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2017年9月24日 礼拝音声 説教 マーク・ボカネグラ師 コロサイ人への手紙 連続講解説教

 

コロサイ人への手紙 1:1-2 / 不安な者への良い知らせ

Col. 1:1   神のみこころによる、 キリスト・イエスの使徒パウロ、 および兄弟テモテから、 2 コロサイにいる聖徒たちで、 キリストにある忠実な兄弟たちへ。 どうか、 私たちの父なる神から、 恵みと平安があなたがたの上にありますように。

 

  1. 序論

自分の人生または自分の愛する家族の人生について考えると、「不安」になることがあるでしょうか。自分が思ったほど自分の道をコントロールできてないことに気付くとき、自分が保証できると思ったものが保証できないと気付くとき、自分が頑張って得たかったものが手に届かないことに気付くとき、あなたは「不安」にならないでしょうか。

 

私が夫または父親になったときに、自分の無力さを改めて感じました。

私は私の家族をどれだけ事故や病気、危険などから守れるでしょうか?もちろん、ある程度気を付けることはできますが、自分の限られた力やリソース、時間を用いても完璧に彼らの安全と健康を保証することはできません。ガンがどこに発生するか、飲酒運転している人がどこにぶつかるのか、災害がどこに起こるのか、私にはコントロールできません。

 

私は私の家族を経済的に支えたいです、もちろん、私はできる限り頑張りますが、自分の限界を乗り越えることも、景気をコントロールすることも、人の心を導くことも、自分が長生きすることを保証することもできません。経済的な支えを100%保証できないのです。

 

私も家族に幸せと夢を与えたいですが、子供がどの学校を受験するか、どの会社に就職するか、どういう相手と出会うのか、全く予想できませんし、完璧に準備することもできません。

 

また牧師であっても、私は私の妻と子供の救いも保証できません。どれだけ愛を注いでも、どれだけ福音を語っても、どれだけ犠牲を払っても、究極的に私は自分の家族たちの心を操ることはできないのです

 

カオスのようなこの世界、限界のある自分、弱肉強食の社会や、コントロールすることができない人間の心などを考えた上で人生を考えるとだれでも「不安」になるのではないでしょうか。

 

では、この「不安」というものを私たちはどう解決したらいいのでしょうか。ほとんどの人は、できるだけ助けや、力など、支援を様々なところから借りて、「安定」を確保するために動くのではないでしょうか。お金、教育、学歴、会社、社会的地位、権力、ブランド、ネットワークなど、あらゆるものを利用して、この世界のカオスをできるだけコントロールしようと考えます。。

 

その結果、自分が置かれている状況に「物足りなさ」を感じ、自分の将来に対して「不安」があるから、私たちは忙しくなっているかもしれません。自分の将来に対して、常に「不安」があるので、私たちは忙しくしているのかもしれません。

 

本日から毎月第4週に、コロサイ人への手紙から連続説教をさせていただきます。一世紀のコロサイの人々は私たちと似たような問題を抱えていて、似たような解決を求めていました。コロサイという町は多文化、多宗教であり、一般の人は色々な神様を拝んでいて、色々な宗教や哲学、伝統のいいところを取って、「不安」をできるだけ治めようとしていた民でした。クリスチャンになり立てのコロサイ人は唯一の神様を信じていましたが、まだコロサイ人の文化と価値観が染みついていました。この「不安」を抑えられるのならら、クリスチャン、ノンクリスチャンを問わず、で、何でもやってみて、取り入れようとする傾向があったのです。

 

それゆえに、パウロはそういうコロサイ人を励まし、注意するために、この手紙を書いたのです。彼らの「不安」を慰めるために、パウロがなんと言ったと思いますか?「イエス様だけで十分」といったのです。忙しく、不安で、常に心配を抱えているる21世紀の日本の社会人にとって、「物足りない」言葉にきこえるかもしれませんが、実は、その言葉は「私たちの想像以上に、わたしたちに「安らぎ」を与える言葉なのです。

 

