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2014年2月23日礼拝

2.23礼拝

2014年2月23日 主日礼拝説教                                  朴 柱炫 教師候補者

本文:ガラテヤ人への手紙6章14節—18節

説教題:στιγματα、 スティグマータ、イエスの焼き印

 

序文)今日の御言葉はガラテヤ人への手紙6章14節から18節までです。ガラテヤ人への手紙はパウロがガラテヤ教会に送った手紙です。ガラテヤとは小アジア半島の北部あたりを指します。現在のトルコ共和国にあたる地域です。そこにある教会に送った手紙です。この教会はパウロが伝道して建てたものです。ところが、この教会に大きな問題が起こりました。その問題はユダヤ主義者が教えた内容から始まり広がったのです。パウロが命がけで伝道し、立てたガラテヤ教会に、ユダヤ主義者が入り込み、救われるためにはユダヤ人の律法を守り、割礼を受けなければならないと教えたことです。ガラテヤの人々はそれに惑わされました。彼らはパウロと聖書が教えていないものに耳を傾けたのです。それで、パウロはガラテヤ教会に急いで手紙を送っていることです。彼らにキリストの十字架以外に救いはないと福音の基礎であり中心である恵みを激しい口調で伝えています。

 

Ⅰ 誇るのは十字架のみ

 

さて、なぜ、その教えが問題になるでしょうか。旧約聖書に書いてある割礼と神様の律法を守ることを教えることは間違ったことでしょうか。むしろ、それを忠実にするべきであり、神様の民にふさわしい伝統ではないでしょうか。しかし、パウロはそれを強く批難しています。それは、彼らが救われるための条件として教えたからです。パウロは2章16節で「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」と言っています。ユダヤ主義者が教会に持ち込んだ教えに対するパウロの教えは明白なものでした。ユダヤ人の律法を守ることや割礼を受けることが救いの条件になり、それによって救われることは決してないし、ただ、キリストの十字架のみで可能であると固く語られています。パウロはそれを知ったから信じるようになったと語っています。律法の行ないによって救われる人はだれ一人もいないと固く語っているのです。

 

私たちは純粋な福音より、自分に合う福音を知らない内に作ったことやそれに惑わされていることはないでしょうか。本来、福音は人間のためのものですが、それは人にとって都合がいいことではないです。むしろ、人にとって都合が悪いのが福音です。ですから、人は福音の純粋さに従うより、自分の伝統や習慣から学んだことや自己満足な行動による宗教的な行いを求めるようになりやすいです。ですから、ただ恵みのみ、十字架のみは理解しづらいし、何とか自分の力でしたいと思うのです。ユダヤ主義者たちも、救われるために割礼と律法を条件として付け加えました。彼らにとってそちらの方が都合がいいと思ったからです。しかし、みことばは、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められるもので、律法の行ないによって義と認められる者は、だれひとりもいないと宣言しています。それは、救いに関する神様のみわざに対して人間の能力はすべて無駄な事であるからです。イエス・キリストの十字架を信じる信仰だけが有効で、十字架のみわざですべてが完成したからです。それをパウロは固く語っています。

 

つづけて、2章20節では「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神様の御子を信じる信仰によっているのです」とパウロは告白します。パウロは昔の自分はキリストの十字架とともに死んだと語っています。最高の学問と出身背景を持っている彼は誰より律法に忠実なパウロでした。しかし、彼はすべてのものがキリストの十字架の前では空しいことになったと告白しています。キリストの十字架より価値あるものはこの世には存在しないと告白していることです。そのキリストの十字架に自分も死んで、キリストが自分の人生の新しい主になっていると告白しているのです。今まで多くの信仰者を迫害したパウロの驚くべき変化です。パウロは6章14節でも、「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」と。パウロは今まで学んだ最高の学問や出身背景で得た、社会的な地位や名誉などすべてを捨てでも十字架に従いますと告白しています。その十字架がすべてだと宣言しているのです。しかし、ユダヤ主義者は割礼によって自分の肉を誇りにする者たちであり、それは彼らが十字架のために迫害を受けることを避けるために必死であるので、パウロはそれを批難しています。彼らは十字架の恵みの中に生きることより、ユダヤ人であることが、他の人々から認められることが、もっとも大事でした。私たちも信仰よりも自分の背景などを誇る過ちを犯しやすいものです。どこの国の人であるのか、どこで生まれたか、どこの学校の出身であるのか、どんな仕事や家に住んでいるかなどなど。内容は違いますがユダヤ人が異邦人に対して犯した過ちを、今日も私たちも繰り返しているのです。しかし、そこには救いも、誇りも、何もありません。

