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2019年4月14日 礼拝説教 音声




マルコ10:32-45 – 「神の子は奴隷である。」
 
序論
牧師として言ってはいけないことかもしれませんが、私には、クリスマス礼拝、シュロの日、受難日礼拝、イースター礼拝が嫌いだと言う理由が二つあります。一つは、牧師として、毎年、同じような箇所から説教する必要があるからです。私は、皆さんがすでに聞いたことがあることや、同じことを繰り返して説教するのが嫌いなのです。そして、もし私が、今後数十年説教する予定であれば、将来、ネタぎれになるかもしれません。もう一つの理由は、聞く側として、私は、同じような内容を何度も聞くのが嫌いなので、自分の中で「もう聞いた話だから、いいや」と思ってしまう
のです。「はいはい、知っていますよ。イエス様がお生まれになりました。イエス様はエルサレムへ行かれ、十字架にかけられ、死なれました。そして、イエス様は蘇られ、天に昇られ、私たちを救われました。めでたし、めでたし。という話でしょ?」と思ってしまう、恥ずかしい自分がいます。皆さんはどうでしょうか?そういうところがあるでしょうか?しかし、皆さんもご存知の通り、イエス様がなさったことは本当にびっくりするようなことです。私たちは、イエス様の十字架についてもう聞きなれていて、十字架のショックが薄れてきて、福音を軽んじ、福音を聞き流す傾向があります。
 
しかし、「神の子」が十字架にかけられたと言うことは、最も驚くべきことなのです。この驚き忘れてはいけません。最も聖く、力のある、権威のある存在が、屈辱、恥、弱さ、のシンボルである十字架にかけられました。あまりにもショックが大きく、あまりにも信じがたい出来事で、私たちが求めているものとかけ離れて?いるので、私たちは無視したくなります。よくニュースやドキュメンタリー番組で、人間が犯した様々な醜い行い、大虐殺、人身売買、性的暴行、戦争などの動画が流されるときに、私はすぐにチャンネルを変えて、私の気持ちを軽くさせてくれるお笑いの番組を見たくなります。私には、世界中でそんなことが起こっていることを考えたくない、受け入れたくない、そして、忘れたいと思ってしまう傾向があります。
 
私たちが十字架の事実に向き合う時、私たちもそれと似たような反応をしてしまいます。私たちが犯した神様に対する罪のために、生まれて1カ月の赤ん坊よりも罪のない神の御子が十字架で最悪の苦しみを受けられ、最も力のある権力者よりも、権威のある神の御子が奴隷となって十字架の恥を受けられたのです。もしこの事実を受け入れたなら、次の二つのことを認める必要があります。それは、私が想像を超える悪人であること、そして、私の行いによって、神様が想像超えた屈辱を受けられたこと。私たちにとって、
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 れ以上に恥ずかしい事実はありません。しかし、それがクリスチャンとしての根本的なアイデンティティーなのですが、私達は、自分の名誉とプライドを守るために、十字架の事実を無視したり、事実をゆがめる傾向があります。
 
しかし、もし神の御子であるイエス様が全てを捨て、屈辱と苦しみを受け、私たちの奴隷として仕え、私たちのために命を贖われたのなら、なぜ私たちはプライドを捨てて、クリスチャンとしてのアイデンティティーを受けいれることができないのでしょうか?今日は、その事について考えたいと思います。これから、三つの質問に沿って、この箇所を見ていきたいと思います。①イエス様の使命は何でしょうか?②弟子たちはイエス様の使命をどう誤解したのでしょうか?③イエス様はどのように弟子たちの誤解を正したのでしょうか?
 
まず、一つ目の質問。イエス様の使命は何でしょうか?
32-34節を見ると、イエス様の使命は、みんなの期待を裏切るものでした。私たちを救うために、十字架の屈辱と苦しみを受けることでした。
 
マルコの福音書は、映画のようにアクションの詰まった話ですが、イエス様の使命を少しずつ、徐々に明らかにした書物でした。映画のように、マルコの福音書のオープニングでは、人物を紹介する前に、この話は神の子であるイエス様が来てくださり、私たちを救う話だと、宣言します。しかし、私たちが想像するような神様、または救いではない事が明らかになります。
 
最初のシーンでは、イエス様は無名な人でした。誰も知らない、誰も認めない、誰も関心を持たない、貧乏な田舎で育った大工のイエスさんです。しかも、イエスと言う名前は、非常に平凡でよくある名前でした。しかも、最初の方では、イエス様がご自身を神様だと宣言されたのに、なぜか、人間から洗礼を受けられ、40日間、荒野でサタンから誘惑も受けられました。。イエス様は、全く期待外れの救い主でした。だれもイエス様を神様の救い主だと認めませんでした。イエス様の親戚もみんな「彼の頭はおかしい」と言っていたのです。
 
