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2016年5月1日 礼拝 説教(日本語文)音声あり


 
2016年5月1日 「聖礼典をどのように受け、与え、養われるか?」その二

ガラテヤ3:6-9、使徒2:38-39

序文)先回、礼典についてと洗礼についての学びをしました。その時、ウェストミンスター信仰告白第28章「洗礼について」の4−7項を残しましたので、今朝はそれについて学びます。

Ⅰ ウェストミンスター信仰告白 第28章 「洗礼について」
四項「実際にキリストヘの信仰と服従を告白する人々だけでなく、信者たる両親または片親の幼児らも、洗礼を授けられなければならない。」

1「実際にキリストヘの信仰と服従を告白する人々だけでなく、信者たる両親または片親の幼児らも、洗礼を授けられなければならない。」
この項の大前提は、総称的に一つなる教会の存在にある。
{旧約の下にある教会の形態と、新約の下にある教会の形態の間には区別がある。「マタイ16:18」の主がペテロに語られたことばは、はっきりそのことを示している。キリストの死、復活、昇天及び聖霊降臨によって定められた教会の機構と管理の新形態を認めなければならない。}とはいえ、この区別は、旧約時代における教会の存在の否定、両時代における教会の総称的一体性および継続の否定の理由とはならない。旧約の神の民の組織が明白に教会と呼ばれている事実に加えて、新約の教会は、アブラハムとなされた契約の上に築かれていることを、心にとめておかねばならない。新約の教会がおこなっているその特定の契約管理はアフラハムとの契約の延長であり、展開である。
これは、パウロがガラテヤ人への手紙で論議していることである。「信仰による者は信仰の人アブラハムと共に祝福を受けるのである。」また、「神によってあらかじめ立てられた契約が430年の後に出来た律法によって廃棄されて、その約束が空しくなるようなことはない」(ガラテヤ3:9、17)。キリストによって異邦人にまでおよぶ祝福は、アブラハムの受けた祝福であり、彼に与えられた契約によって確立された祝福である(3:14)。教会は、旧、新それぞれの時代に存在している二つの有機的組織体ではない。それは多くの枝を持つ一本の木に比べうる。すなわちすべての枝が一つの根一つの幹から生えでて、一つの有機的生命を形づくっているようなものである(ロマ11:16〜21、エペソ2:12、19〜20)。
両時代に共通な原理が存在する。新約はアブラハムとの契約の拡大であり、展開である。すべての国民はアブラハムに与えられた約束の言葉「他のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記12:3)、によって祝福される。新約の信者たちはアブラハムのすえであり、約束による世つぎである。恵みの契約による結合、交わりという点から、教会はすべての時代を通じてすべての色々の中にある、神の契約の民である。

2 アブラハムとなされた契約は聖書の始めから見られる契約の本質を最もはっきりと表わしている(創世記17:1〜14)。
アブラハムが地のすべてのやからが彼によって祝福されるという約束を受けた。この契約のしるしとして、割礼が重大な意味を持っていた。「弟子はみな割礼を受けなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである」(10節)。「こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠の契約となるであろう」(13節)。「割礼を受けない弟子は我が契約を破るゆえ、その人は民の内から断たれるであろう」(14節)。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(創世記17:7)、をしるし、意味することとして割礼は証印となった。神との結合とまじわりのしるしである。

3 出エジプト6:12、30、レビ19:23、26〜41、申命10:16、30:6、エレミヤ4:4、6:10、9:25などは、割礼がけがれの除去という意義を持つことを示している。割礼はエホバの聖前に出るにふさわしいきよめのしるし、また、証印であり、神との結合と交わりの証印でもあった。

4  パウロは「割礼はアブラハムがまだ無割礼の時に持っていた信仰によって受けた義の証印であった」といっている(コロサイ2:11〜12、ロマ4:112:25〜29、ピリピ3:3)。したがって、それは信仰による義の証印である。
これらによってわかることは、割礼の意味していることは、救いの富をしめしており、霊的な祝福を指している。これらによって、先の洗礼の意味と、割礼の意味が密接に相似していることがわかる。原則的には、洗礼と割礼の主要槻念は同一である。すなわち、主との結合と交わりである。旧約においては、このような祝福のしるし、証印が神の制定と命令によって幼児に施されたという事実を充分考慮しなければならない。割礼は洗礼によって意味されているものと原理的に同じものを意味していて、契約の関係と特権の中に生れた幼児たちに施されたのである。

5 この持権は継続された。
恵みの契約の旧約時代の展開として、新約がある。そのしるしとしての割礼が幼児にも命じられた。そのことで新約時代の幼児たちだけは、除外されていると考えることができるか。新しい契約はアブラハムの古い契約のようでないのか。新約のしるしとしての洗礼は、割礼と同じ意義をもっている。洗礼の方が割礼より大きな祝福を与えるというようなことはない。同じである。
もし新約の幼児が除外されているというのなら、この変化は、神が以前に制定された方法の転倒である。そのような変更を示唆する記事が聖書の中に発見されるでしょうか。ない。中止命令はない。撤回の指示はない。しるしを幼児に施行することは、今も有効である。

6 Ⅰコリント7:14
「なぜなら,信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻はおっとによって聖められているからです。そうでなかったら,あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところがあなたがたの子は現に聖いのです。」恵みの契約によって、主の恵みが流れる通路と信者がなっているからといっている。

7 使徒16:15「そして,彼女も、またその家族もバプテスマをうけたとき」33〜34「看守は、その夜、時を移さず、二人を引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとすぐに,彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。それから,二人をその家に案内して,食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。」 家族洗礼の例。

8 使徒2:38〜39「ペテロは答えた。悔い改めなさい。そして、それぞれの罪を許していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば,賜として聖霊をうけるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

Ⅱ 五項「この規定を侮り、あるいはなおざりにすることは、大罪であるが、それなしにはだれも再生させられ、あるいは救われることができないとか、受洗者はみな疑いもなく再生させられているといったように、恵みと救いがそれに不可分に付加されているのではない。」
ここは、洗礼について、合理主義的な考えと、何か迷信的な考えをすることを排除している。神のことばである聖書に基準を置いて考えなければならない。

Ⅲ 六項「洗礼の効果は、洗礼が執行されるその時だけのものではない。けれどもこの規定の正しい使用によって、約束されている恵みはただ提供されるだけでなく、神ご自身のみ旨の計画に従って神が定められた時に、老幼を問わずその恵みが属している者に、聖霊によって現実に表示され授けられるのである。」
洗礼の効果の表れる時期は、聖霊の働きに属することである。人間がかってに憶測してはならない。

Ⅳ 七項「洗礼の礼典は、だれに対しても、ただ一度だけ執行されるべきである。」
洗礼が正規におこなわれたキリスト教の洗礼であった以上は、やり直しはすべきでない。

結び)洗礼の意味と祝福を覚えて、感謝いたしましょう。特に幼児洗礼の意義の重要さを知り、自分の子供たちを神の契約の子供として自覚して育てましょう。契約の子供の洗礼をまだ授けていない場合、神様の恵みを施そうとされる熱心を信じて、心から応じましょう。

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