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2019年1月13日 礼拝音声 

2019月1月13日 マタイの福音書9:14〜17「新しいぶどう酒は新しい革袋に」

序文)今朝の聖書箇所は、主イエスとその仲間のクリスチャン生活様式への、古来からの様式を守っているバプテスマのヨハネと弟子たちの疑問、それへの回答が書かれています。

主イエスを信じ、神の国の一員となる事によって生じる生活様式の新しい変化の課題です。彼らの疑問は、パリサイ人もしている「断食をイエス様と弟子たちはしない」というものでした。パリサイ人たちは伝統的なユダヤ教の生活様式として大切にしてきている施しと、祈祷と、断食をヨハネの弟子たちも大切にしている。しかしこれらのうち、イエスの弟子たちは、「断食をしない」のは「なぜ」と疑問を呈したのでした。それどころか、取税人、罪人たちと一緒に食事をしている。

断食は「身を悩ます」と表現されて、ユダヤ歴の7月10日の「贖罪の日」に行うことが命じられていました。全国民の罪の贖いをする日です。大祭司をたてて神の前に行いました。それで国民もまた自分の罪を悲しみ、悔いて、身を悩ましたのです。

ところが、これが後になって、形式化して「断食すること」自体が何か一種の「徳」のように考えられ、ゆるしの必要条件のように数えられるという、あやまった事態が生じたのです。主イエスとその弟子たちは、断食をしない。そのような生活様式はおかしいと言ってきた。

日本のクリスチャンたちの信仰生活様式は、日本の仏教や神道や、民族宗教の伝統的様式の入り混じった姿からは全く異なっており、いわゆる信心家らしくない。難行苦行は全くない。拝むべき偶像がない。曼陀羅もない。位牌もない。焼香もしない。死者を神・仏とみとめない。神社や寺の前を通っても頭を下げないし賽銭もしない。どうみても不信仰ではないか、と問われる。元旦の神社初詣もしない。

主イエス・キリストは、三つのたとえを用いて答えられました。

 

Ⅰ 15節

キリストを信じる信仰生活のあり方は、花婿がいっしょにいるとき、それにつきそっている友だちのような生き方である。花婿はイエス様を指しています(25:1以下)。イエスの弟子たちは毎日、花婿であるイエスと共にいるのです。ユダヤでは婚宴は盛大に祝われ、七日間は断食したり、経札をつけたりする義務を免じられていた。花婿の友人たちは「花婿の友だち」と呼ばれて花婿、花嫁ともに祝いあった。

 

クリスチャンの毎日は、私たちと共におられる主イエス・インマヌエルの君を信じて歩むのであって、その生活の基本的な調子は喜びにあるのです。

後になって、15節に暗示されている出来事がおこりました。花婿なるキリストが十字架につけられ、死に葬られたのです。その時は弟子たちといえども悲しみ嘆き断食したでしょう。しかし主は三日目によみがえられました。復活と昇天によって、助け主を弟子たちに送ってくださった。再び弟子たちは喜びを回復し、以来ずっと喜びが生活の基調となりました。

私たちが毎日曜日にこうして集まり礼拝するのは、復活の主が、ここにともにいますという、あの最初の復活の朝の喜び、感激、祝いの心を持っているからなのです。

 

礼拝と信仰生活は、守らねばならないから、守るのではないのです。わたしたちにまことの救いと喜びをくださった主に、感謝したい、賛美したい、祈りたいから、集います。今週も共にいて、クリスチャンたち一人一人の一切の必要を知り、支え、励まし、赦し、守ってくださるお方なのだと心から仰いでいます。

今日は断食の日だから、何が何でも悲しそうな顔をしなければならない、というような守り方はしないのです。教会の礼拝はそのような点を考えながら、召し集められてくる一人一人が,すぎる一週間、喜びや、感謝や、涙や、悔いや、様々な状況の中からで集うので、一定の型式をもって守るのです。