本日の箇所を通して、コロサイ人への手紙の全体のメッセージを分かち合いたいと思います。それは、コロサイ人が自分達の不安によって人間の考えや伝統をキリスト教に付け足す恐れがあったため、パウロはキリストのみにある恵みと平和で十分であることを宣言したのです。このテーマを説明するために、コロサイ教会の不安、そして、コロサイ教会への慰めを見ていきたいと思います。

 

  1. コロサイ教会の不安

 

まず、一つ目のポイントはコロサイ教会の不安についてです。

パウロが語っているメッセージを理解するために、まずは2節に書いてあるコロサイという都市の背景とコロサイ教会の課題を理解する必要があります。

 

IIa. コロサイの「混合主義」

ある聖書学者は、「コロサイはパウロの手紙の中で最も影響力のなかった都市だ」と言いました。。大都市のエペソと比べたら、コロサイはかなりの田舎町でした。

実は、コロサイはその数百年前はその地域の一番重要な都市だったのですが、聖書に書かれた当時では、近くのラオデキヤやヒエラポリスのほうが盛んになっていました。そのため、使徒行伝ではコロサイについて一切書かれていませんしし、多数の都市に行って伝道したパウロでさえもコロサイでは宣教をしたことがありませんでした。コロサイという町は忘れられた都市だったのです。

 

しかし、当時のコロサイはまだローマ帝国の都市の一つでもあり、重要な道路も置かれていて、様々な文化や、人種、宗教がコロサイの町を通っていました。コロサイには、かなりのユダヤ人がその人口を占めていたので、、コロサイ人にもユダヤ人の考え方が浸透していた可能性も高かったのです。その結果、コロサイ人はこの多様性の中で生きるため、様々な文化や、人種、宗教を敬い、受け入れ、混合する傾向がありました。、コロサイは一つの宗教、哲学、文化に捕らわれず、「混合主義」の都市であった考えられます。そのため、パウロは霊的な免疫が低い、クリスチャンになり立てのコロサイ人に注意をするために、手紙を書いたのです。

 

では、コロサイ教会の中にあった「混合主義」または「偽りの教え」とはどういった教えだったのでしょうか。まず興味深いのは、パウロの他の手紙に書いてある「偽りの教え」と比べると、パウロはある人や、宗派、哲学などを指摘していません。聖書学会の中でも、この「偽りの教え」はユダヤ教的な教えなのか、地域の宗教なのかどうかをいろいろな書物の上で、何千ページにもわたって議論しあっていましたが、今日(こんにち)に至ってもまだ、答えは明らかにされていません。。コロサイの「混合主義」によって、コロサイの世界観にはっきりした「ラベル」を付けることはできませんが、コロサイ人の世界観とはいろんな考えを吸収して、うまく交じり合い、常に進化していくという一貫した哲学または世界観なのです。それ故に、パウロはコロサイ2:8で「あのむなしい、 だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、 注意しなさい。」と言ったのです。

 

私は、それは、日本文化の価値観、世界観、宗教観と似たような部分があるのではないかと思います。私の限られた経験と知識では、日本の世界観を「神道」、「仏教」、「無宗教」、「団体主義」、「ナショナリズム」、「モダニズム」などのようなラベルをきれいに付けることは到底できません。。それに日本の価値観は、いい意味で水のようなもので、一つの形に捕らわれず、他からの良いものを常に吸収しながら、常に進化している文化のように私は感じます。。、日本の価値観には適切な「ラベル」または「形」を当てはめることはできないかもしれませんが、コロサイ人の「混合主義」に基づいた世界観のようなものが日本にもあるのではないかと、日本人も外国人も意識しているかもしれません。

 

IIb. 「混合主義」の危険性

 

では、コロサイの「混合主義」を見て聞いて、パウロはどういった点を指摘したでしょうか。手紙の全体を見ると、三つの危険な要素を指摘しているのがわかります

 

一つ目の危険な要素は、イエス様の「満たし」に物足りなさを感じ、イエス様の満たしのゆえにさらなる満たしを求めていたのです。ある意味、「キリストのみ」を否定していたのです。コロサイ2:8-10を見ると、それが明らかになります。

