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2018年8月5日 礼拝 説教 マタイ6:25-34,ルカ12:22-34「明日が心配ですか?」(録音音声あり)


 
2018年8月5日 マタイ6:25-34ルカ12:22-34 「明日が心配ですか?」

序文)先回の段落で、生涯をかけて救い主である主イエス様にしたがって、地上では、今つながっている地区教会に仕え、天に宝を積みながら、主イエス様とともに嗣業を受け継ぐことを楽しみに生活しましょうとまなびました。今朝の段落は、主に仕える生涯は、まず「神の国を求める」姿勢をつらぬくので、そのような者たちへの神様の側の備えの十分さを教えられます。信頼を仕えている主に置くことからくる、明日への心配からの解放が教えられています。

Ⅰ 25節「空の鳥、ゆりの花を見よ」

1「だからわたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べものよりも大切なもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」

いのちは神による。「だから、わたしは言います。」と主イエス様は話を続けておられます。主はここで、いのちやからだのことを全然考えなくて良い。そのために何もしなくてよいと、怠け者の勧めをしておられるのでは決してありません。そうではなくて、思い煩うことを禁じておられるのです。この「心配したり」と翻訳していることばは、「思い煩い」とも訳します。要するに心が二つの方向に配られるので、中心を一心にみつめることができないで、ちりちりばらばらになり、二心になるのです。いのちやからだに関して、こころがみつめていなければならない中心は何か。それを主はつぎのように教えておられます。神様の養いは十分である。いのちの成長にとって、人間の心配、ないしは思い煩いは何にもならない。

 

2 いのちは食べ物よりも大切であり、からだは着物よりも大切だからだ。ここに私たちの心が見つめているべき原理があります。そして、その裏付けに26-32節の具体例が示されています。食物よりもいのちが大切。着物よりからだが大切。いのちといい、からだといい、この肉体的生命は食べ物や着物といわれる物質とはくらべることができない。次元が違うのです。

いのち、からだはどこからどのようにして得て、保たれているのでしょうか。それは実に神の賜物です。私たちは自分で自分の存在を作り出すのではありません。神がそう望み決定されたから、神はそのいのちを継続させてくださる。神の摂理的養いがあったればこそなのです。

 

3 26節 空の鳥をみなさい。鳥たちの必要な食べ物は、神が自然の中に用意してくださっている。鳥のために神が何か食べものがあるように気をつけてくださっている。鳥はじっとしてまっているのではなくて、自分で空を飛び回って神の用意された食べ物をさがすのです。人間はいのちをつなぐ方法が鳥とは違っている。「顔に汗してパンを食べる。」のであって、種まき時には、種を蒔く。成長する段階で雑草を取り、肥料をやり、実れば刈り入れ、倉に収める。そして必要な時にだして食べる。食物の流通経路がいろいろとあって手に入れる方法もいろいろとある。人間は鳥と違う方法で食べ物を見つける。「働こうとしない者は食べることもしてはならない」(第二テサロニケ3:10)とまで言われている。生活の方法は鳥と人間は違う。しかし、神が。この世界と存在する万物を創造され、それを現在も摂理的に保持しておられるという真理は、鳥にとっても人間にとっても何もちがいがないのです。神は、私たちの天の父です。私たちは鳥よりも遥かに優れた被造物です。神の摂理的な養いは十分にある。

 

4 27節 わたしたちはいのちの事を心配したりしたからといって、少しでも延ばすことができるか。この答えは明らかに「できない」。ひとりひとりに神の定められた時がある。生まれる時があり、死ぬ時がある。人間はこのことを忘れがちである。私たちの「時」は、これを支配される神のみ手の中にある。

神は、「自分のいのちを少しでも延ばす」ことを「こんな小さなこと」と言っておられる。神のお心と力と知恵は、どれほど偉大でしょうか。人間の心配は、いのちの成長、継続については全く無力なのです。むしろ、神への信頼こそがまことの力となるのです。あなたの良しとされる時まで、私を養い生かしてくださる、主よ、感謝いたします。と祈る事こそ大切です。

5 28節 ゆりの花を考えてみましょう。花の不思議さ、美しさ。それ自体で完全です。形、意匠、感触、香り、色合い、人間がどのように工夫をこらしても、真にまねることはできない。花をかくもみごとに着飾らせることができる神の力、知恵はすばらしい。神は今日、野にあって、明日は炉に投げ込まれる草をさえ、そのように短いいのちの花でも、このようにされる。まして、神に似せて創造された、人間は、永遠存在ではないでしょうか。主イエスにあって、神の子たちではないでしょうか。キリストのいのちに結びついているものではないでしょうか。ただ単に、食べるだけがやっとの生存状態ではなく、まことに神の前に美しい人生を神はあなたのためにデザインしておられないでしょうか。あなたに与えられた姿、形、理性、感性、意志、その存在のありようの全体は、ゆりの花よりもはるかに優れているのです。それならば、なぜ、良くしてくださっている神に逆らい、美しい心ではなく、歪んだ、醜い心を発散させるのですか。そうなってしまった原因が、どこにあるのでしょうか。