個人個人の霊的な状況に一番ふさわしく応じてくださるのは聖霊様です。そして前奏、招詞、さんび、聖書朗読、説教と一定の形式で行われる礼拝の全ての要素をもちいて、聖霊様は一人一人に答えてくださるのです。

信仰生活は、その人の心の状況で表現が違ってくるのです。その自発性、自由さがクリスチャン生活の根本にあるのです。

 

Ⅱ 16節

第二の答えは、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎ当てるようなことはしません。新しい着物がだめになってしまうし、新しい継ぎ布は古いのに合わないのです。

古い着物は全体にくたびれていて、少しでも無理をするとほころびが広がるのです。新しい布で継ぎ当てすると、継ぎ当てた周辺に無理がゆき、大きく破れてしまうことになります。信仰の世界でも、このような継ぎはぎをしていることがあります。

新しい着物を引き裂いて古い着物につぎあてる、ということは、愚かだとすぐに分かります。だからそのような人はいません。古い方をあきらめて、新しい着物に手を通します。キリストが私たちにくださる生き生きしたいのちの生活に全面的に転向すればよいのです。信仰生活は全体として統一がとれていなければなりません。部分的に継いだり貼ったりして保とうとするならば、両方がダメになります。イエス・キリストのみ救いに与り、復活のいのちに生かされているのなら、あなたの生活様式も全面的にその信仰によって統一しなければなりません。着物による譬え話しは、うわべの形式を問題にしています。キリストを信じる信仰の形式に首尾一貫した統一をとることが大切なのです。毎日の生活で主イエス様に折にふれて祈り、聖書を開いて、主のみ声を聞くというように過ごし方に変える。信仰生活の全体が生き生きとした新しい装いをもったものであることを示して歩んでゆきましょう。その上で日曜日の礼拝を守ると変えて行きます。

 

Ⅲ 17節 第三の答え  新しいぶどう酒は新しい皮袋に!

この答えは信仰の中身と形式との関連を扱っています。古い皮袋は伸縮性を失って堅くなっています。そこへ、新しいいのちにあふれたものを入れると破れてしまいます。新しい皮袋は柔軟で伸縮性があって、新しいいのちの圧力に十分耐えるのです。新しいキリストの福音は新しい形式に盛り込むのが一番良いのです。

イエス様の新しい方法をバプテスマのヨハネとパリサイ人の古い方法に結びつける事は出来ない。断食の日だから悲しそうな顔を無理にする。心から罪を悔いてもいないのに顔だけそうする。それを人に吹聴することで功徳を積んだかのように思う。そのような古い皮袋に、イエス・キリストのもたらす喜びを詰め込む事は出来ない。むしろ喜びと賛美の歌をうたい、共に分け合って食事をしよう。キリストのいのちに深く結びついて、その表現がこの世の人々と異なったときに、たとえ人々がわたしたちのことを変人、奇人、かたぶつなどといっても、神への自由をもって歩んでゆく者となりたい。わざとらしい謙遜でなく、内から溢れるものをもって、そのエネルギーが信仰生活の習慣とか、礼拝形式を創造してゆく。それは無秩序ではけっしていない。新しい皮袋なのです。

 

ルカの福音書では、イエス様は、たとえを語られてのち、人間は一般に「古い物は」良いといって、保守主義に傾きがちであることを指摘されました。ルカ5:39「また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。」古い衣、古い皮袋をしりぞけつつも、新しいキリストの福音がすぐに受け入れられない人間への同情と、時がきたならば福音を受けるようにとの余韻を残して語られたのです。

人間のもつ、古き宗教への保守主義は、一方的な神のめぐみとして福音が与えられるまで、なかなか消えない事を主はご存知でした。

 

結び)主イエスを信じる信仰にふさわしい礼拝、生活が、聖霊の助けのうちに、それぞれの内から湧き溢れる喜びを基調として、形成されて行くことを思いましょう。主イエスにあって霊的なめぐみも、祈りも、重荷も分かちつつ、この教会を神にささげてゆくために、新しい皮袋を求めましょう。

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