しかし、マルコの福音書が展開されていくと、イエス様は、御自分の力と権威をお見せになりました。権威をもって力強く説教する預言者として認められ、奇跡を引き起こす治療者として爆発的に人気が集まり、神様としての権威を明らかにされ、最終的には、イエス様の12人の弟子達が、イエス様が「神の子」であること認めました。イエス様は神様が送ってくださった救い主、神様の民の王様であり、彼らの究極のヒーロー、または、英雄として認められ、受け入れられました。弟子たちはイエス様がイスラエルを支配するローマ帝国を倒され、また、イスラエルの王国を復興(ふっこう)されることを期待しました。
 
しかし、イエス様はまた、みんなの期待を裏切ります。彼らがイエス様を救い主として受け入れた直後に、イエス様はこう宣言されました。「私はエルサレムへ行き、多くの苦しみを受けます。私が救いたい民のリーダーたちはみんな私を裏切り、私は殺され、屈辱の中で死にます。そして、三日後に蘇ります。それが私の使命です。」とはっきり説明されました。誤解する余地もありません。しかし、弟子達にはショックが大きすぎて、このことが受け入れられませんでした。あまりにもショックが大きかったので、ペテロは、イエス様を神様であると認めたにも関わらず、イエス様に対して叱りました(8:33)。「どうしてそのようなことを言うんですか!」と。弟子たちはある時、「死ぬ」ということは比喩かもしれないが、それは、どういう意味だろうと考え始めました。でも、、イエス様に聞いて確認するのが怖くて仕方ありませんでした。また、ある時は、イエス様が説明して下さった使命を全く無視して、イエス様がローマ帝国を倒し、イスラエル王国の復興されることについて妄想し始めました。弟子達は、いろんな方法で、イエス様が教えて下さった使命を忘れようとしたのです。
 
しかし、イエス様は何回も説明しつづけて、「いや、私はエルサレムへ行き、多くのしみを受け、屈辱の中で死にます。そして、三日後に蘇ります。」と繰り返しおっしゃいましたが、弟子たちは耳をふさいで聞きませんでした。
 
今日の箇所の32節は、そのやり取りを表している場面です。イエス様は躊躇せず、十字架へ向かいながらエルサレムへの道をどうどうと歩かれました。そして、それを見 た弟子たちは驚き、ついて来た人たちは恐れを覚えました。なぜかというと、彼らはイエス様が神様であることは信じていたのですが、イエス様が屈辱の中で死ぬことは信じられなかったからです。
 
ですから、イエス様は33-34節で、また御自分の使命を弟子たちに説明されました。この箇所は、マルコの福音書で一番明確に受難日について予言されているところです。33節で、イエス様は御自分のことを「人の子」として呼んでいます。イエス様はダニエル7:13-14に書かれている「人の子」が自分であること示しています。「人の子」について、このようなことが書いてあります。
13 見よ、人の子のような方が 天の雲とともに来られた。その方は『年(とし)を経た方』のもとに進み、 その前に導かれた。 14 この方に、主権と栄誉と国が与えられ、 諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。 その主権は永遠の主権で、 過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。
要するに、イエス様は、「人の子」であり、神様の絶対主権を握る、神様の王国の王様であることをはっきりと告白しているのです。そして、イエス様はイスラエルの王として、すべての民をご支配されることも、ダニエル書には約束されています。イエス様は本当にびっくりするようなことをおっしゃっています。
 
しかし、その王様が、マルコ10:33ではどういう召しを頂いているのでしょうか?まず、このイスラエルの王様は、御自分の部下である祭司長たちや律法学者たちに引き渡され、人の子を死刑に定めます。もし、イエス様が本当に「人の子」ならば、イエス様の使命はクーデターを受け、そのクーデターに殺されることです。そして、34節で、異邦人は人の子を嘲(あざけ)り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。これも衝撃的です。ダニエル書では、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、「人の子」に仕えることになる、と預言されるのですが、この「人の子」は、支配すべき異邦人に屈辱や恥を浴びさせられ、むちで打たれ、十字架という残酷な処刑法によって殺されるのです。 「人の子」は裸のまま、手と足に釘が打たれ、異邦人は「人の子」が数時間も呼吸困難に陥る姿を見ながら、彼を嘲(あざけ)り、彼につばを吐くのです。そして、やがて「人の子」は、全身の筋肉がつかれ、肺に水がたまり、呼吸する事も出来なくなり、心臓が止まり、死ぬのです。その全ての過程を通った後で、イエス様は蘇られます。
 