Ⅱ 「信仰の薄い人たち」30節

主イエスが嘆かれるのは当然です。私たちが思い煩う原因は信仰が「薄い」ところにある。信仰が無い者ではない。不信仰者ではない。ただ、「薄い」幼すぎる。小さすぎると、主は言われる。

救いの信仰だけにとどまっている。それは初歩にだけとどまっているのです。救いの信仰だって、神のつかわされた主イエス様のお働きを理解する点で、その深さ、広さ、高さ、長さを思いはかるべきです。「私たちはキリストの教えの初歩をあとにして、完成を目指して進もうではないか」(ヘブル6:1)と勧められています。

薄い信仰は、信仰が生活のある一面にだけ局限されているからです。自己存在の全局面に根本的に適用していない。その人の信仰の計りが小さいために、生活の全分野にまで量り、広げ、当てはめることがない。神が、いのちのことを解決するために主イエス・キリストをあなたの身代わりとして差し出して、その働きを成し遂げてくださった。そうであるならば、神の子とした、あなたの地上生活を全うさせて、御国の民として間違いなく迎えいれるために地上での食べ物、着物、住むところ、仕事まで配慮して摂理的に働いてくださっていると信じることができないでしょうか。環境は神の支配の中にあります。そのように信じられないならば、環境にあなたは支配されてしまいます。思い煩いは満ちるのです。

日常を見て考えようとしない。信仰についての考え方、生活態度全体が正しくないのです。ゆりを見て考えなさい。鳥をみて考えなさい。そこから結論を引き出しましょう。神が人間を顧みない。主イエス様を信じた者を顧みられない、と考える方がおかしいと、主は言われるのです。

 

結局、薄い信仰は、神、主イエス、聖霊の存在と働きを過小評価し、薄くしか量らない。そのために約束のみことばを額面どおりに受け取らない。全面的に信じようとしない。自分が信じている救いの教理に当然含まれている意味を十分に自覚していない。自分が神の子とされたということは、具体的に神の目から見るとどういう事なのか、天の神が父であるとは、どういうことか。神の愛、力、心配り、きよさについて本当に考えてみたか。キリストのからだが教会であるとは、どういうことか、自分が一員であるとは、その枝であるとは、良く考えてみましょう。知っているつもりというのと、当てはめてみるというのとは違う。12弟子たちが、主イエス様とともにガリラヤの湖を舟で渡ったとき嵐で沈みそうになった。「主よ、わたしたちが溺れ死んでもかまわないのですか?」と言った。天地の支配者であるお方と同船していながら、舟が沈むと自分たちが死ぬと思った。主が水と風をしかられると、すぐに湖は平穏になった。主はいわれた。あなたがたの信仰はどこにあるのか。

この世でこころみにぶつかると、すぐに、沈む、溺れる、死ぬとわめき、泣き、失望し、そばにおられる主イエスの存在、力、み手を忘れて用いようとしない。

 

Ⅲ 「何はともあれ、神の国を求めよ。」31-34節

1 31-32節 神は、あなたがたの必要を、天の父として見つめておられる。そして、理解し、ごぞんじです。だから、わたしたちは異邦人たちが切に求めているものを探し求める事をやめて、神の国の一員として振る舞い、もっと別の求め方、求める場があってしかるべきではないでしょうか。神を信じないものと同じ態度で全生活をすすめるのはおかしいのです。小さき群れよ。神はみ国を喜んでお与えくださるのです。み国とは「主の祈り」の講解で学んだように、神のご支配が生活の全領域に及び、サタンの国が滅び、恵みの国が進むことです。また私たちも他の人々も、そこに入れられ守られること。キリストがこの場で、私たちのこころをみ国のめぐみで支配してくださること。主の再臨と、主と共なる私たちの永遠統治がくる事です。み国を何にもまさって、まず求める。その時に、32節後半に「あなたがたの父は、それがあなた方にも必要であることを知っておられます。」とあるように、神は私たちのも衣、食、住が必要である事を知っておられる。これらのものはみ国に加えてあたえられます。

クリスチャンの地上生活の基本的態度は、ここで、「神の国」を追い求める事とはっきりと教えられ、命じられているのです。神様への服従と、神礼拝とは、この観点から信じる者の最優先事項なのです。

 

2 33-34節 再び主は、思い煩うことへの警告をされました。食べ物、着物のことではなく、別の心配事についてです。明日のことは誰にも分からない。今日さえも何か起こるか分からない。明日が来るという補償は無い。だから、明日のことを心配しないように。

その日、一日を精一杯生きるように。明日のことは明日が心配する。これは運命論をいっているのではない。あきらめよといっているのではない。主を信頼すること、期待することで、生きよ。「明日」は擬人化されている。明日が心配するからと。

 

結び)思い煩いから解放される道は、神を信じ、明日起こることもゆだねて、生きることです。まず神の国と義をもとめるとは、そのような生き方を指しているのです。神に生かされている。それは神のご計画の中に生きることで、自分で思い煩いながら歩むことではない。

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