 

8 あのむなしい、 だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、 注意しなさい。 それは人の言い伝えによるもの、 この世の幼稚な教えによるものであって、 キリストによるものではありません。 9 キリストのうちにこそ、 神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。 10 そしてあなたがたは、 キリストにあって、 満ち満ちているのです。 キリストはすべての支配と権威のかしらです。

 

コロサイ人はイエス様の良さを直接的には否定していないのですが、間接的にはイエス様の完全な満たしを大胆に拒否しています。イエス様のみで満たされない不安があったのでコロサイ人はキリスト教と他の「満たし」を混合しようと思ったのです。

 

ある方はこれを聞いて、「それは別に何にも悪くない」と思われるかもしれません。簡単な例えにしてみましょう。もし私が妻のごはんを食べながら「わ!すごくおいしい!やっぱり恵のごはんが一番おいしい!」といって、ちょっと醤油をごはんにかけて食べていたら、私の行為を見て、妻はどう思うでしょうか?どれだけ僕がうまく言い訳をしても、めぐみのごはんでは物足りない、不完全で、美味しくないと思っているということですよね。それと同じように、もしある夫が「妻のことを一番愛している」といいながら、結婚以外のちょっとした「恋愛」を付け足したら、妻のことを完璧に否定しているということですよね?

 

パウロにとってコロサイ人達の不安から来る「混合主義」というものはイエス様の完全さ、存在、満たし、を大胆に否定することを意味していました。。

 

二つ目の危険な要素は、この「偽りの教え」とは「キリストにある信仰」の上に、他の「行い」を付け足して神様に近づこうとしたのです。福音はキリストにより頼むだけで神と親しく交わることができたのですが、コロサイ人達はまだ不安だったのです。

信仰のみで本当に十分なのかと疑問に思っていたのです。そのため、パウロはこのように注意します。

 

16   こういうわけですから、 食べ物と飲み物について、 あるいは、 祭りや新月や安息日のことについて、 だれにもあなたがたを批評させてはなりません。 17 これらは、 次に来るものの影であって、 本体はキリストにあるのです。 18 あなたがたは、 ことさらに自己卑下(じこひげ)をしようとしたり、 御使い礼拝をしようとする者に、 ほうびをだまし取られてはなりません。 彼らは幻を見たことに安住して、 肉の思いによっていたずらに誇り、 19 かしらに堅く結びつくことをしません。 このかしらがもとになり、 からだ全体は、 関節と筋によって養われ、 結び合わされて、 神によって成長させられるのです。

 

頭(かしら)であるイエス様により頼んで神様と交わるよりも、「混合主義」は自分の「頑張り」、自分の「苦労」、自分の「忠実さ」、自分の「義」によって神様とまじわろうとしたのです。自分の「行い」によって、天国へのはしごを登るような考えでした。そのほうが、「確実」だとコロサイ人達は勝手に思っていたのです。

 

しかし、パウロにとって「混合主義」は、イエス様の十字架と蘇りですでに得ることができた完璧な赦しと永遠の交わりを大胆に否定しているものでした。。イエス様の御業、「義」、十字架と蘇りと比べると、そのような私たちの行いは意味のない影のようなものなのです。

 

三つ目の危険な要素は、神様の福音の上に、人間の考える知恵を付け足したかったことです。コロサイ人たちにとっては「キリストのみ」、「信仰のみ」、「聖書のみ」という考え方は狭くて、堅い、見解の広さに欠けていると思えたのかもしれません。だから、悪気なくいろんな考えや習慣を取り入れたのでしょう。しかし、コロサイ2:20-23節で、パウロはこのように教会を注意しています。

2:20 もしあなたがたが、 キリストとともに死んで、 この世の幼稚な教えから離れたのなら、 どうして、 まだこの世の生き方をしているかのように、 21 「すがるな。 味わうな。 さわるな」というような定めに縛られるのですか。 22 そのようなものはすべて、 用いれば滅びるものについてであって、 人間の戒めと教えによるものです。 23 そのようなものは、 人間の好き勝手な礼拝とか、 謙遜とか、 または、 肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、 肉のほしいままな欲望に対しては、 何のききめもないのです。