 

では、なぜ、ユダヤ主義者は教会にその教えを持ち込んだでしょうか。ユダヤ主義者は、キリストを律法学者の一人で、予言者預言者の中の一人であることは認めました。しかし、キリストが救い主であるし、それが十字架によって完成したことを受け入れなかったです。その理由は二つ考えられます。

一つ目は、彼らは十字架を受け入れると、律法の力を無効だと、またすべての人が罪人であることを認めることになるからです。また、十字架につけられる者は神様から呪われるものだと思っていたから、十字架を認めることは神様から呪われたイエス様を救いの主であると認めることですので、それは彼らにとって理解するのは辛いものでありました。彼らは聖書に対する全体的な理解が出来ていない状態でした。それで、彼らはそれを受け入れることが出来なかったです。

二つ目は、キリストの働きと十字架を認めることは割礼の無効性を認めることになりますので、ユダヤ教徒である彼らはユダヤ教の伝統に違反することになります。それで、別のユダヤ人から迫害を受けることになります。ですから、彼らは迫害を受けたくないから割礼の正当性を主張しています。自分の身を守り、利益を得るために真理を変えてしまったことです。彼らは周りの人々との「和」を崩したくなかったです。今、自分たちが持っている楽な生活を崩したくなかったです。彼らは信じて天国には入りたいのですが、十字架と迫害は避けたいことです。しかし、パウロは大胆に彼らの二元性を指摘し、ただ十字架だけを誇るように固く語っています。

 

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」6章14節

 

誰より誇る資格があったパウロは「主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と固く語っています。イエス様を信じなかったら彼は当時の高い地位に上がり富と名誉に満ちる生活が保証されていたものでした。そのようなパウロはすべてを捨てて、十字架だけが誇りであり、それしかないと大胆に言っているのです。普通の人は手に入れることが出来ない彼の背景と学歴が無駄だと思うようになったのは、彼がキリストと出会ったからです。そのキリストは十字架のキリストであったからです。

 

キリストは何一つの罪もないのに人々の罪のため十字架につけられ、耐えることが出来ない苦しみと神様からの恐ろしい裁きを受けました。その十字架によって、人々が罪から解放される新たな命の道が開かれたのです。その道は主イエス・キリストによるもので、他は決してありません。ですから、パウロは主イエス・キリストの十字架以外に誇りはありませんと言っています。いや、叫んでいるのです。その新しい道はパウロ、弟子たち、多くの信仰者たち、また、私たちのために開かれた道であり、選ばれた神様の民のための道です。ですから、パウロだけではなく、私たちも主イエス・キリストの十字架以外に誇りはありませんと叫ぶべきなのです。また、私たちは主イエス・キリストの十字架以外のものを教会に持ち込むことに注意し、警戒する必要があります。

 

Ⅱ 世界と十字架と私

 

パウロは、自分は、この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのですと言っています。世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたと言っています。この二つのできごとは十字架で起きたのです。また、同時に起こったできごとでもあります。それはとっても大切なできごとであり、私たちはそれを知らなければなりません。

 

まず、一つ目、世界は私に対して十字架につけられたとは、“主イエス・キリストの十字架によって”世界は私に対して十字架につけられたのです。以前、私たちはこの世の支配を受けていたもので罪と死に縛られたものでした。この世の常識に従うものでした。しかし、私たちは、キリストの十字架によって罪と死、またこの世界から解放されました。もう、この世の常識によるものではないのです。神様の国の常識に従うものになったのです。この世界は十字架につけられて、もう私たちに対して有効でなくなったのです。私たちに対する支配や権利は完全に無効になったのです。それは十字架につけられ消滅したのです。キリストがそのいのちの代価を払って私たちを買い戻したのです。私に対する世界との関係は全く新しくなったのです。

 

二つ目は私も世界に対して十字架につけられたとは、世界が私に対して十字架につけられすべての関係が新しくなったことと同時に、私たちが世界に対しても大きな変化が起きたのです。それは私たちが世界に対する権利、希望や欲望を十字架につけられ無効になったことです。すべてがキリストの十字架によって新しく生まれ変わったことです。それはキリストのもとにすべてが買い戻されたことです。もう私たちのものは一切ありません。私たちの時間、財産、体、いのちさえも。すべてがキリストのものになりました。私たちにはもう振り返る道はないし、ただ、十字架の道だけが残っていることです。すべてが十字架に終わり、すべてが十字架で始まりました。私たちはすべてがキリストによって新しく生まれ変わったのです。それが私たちにキリストがなさった十字架のみわざなのです。

