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2019年10月13日礼拝音声



2019年10月13日 マタイの福音書13章31-43節「からし種、パン種のたとえ」
序文)主は「天の御国」のことを「たとえ」でいろいろと説明しておられます。小さく始まり、徐々に成長して、全世界に広がり、今も広がり続けています。神様のご計画により、御国の民の数が満ちるまで続きます。そのことは私たちの内に起こっていることを示して、二つの「たとえ」が話されました。
 
Ⅰ 「からし種」のたとえ、31節と32節。
 からし種は、非常に弱く、小さなものです。御国の王であるイエス・キリストとその弟子たち、12使徒は、「からし種のように」、「この世の弱い者」(1コリント1:27)のように見えます。福音の最初の光は、ほんの「暁の光」のようなものです。それぞれの魂においても、最初は葦が傷んだぐらいの、「小さいことの日」です。「ゼルバベルの手がこの宮の礎を据えた。彼の手がそれを完成する。そのときあなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知る。だれが、その日を小さなこととして蔑むのか。」(ゼカリヤ4:9-10)。
 
 信じて間もない者は、「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(イザヤ40:11)とあるように「御腕に引き寄せられている。信仰が少しあるのですが、そこにはまだ不足しているもの、成長するはずの事柄がたくさんあるからです。パウロがテサロニケの信徒たちに「私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。」(1テサロニケ3:10)、と言っているとおりです。 
 
 原則的な霊的生活とか、それらしい行動はあるが、ほとんど識別できないほどのものです。それでも、福音のみわざは、その人の中で成長し、天の御国へと近づいてゆくのです。「からし種」は小さいけれど、種である以上、良い地に蒔かれるなら大きく成長します。「正しい人の進む道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる」(箴言4:18)。種粒から、樫の木へ、夜明けのあけぼのから真昼の輝きへ。ついには、小さなからし種は、大きな木となって、鳥が巣を作る。そのようにクリスチャンは、最初、子羊のように抱かれていても、ついには、成長したからし種が鳥にしたように、是非とも他の人に対して役に立つようでなければならない。
 
Ⅱ パン種のたとえ話 33節。
 これも福音は次第に広まり、実を結ぶが、静かで気づかれないということです。そして、みことばによって益を受けるのは、それを受け入れる心を持った者です。パン種は、すりつぶされていない麦の中では働きを開始しない。同様に、福音も、罪のために砕かれていない魂、失意を味わっていない魂の中では働かない。律法が心を砕き、それから福音がパン種として働く。3サトンの粉は、39リットル、かなりの量である。「わずかのパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです」(ガラテヤ5:9)。
 粉はパン種が入る前にこねなくてはならない。我々の心も同様で、みことばから影響を受け取るためにすりつぶされた麦と同様に、心は砕かれて、湿っていなければならず、苦痛とともに受けるのです。乾いた小麦粉のなかに、イースト菌を入れても何も起こらない。
 パン種は、心に蓄えられねばならない。「私はあなたのことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために」(詩篇119:11)。それは隠しておくためではない。みことばはそれ自身を表すものであるが、私たちの安全のために蓄えるのです。私たちは、みことばを基礎としなければならない。ちょうど、マリヤがキリストの言われたことを、みな心に留めていたようにです(ルカ2:51)。女が粉にパン種を入れるのは、それによってパンを作るためでありますが、私たちもまた自らの魂にみことばの宝を積み、それによって聖別、聖化され、ついに栄化されるためです。「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です」(ヨハネ17:17)。私たちを成長させ、聖化させるのは、真理によって、即ち、福音の真理を知ることによってなのです。このようにパン生地に入ったパン種は、そこで働き、発酵します。「神のことば(みことば)は生きていて、力がある」(ヘブル4:12)ように、パン種が働くには時間がいります。みことばも同じように、働きますが、ゆっくりとです。「またイエスは言われた。『神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、 夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。』」(マルコ4:26-27)。
みことばは(福音は)、静かに、しかし強くて抵抗できないように働く。植物の成長と同じで、その働きがなされても、音を立てることはない。それが、「聖霊のやり方で」あり、しくじることなく行われる。パン生地にパン種を僅かでも入れるなら、その働きは、誰にも見えないし、音を立てることもないが、双方が交換しあって、徐々に「全体がふくらみます。」(33節)
 
 この世においても、このようでした。使徒たちが、説教すると、大多数の人間に一握りのパン種が入った。やがて不思議な効果が生じました。世界は発酵状態になり、ある意味で「世界中を騒がせ」(使徒の働き17:6)たのです。しかし、それは徐々に味や風味が素晴らしいものへと変っていきました。福音の香りが「いたるところで放たれて」いた。「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます」(2コリント2:14)。みことばは、このように効果があるわけですが、それは外からの力、抵抗可能な力、征服可能な力に押されてのことではありません。万軍の主の御霊が働く所では、誰も逃れることが出来ないからです。
 
 心においても、このようである。福音が魂の中に入ると、変化が起こります。といっても、実体そのものが別のものになるのではありません。パン生地は同じでも、質が変わるのです。これまでの私たちとは別の香りを放ち、別の風味となる。また他の物事も、私たちにとって、以前とは別の香りを放つものへと変わるのです。「肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます」(ローマ8:5)。即ち、全体的な変化が起こってくる。福音は魂のすべての力や機能に溶け込み、からだの手足の特性まで改造する。「また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい」(ローマ6:13)。
 
この変化は、パン生地にパン種が入ったのと同様、魂がみことばの本性に与ることから起こる変化です。「私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです」(2ペテロ1:3-4)。
私たちは、鋳型に投げ込まれたようにその中に入れられ、ろうの上で印を押したように同じ形に姿を変えられるのです。「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(2コリント3:18)。
「神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、 罪から解放されて、義の奴隷となりました」(ローマ6:17)。
 
福音は、神の香り、キリストの香りを放ちます。そして、自由なる恵みと来るべき御国の香りを放つのですが、これらのことは、わたしたちの魂から放たれるのです。それは、信仰のことばと悔い改めと聖なる性質と愛の言葉ですが、これらは福音によって魂に植え付けられるのです。このような香りが伝わるのは気づかれないほどですが、それは「いのちは、キリストとともに神のうちに隠されている」からです(コロサイ3:3)。しかし、決して分離されることはないのです。み恵みは、それを持っているものから「決して取り上げてはいけない(取り上げられることはありません)。」「マリヤは良い方を選んだ」からです(ルカ10:42)。
 
結び)パン生地がふくらむと、それをオーヴンで焼きます。パンが出来上がるには、試練や苦悩によって、焼かれねばならない。このようにして、聖徒たちは主なるキリストに似るものへと素晴らしく変えられていくのです。

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