 

要するに、「混合主義」の考え方は神様よりも自分達の方が「賢い」と思っているので、色々ないろんな要素を福音に付け加え、人間の好き勝手な礼拝をし、聖書に定められていないを行うのです。

 

パウロにとって、「混合主義」は全知全能の神様の知恵を大胆に拒否するものだったのです。

しかし、「混合主義」の根底にあるものは人間の「不安」からくる感情だと思います。神様の律法からいうと、第十戒の「むさぼり」なのです。私たちはイエス様からいただいた救い、神の子であるアイデンティティー、聖霊様がくださる永遠の祝福、花婿であるイエス様の無条件な愛を与えられているのに、他人の喜び、力、地位、幸い、賜物に目が行ってしまい、自分が本当に天国に行けるのか、自分は本当に愛されているのか、本当に祝福されているのかを疑い、「不安」になってしまうのです。そして、カオスのようなこの世界、弱肉強食の社会、山のような自分の罪の数かず、神様の聖なる御性質をみて、さらに「不安」になってしまうかもしれません。それゆえ、コロサイ人のクリスチャンは、どうにか、自分が目に見え、肌で感じられ、自分の手でコントロールできるもの、確実に保証されている、喜び、力、地位、幸い、賜物、平安を得たいと思っていたのです。そのため、キリスト、信仰、御言葉に加えて、他の手段を探していたのかもしれません。

 

日本人クリスチャンも似たような葛藤があると言えるのではないでしょうか。例えば、神の子であるアイデンティティーを頂いているのに、一流大学や大手企業に認められたい。聖霊様がくださる永遠の祝福があるのに、私たちはお金や地位から来る安定もほしい。花婿であるイエス様の無条件な愛を与えられているのに、恋愛や結婚にさらに満たされたい。私たちはどのようにイエス様の救いに対して、「物足らなさ」を感じているのでしょうか。

 

III. コロサイ教会の福音

では、パウロはどのようにコロサイ人のような「不安」を抱(いだ)いているクリスチャンに「平安」を与たえたでしょうか。二つ目のポイントは、パウロが語ったコロサイ教会の慰めです。それは、「神様の福音」でした。

 

IIIa. 神様の御言葉である福音

まず最初に、パウロは神様の御言葉の力によってコロサイ人に「平安」を与えました。

 

初代教会では、「新約聖書」という書物はありませんでした。もちろん、各教会には旧約聖書はありましたが、どのようにイエス様が旧約聖書を成就させて、イエス様はどうして完璧な救いを人々におあたえになることができたのか、明確に説明している御言葉はありませんでした。そのため、神様のメッセンジャーとして、イエス様は使徒と預言者たちを各教会をお送りになりました。そして、彼らが述べ伝え、書き記したメッセージは天から来る「神様の御声」、「神様のみことば」として扱われました。

 

1節に書いてある、「神のみこころによる、 キリスト・イエスの使徒パウロ」というパウロの 挨拶は、この手紙が「神様の御声」であることを証明しています。使徒パウロが、この「福音」は神様からの御言葉だと宣言するとき、人の知恵と比べることができないことを読者に注意しているのです。

 

グローバル社会の中にいる私たちは、色々な考え方、価値観、宗教、哲学、世界観に接していて、それら一つ一つの考え方の良さを感じているので、神様のみにより頼むのは難しいと思う方々もいるかもしれません。またどの「ことば」を信じればいいのか、混乱して、不安になるときもあります。しかし、神様のことばと人間のことばを比較してみてください。

 

神様は御言葉のみによって、無から全地を創造したのですそして、シナイ山から神様が御言葉を語られた時、山の上に雷といなずまと密雲があり、 角笛の音が非常に高く鳴り響いて、全山が煙り、激しく震えている中から、【主】は火の中から御言葉を述べられました。神様の御言葉と一流大学や大手企業のことばを比べることができるでしょうか。

 

