの、時に天に届くほどの喜びと賛美の歌であり、時に深い嘆きの歌であり、また苦痛の呻きの歌であり、罪を悔ゆる悲しみの歌です。さらに疑惑と不安より生じる恐れの歌でもあります。しかしながら、いつも詩の終わりは、唯一のまことの神・主へを褒め称える勝利の歌へと高められています。その最後はハレルヤなのです。

詩篇は、全部で5巻 第一巻 1-41篇、第二巻 42-72篇、第三巻 73-89篇、第四巻 90-106篇、第五巻 107-150篇。最後の150篇までには、詩篇のハレルヤコーラスが含まれています。特に148、149、150篇です。

1篇と2篇は、神様がそこにおかれた、詩篇全体への序文です。

 

Ⅰ 真の賛美の根拠

真の賛美の根拠が、歌われます。真の幸福は、みことばを喜びと従順をもって学ぶことによって得られる、神様との道徳的関係の中にあります。第2篇は、幸いの根拠が、来らんとするメシヤ・救い主による勝利の統治の預言にあります。

人の主なる目的は何か?神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。詩篇1篇が答えます。

ここに二組の対照があります。悪者と幸いな人、流れのほとりの樹と風の吹き去るもみがらです。

幸福を教えるのに、まず、消極的な訓戒から始めます。三つのしたことが「ない」事(完了時制 真に幸福ものがしたことのない事)がのべられます。① 歩まない ② 立たない ③ 着かない です。私たちが日常的に陥る罪の進展状況が、たった15語で、どのように進んでいるかをえがいています。一人の人間が次第に順番に悪に染まって行く段階が歌われています。

最初は誘惑によりさまざまな「悪者のはかりごと」に「歩みだす」のです。はかりごとにはまったと気がついて、いつでも離れることができる余地はのこっています。やがて、そのままに歩み続けると、悪の誘惑は触手を動かして、足を引き留めます。悪人の道に立ち止まります。

悪の持つ甘い言葉と見え透いたお世辞により、仲間になった喜びに浸らせて、大あぐらを掻いて自分のために用意された座席に座ります。神への侮りと高言と冒涜的な憎しみのことばが、自分の周りにあふれています。最大の特徴は「あざけり」です。ヘブル語本来の意味は「他人のことばや声をまねて、それをこっけいなものにしてみせる。」それは心の中からでてきて彼を更に汚します。冷笑的で毒のある心の原因は、しばしば過去に犯した罪と失敗の意識にあります。強い罪悪感は人を不機嫌な不満家にします。他人を怒ること、不親切な言葉を投げること、みな内側の罪から自然に生じる実りです。

悪者の仲間たちは、たいてい、神はいないと笑いさんざめき、正義は効果を発揮しない。悪の美酒に酔いしれようと酒盛りがはじまります。われ知らず神の怒りの杯を飲み干し続けます。悪者のはかりごとに歩んでいるなら、そのはかりごとを捨てなさい。立ち止まっているなら座り込む前に、そこから走り出すようにしましょう。心は不機嫌と不満に満ちているなら、それをもたらした罪悪感から、主イエス・キリストを見上げて解放されましょう。

Ⅱ 幸いな者の肖像 積極面

1 聖書が教える、幸いな人とは、何を喜びとしているのでしょうか。昼も夜も何を口ずさんでいるのでしょうか。119篇97「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。」103節「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。」

彼は主のおしえを喜び、みことばを口ずさむのです。その特徴は喜びです。神のみことばを知れば知るほど喜びが増し加わるのです。そこに盛り込まれた恵みの溢れるのを知り、それに与っているからです。「喜び」の語源は、愛する人、愛する物の方に「かがむ、傾く」ことをさします。詩人が知って口ずさんでいたみことばは、旧約聖書ですよ。律法と預言書と詩書です。それでなお喜び、恵みをあじわっているのです。私たちは旧約だけでなく新約聖書をよみます。主イエス・キリストの福音をあじわっているのです。

 

2 二種類の人々の行動と態度における違いの源は何か。その心の内にある秘密は何か。

3節その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

エレミヤ17:5-8 主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。 そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。 主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。」

「水路」は複数です。「木」は単数です。水の流れが幾筋にも分かれて流れているそばに、立つ一本の木です。大樹となるのです。主の憐れみの流れと赦しの流れと愛の流れと与り、永遠のいのちに結びつけられて、御霊の実りを結び続けるクリスチャンのイメージです。

それも「時が来ると実がなる」のです。ごく自然の法則の様に、無理をしなくても、時が来ると実がなるのです。

主イエスさまが、弟子たちに神の国について譬え話をなさったときに時が来ると自ずから実がなると、ごく自然に実のある事をしえられました。(マルコの福音書 4章26-29節)「地は人手によらず実をならせる」という言葉が、譬え話しを理解する上でのカギになっていました。どういう意味なのか。ギリシャ語「αυτοματηオウトマテ」文字通りに訳すと「オートマティック」です。成長の自動性をいっている。目に見える原因はない。「神ご自身によってなされる」という意味合いです。

この考えを、心の中に蒔かれた御言葉による人の救い、永遠のいのちへの誕生、聖霊の実り、ひいてはその人々の集まりである教会のいのちということに当てはめると、ある成長は「それ自身によって」あるいわ「自動的に」起こされて来ると言うことになります。しかしながらクリスチャンはたとえそれが経験的には証明出来なくても「おのずから」実を結んでくるのは、実際は聖霊なる神の働きである事を良く知っているのです。この「オートマティズム」(自動性)は「セオマティズム」(神動性)である。

神の国の成長は、個人の中で始まり、それがみからだである教会を形成してますます世界大に広がり、深まり、高まり、長く、永遠につづく。それは福音のもつ「おのずから」の力による。心の中心に蒔かれるみことばのたねの中にある神が仕組まれたおのずからの力による。私たちは、この大切な原則を宣教に際して決して忘れてはならないのです。福音のみことばがもっている、おのずから実を結ばせる力が、発揮されるために、私たちは、自分の内に、みことばを受けていること、働いていることを信じます。伝えた相手の中に既に、みことばは力を発揮しつつあることを信じるのです。

人生の実りは」聖書だけに頼っていてはだめだ」と言う人々が巷に溢れています。神のみことばの教え通りに生きていては敗北すると断言する、自称クリスチャンもいます。しかし詩篇はいいます。「その人は、何をしても栄える」

 

3 聖書は手厳しいのです。神様は二種類の人がいるだけで中間はないと言われます。神を恐れ敬うか、あざけるかです。

4節  悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。内的ないのちが欠落しているのです。

もみがら 何の役に立つでしょうか。役に立つこともあります。枕にいれるとやわらかいのができる。霜をふぜぐために夜中少しづつもやす。人間の籾殻も少しは役にたつのです。しかし、それは、実である米や、麦ほどには役にたちません。多くの場合、わたしたちは麦と区別できない。嵐が吹くと区別できるのです。致命的になにがかけているのでしょうか。内的ないのちです。

5節 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。最後のさばきがある。

 

結び)6節  まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。主はこの世で歩み戦っている、ご自分の民を知っていてくださるのです。み教えに従って賛美と感謝をこめて日々を歩む者を主は慈しみの目をもって見守ってくださっているのです。

主イエスの贖いと愛によって、幸いな道に立たせていただける恵みをいただきましょう。

悪しき者については、「わたしはあなた方を全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」(マタイ7:23)。

 

 

 

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