 

イエス様を信じることはイエス様とともに十字架につけられることです。それは肉の目には見えない事実ですが、 霊的には実際に起こったことです。十字架で私たちは完全につけられ死んだのです。その死によって、この世界から完全に解放されたのです。私たちは鈍いからその感覚がないかもしれないが、みことばは、キリストと共に十字架につけられ死んだと宣言しています。ですから、それを信じて受け入れることが信仰です。また、キリストと共に十字架につけられ死んだ者として生きるのです。肉の命がある限りは古い自分の欲望や習慣は残っています。それをイエス様に従うようにするのです。それが世界を十字架につけることです。それは死ぬまで続ける信仰の歩みです。

 

Ⅲ イエスの焼き印

 

パウロは手紙の最後に大事なのは新しい創造であり、その基準に従って進む人がキリスト者であると教えています。キリストと共に十字架につけられ死んだ者は新しく創造された者だと教えています。その人には以前とは違う新しい生き方があると教えているのです。それは聖霊の導きに導かれる生き方です。以前は自分の意思と判断で生きた人生でしたが、今からは御霊の意思と判断に導かれる人生です。自分の人生の主人が変わったことです。所有権が完全に変わったことです。すべての所有権が自分を新しくしてくださった方に変わったのです。その方に従うことです。パウロはそのように生きているし、そのように生きるように勧めています。パウロはその生き方はイエス様の十字架を恥と思わないで、御霊に導かれる生き方だと教えています。そのような人は神様の民、イスラエルになると教えています。それは肉のイスラエルではなく、霊的なイスラエルになることです。すなわち、約束の民になることです。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、どんな国の人であるのは関係なく、新しいイスラエルになるのです。それが福音です。そのような人には神様の平安とあわれみがあります。神様の平安とあわれみとは終末の救いと神様の無限な愛を現します。それは一度選んだ民は捨てない変わらないめぐみの約束です。そのような愛と約束を持って神様は私たちを愛しています。そのような愛に答えるために走ったパウロは自分の身にイエスの焼き印を帯びていると告白しています。

 

焼き印という言葉のギリシャ語は「スティグマータ」という言葉で、牛や羊に烙印を押して、誰が主人であるかを表すのです。所有権を明確にすることです。すなわち、パウロは自分の主人はイエス様であるからイエスの焼き印を帯びていると告白しているのです。また、イエス様のために大きな苦難と苦しみによる跡があると告白しているのです。パウロの苦難は第二コリント人への手紙11章21節以降によく書いています。彼は「牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばありました。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、

むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。

幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、

労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」

と告白しています。パウロにとって「スティグマータ」は所有権を明確にするしるしだけではなく、実際に体に残っている多くの傷と痛みでした。パウロの体には数えることが出来ない苦難と苦しみから出来た多くの傷が体に残っているのです。パウロはその傷を見ながらこの手紙を書いているかもしれないのです。いずれにせよ、パウロはこのような外から来ることのほかに、日々押しかかるすべての教会への心づかいがあります。

と告白しています。パウロは教会のために、救われる魂のために苦しんでいるのです。彼は霊的な痛みでやんでいるのです。最後に彼は「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。

もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」(第二コリント11章28-30節)と告白しています。その弱さは彼の弱点であり、失敗であり、苦しみです。この世の人があざ笑うものでした。しかし、彼の弱さはイエス様のためのものでした。彼の人生にはその弱さを通してイエス様の姿が見えたのです。それが彼の「スティグマータ」、すなわち、パウロの体に残ったイエス様の焼き印でした。

 

結論)

 