神様の言葉によって、イエス様が大声で「「ラザロよ。 出て来なさい。 」と叫んだ時に、数日間死んでいた人が一瞬で蘇ったのです。そして、最後の日に、エゼキエル37章で約束されてる通り、ひどく干(ひ)からびていた骨の谷間に、主が「見よ。 わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、 おまえたちは生き返る。」と語られる時、私たちは一瞬で死から蘇るのです。神様の御言葉と億万長者や権力者のことばを比べられるでしょうか。

 

この同じ御言葉によって、私たちの石のように冷めて、死んでいた心が命に満ち溢れた心に変えられ、イエス様を自分の王、救い主、花婿として告白することができたのです。この主は、最後の日に、 「見よ。 わたしは、 すべてを新しくする。 」と言われるときに、以前の天と、 以前の地は過ぎ去り、天の都がくだり、死のない、苦しみのない、悲しみのない、新しい天と地となるのです。神様の御言葉と親、夫、妻、こども、愛する人のことばを比べられるのでしょうか。

 

そして、忘れられた町であったコロサイに送られたこのパウロの手紙も同じ力のある神様の御言葉なのです。パウロが語った福音も同じ力があるのです。この神様の良い知らせは、私たちの心に命を吹き込むことができ、私たちのなまぬるい愛を熱くすることができ、私たちの意志を刷新しあなたに満ちあふれる祝福を与えることができます。このように力のある言葉はあるでしょうか。

 

パウロはこのようにいいました。

2 (使徒として私が苦闘している理由)は、 この人たちが心に励ましを受け、 愛によって結び合わされ、 理解をもって豊かな全き確信に達し、 神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。 3 このキリストのうちに、 知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。 4 私がこう言うのは、 だれもまことしやかな議論によって、 あなたがたをあやまちに導くことのないためです。

 

だからこそ、迷わず、確信をもって、希望をもって、御言葉のみにより頼むことができるのです。迷わず自分の子供、自分の愛する家族、自分の友達を御言葉のみに導くことができるのです。

 

IIIb. 完成された福音

 

しかし、私たちは御言葉があるのに、なぜ「不安」になるのでしょうか。それは、イエス様にあるすでに完成された福音を忘れてしまっているからです。

 

常に変わり、常に進化するコロサイ人たちの「混合主義」は「不完全」なので、常に次の新しいことを探し求め、常に状況を改善するために働く必要があるのです。そして、いつまでたってもその「不安」を消す事ができないので、休む事ができないのです。

 

しかし、イエスキリストはそれとはまったく違うのです。イエス・キリストにある良い知らせは、私たちが求めているものすべてを与えてくださいます。福音は進化する必要がありません。福音を改善する必要もありません。「福音」という完成された良い知らせで、私たちはただそこにあって休み、平安を頂くだけなのです。

 

この手紙を通して三つの視点から福音の完成について見ることができます。

 

まず、2節に書いてある通り、私たちは「キリストにある」ものとして生きているという事です。これは私たちがイエス様の完璧な支配の中にいるのということを指しています。

1:13 神は、 私たちを暗やみの圧制から救い出して、 愛する御子のご支配の中に移してくださいました。 14 この御子のうちにあって、 私たちは、 贖い、 すなわち罪の赦しを得ています。

 

では、私たちの王であるイエスキリストは私たちを守ることができるのでしょうか?

15 御子は、 見えない神のかたちであり、 造られたすべてのものより先に生まれた方です。 16 なぜなら、 万物は御子にあって造られたからです。 天にあるもの、 地にあるもの、 見えるもの、 また見えないもの、 王座も主権も支配も権威も、 すべて御子によって造られたのです。 万物は、 御子によって造られ、 御子のために造られたのです。 17 御子は、 万物よりも先に存在し、 万物は御子にあって成り立っています。 18 また、 御子はそのからだである教会のかしらです。 御子は初めであり、 死者の中から最初に生まれた方です。 こうして、 ご自身がすべてのことにおいて、 第一のものとなられたのです。 19 なぜなら、 神はみこころによって、 満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、 20 その十字架の血によって平和をつくり、 御子によって万物を、 御子のために和解させてくださったからです。 地にあるものも天にあるものも、 ただ御子によって和解させてくださったのです。

私たちは他の宗教、人の知恵、この世の権力者から力を借りる必要があるでしょうか。アルファでもあり、オメガであり、万物を支配されておられる、神の子であられるイエス様にできないことはあるでしょうか。知らないことがあるでしょうか。

 

コロサイの教会は、既に、今もイエスキリストの完璧な支配と守りの中にいるのです。不安な者にとっては良い知らせなのです。

 

二つ目は、2節に書いてある通り、コロサイの教会ははすでに「聖くされた」ものであるということです。私たちは、イエスキリストの御業によって、完璧に赦されており、聖い者にされています。

21 あなたがたも、 かつては神を離れ、 心において敵となって、 悪い行いの中にあったのですが、 22 今は神は、 御子の肉のからだにおいて、 しかもその死によって、 あなたがたをご自分と和解させてくださいました。 それはあなたがたを、 聖く、 傷なく、 非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

 

私たちはなぜ自分の救いに対して不安になるのでしょうか。なぜ救いの確信を得るために、または神様に近づくために、様々な「行い」をする必要があるのでしょうか。どれほどあなたの信仰が弱くても、どれほどあなたの罪の山が高くても、どれほどあなたの行いが罪に満ちていても、あなたの王は既にあなたを聖くし、神様の御前に立たせてくださいました

 

三つ目は、2節に書いてある通り、父の神は既に「恵みと平安」を与えられたということです。

 

「どうか、 私たちの父なる神から、 恵みと平安があなたがたの上にありますように。」はただの形だけの挨拶ではありません。これはアロンの祝祷を省略したものです。パウロは神様に召されたメッセンジャーとして、神様がコロサイ教会に満ち溢れた恵みと平安を与えると約束されておられると伝えているのです。それは、御父が天に昇られたイエス様に、天の祝福と平安を与えられたように、キリストと共に蘇った私たちは、同じ恵みと平安をいただいているということなのです。

 

3:1 こういうわけで、 もしあなたがたが、 キリストとともによみがえらされたのなら、 上にあるものを求めなさい。 そこにはキリストが、 神の右に座を占めておられます。 2 あなたがたは、 地上のものを思わず、 天にあるものを思いなさい。 3 あなたがたはすでに死んでおり、 あなたがたのいのちは、 キリストとともに、 神のうちに隠されてあるからです。

 

もうすでに、蘇られたイエス様は私たちの必要のすべてを私たちのために得られたのです。もう不安になる必要はありません。私たちは、ただただ、イエス様にあって完成された福音に休んで、ただキリストのみにより頼むことを喜びます。

 

私でも、こんなにシンプルなメッセージでいいのか、不安になりました。しかし、これが福音なのです。私たちの不安を解消する唯一の手段はすでに完成された、ゆるがない、永遠の神様の福音なのです。

 

  1. 結論・適応

 

だから私たちは不安な時にただ主イエスキリストの身下に駆けつけるのみです。

ハイデルベルク信仰問1では、イエス様にある慰めを一番簡潔に、美しくまとめています。

 

問1 生きる時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか?

答 わたしのからだも魂も、両方とも、 生きる時も、死ぬ時も 、

わたしのものではなく 、 わたしのほんとうの救い主イエス・キリストのものであることです 。このお方は、ご自分の貴い血によって 、 わたしのすべての罪の代償を、完全に支払って下さいました 。そしてわたしを、悪魔のすべての力から、救い出し 、6 今も守って下さいますから 、7 天にいらっしゃいますわたしの御父のみこころによらないでは、 わたしの頭からは、一本の髪の毛も落ちることはありません 。8 そればかりか すべての事が わたしの祝福に役立つに違いないのです 。 9 そのため、主は、その聖霊によっても、 わたしに永遠の生命を与えることを約束してくださり 、10 これからは、わたしが、心から進み喜んで、 主のために生きることができるようにして下さるのです 。

 

お祈りしましょう。

 

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