パウロはクリスチャンになってからは、心理的な安定、心の平安、環境を超える余裕が誇りだと教えている偽り教師にたいして多くの弱さを見せました。それは彼の弱点であり、失敗であり、苦しみあり、貧しさであり、不安定な生活であり、嫌な事であり、苦しみでした。イエス様を証ししたため、お金がなくて、自分の足りなさのゆえに常にイエス様に頼らなければ生きることも困難な生活の連続でした。また、「日々押しかかるすべての教会への心づかいがあります」と教会と救われるべき魂のことを考えることで、精神的にも不安定であると告白しています。それで、世の人々は皆あざ笑いました。イエス様を信じて、そのために生きるパウロの人生は目に見える祝福と栄えより苦難と貧しさと惨めに見える生活の連続だからです。しかし、彼の弱さはイエス様が覚えてくださることです。なぜならば、イエス様がまず、その弱さを見せてくださったからです。それが十字架です。十字架の上のイエス様は完全な無力の状態でした。人々の目には非常に不安定で、息することさえも苦しんでいる血だらけの惨めな姿でした。それで、その十字架を皆あざ笑ったのです。しかし、その弱さが神様のみこころでした。イエス様はその弱さに従ったのです。パウロの弱さは結局、イエス様の十字架につながるものです。単に自分の欲望による罪深い弱さとは違うものです。なぜならば、パウロはその弱さが誇りだと告白しているからです。私たちが単に考える弱さが誇りになるはずではないからです。

 

皆さんの中でイエス様を信じた時から今まで何も変化、不便、嫌なこと、困難にあったことがない人がいますか。もし、そのような人がいるとしたらそれは祝福より警告だと考える必要があります。祝福はただ感謝だけの生活で、何も困難のない中で平和と安定をもたらすものではありません。もちろん、そのような祝福が約束されています。しかし、イエス様のために生きる者、証しする者は必ず迫害があります。何かがあるのです。ですから迫害の中での祝福であり、困難の中での平和と安定なのです。それが正しいのです。必ず、イエス様を信じる者は「スティグマータ」、すなわち、イエス様の傷跡が残るのです。

皆さんはイエス様の焼き印を自分の生活で刻んでいますか。パウロのように自分の体に刻む生活ですか。今の時代はガラテヤ教会のように割礼問題や律法に関する問題はありませんが、この世を風靡する考え方には傾きやすいのです。ユダヤ主義者のように信じようともしない人があれば、信じても十字架は負いたくない、迫害は受けたくないから周りに合わせて言い訳しながら他の教えに従う人がいます。時代の流れだからとか、こんなに信じる者が少ない所では無理でしょうと言ったり、相手に嫌な思いをさせたくないと言い訳しながら簡単に真理を変える場合があります。いずれにしても、その行為はユダヤ人と同じく十字架は恥ずかしいものであると告白することです。パウロは「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)と教えています。この世と調子を合わせることではなく、神のみこころに合わせるために自分を変えなさいと言っています。目に見えるものではなく、目に見えなくても永遠なものに従うことを語っています。それが真理であり、命であり、真の道であり、私たちの本来の生き方であるからです。この厳しい社会の中で神のみこころに従って歩むことは簡単ではないでしょう。また、それによって損害や迫害を受ける覚悟をしなければならないこともあります。周りからいじめを受けることや嫌なことや恥ずかしいこともあるかもしりません。自分の信仰についてはっきり言わないともっと楽に過ごすことも出来るでしょう。心で自分はしっかり信じれば良いと思っていることはないでしょうか。

 

しかし、キリストは私たちのために大きな苦しみ、いじめ、恥ずかしいことを受けました。人々から嫌われ、十字架に付けられ神様からも捨てられました。神様の子であるキリストはもっと楽に過ごすことも出来ました。そんな嫌なことはしなくても問題なかったです。私たちに対して心でかわいそうだと思っても何もしなくても、それに対する責任を取る必要が元々なかったです。しかし、キリストは神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えたのです。それが十字架なのです。ですから、私たちも十字架だけを誇り、わきまえて神のみこころを知るために自分を変え従うべきなのです。

 

そのように生きると、私たちの生活と体には自然に色んな「スティグマータ」、イエス様の傷跡が残るのです。それが私たちの本当の弱さなのです。私たちがこの世の歩みを怠慢にすると最後にはイエス様から「悪いなまけ者のしもべだ。」という厳しい声を聞くでしょう。しかし、十字架を誇り、イエス様のために生きるなら自分の身に自然に残った「スティグマータ」、イエス様の傷跡による涙と疲れはイエス様が覚えてくださるのです。そして、イエス様は私たちの体のその傷を見ながら、ともに涙を流しながら私たちの涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。また、私たちの傷に薬を塗ってくださるのです。ですから、今日もイエス様の十字架を誇りましょう。ただ、十字架だけを。

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