これが私たちの王様、私たちの救い主の使命でした。
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 して、私たちは受難日を通して、私たちの王様は屈辱と苦しみを恐れない王様であることがわかります。当時の文化では、何かの良い目的のために死ぬことは良いことだと見られていました。しかし、このように名誉を捨て、このように恥を受ける事は、全く考えられなく、命を失うよりももっと恐ろしいことでした。ですから、はっきるいえる事は、十字架にはカッコいい所は全くありませんし、私達の王様であられるイエス様は、ご自分の栄光や名誉のために死なれたのではないということです。むしろ、神様のように権威、栄光、力をお持ちであるイエス様にとって、このような死を受けられと言うことは、、想像を絶(ぜっ)する程の屈辱、恥、と苦しみを受けられた事になるのです。
 
イエス様は、なぜこのような使命を引き受けられたのでしょうか?理由は、シンプルです。愛する神様に従うため、そして、愛する私たちを救うためです。それ以外に理由はありません。しかし、なぜイエス様が、このような使命を成し遂げる必要があったのでしょうか。それは、私たちが、イエス様が受けられた屈辱と苦しみに値する者であるからなのです。
 
12人の弟子達は、イエス様の使命をどのように受け入れたのでしょうか。次の質問は、弟子たちが、イエス様の使命をどう誤解したか?です。
 
35-41節は、弟子達が、自分達の権威と名誉を得て、保ちたいために、イエス様の屈辱と苦しみの使命を聞き流し、イエス様の使
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 命が栄光と名誉を得るだと勝手に解釈するのです。弟子たちの誤解は、4つの行為を通して、明らかになります。
 
まず、35節を見ると、ヤコブとヨハネは、完全にイエス様の屈辱の死を無視して、勝手に自分の願いごとをイエス様に押し付けています。王様がなさる救いの御業、私たちのために受けてくださる屈辱よりも、自分たちの願いしか考えていません。私たちは、どうでしょうか?私たちは、自分の欲しいものや願っているものが、自分の世界の中心になりすぎて、宇宙の中心であられるイエス様が、私たちのために屈辱と苦しみを受けて下さったことを聞いたとしても、私たちは心動かされこともなく、完全にスルーして、自分の願いだけを一方的に言うときがないでしょうか?それは、弟子たちと同じように、神様の栄光よりも、自分の栄光しか考えていない証拠でもあります。
 
36-37節をみると、ヤコブとヨハネは、部分的に、そして、自分が得するようにイエス様の話を聞いてたことがわかります。イエス様は恵みをもって、ヤコブとヨハネの願いを聞かれましたが、彼らの願いとは何だったのでしょう?「イエス様、あなたが栄光をお受けになるとき、私たちがあなたの右と左の座につき、あなたと共に栄光を受けられるようにしてください」そうお願いしました。ここで、興味深いのは、ヤコブとヨハネはちゃんとイエス様の話を聞いてましたが、受け入れたくない話は無視しています。この話のすぐ前に、ヤコブ、ヨハネ、ペテロの三人の弟子たちは、イエス様の栄光を直接見たのです。そして、神様は、イエス様が神様の栄光を受けることを約束されましたが、それを受ける前に、イエス様は屈辱と多くの苦しみを受けて死ななければならないことも約束されたのです。しかし、ヤコブとヨハネは、栄光の前に来るものを全部省いて、イエス様がどうなるかなど全く気にせずに、自分たちのための栄光を、イエスさ求めたのです。そして、もう一つ興味深いことがあります。イエス様の栄光を見た人は何人でしたか?3人です。では、イエス様の右と左の座には何人座れますか?2人です。ですから、ヤコブとヨハネは、神様の栄光を二人で独占するために、他の10人弟子たちには何も言わずに、イエス様に権威と栄光を求めに行ったのです。つまり、ヤコブとヨハネは、イエス様と10人弟子たちがどうなるかはどうでもよくて、ただただ自分が得することだけを考えていました。皆さんは受難日の話を聞くときに、ただただいいとこだけを聞き取って、他のことを聞き逃していませんか?「うん。イエス様が死ぬのはわかるけど、永遠のいのちがもらえるんでしょ?良かった。自分が救われれば、大丈夫。」で終わらせてしまうのでしょうか?
 
38-40節を見ると、ヤコブとヨハネは、自分たちの犠牲的な従順でイエス様と取引をして、自分たちのために栄光を得ようとします。イエス様は、ご自分?受けられる栄光を否定されずに、再び?もう1度?ご自分が栄光を受けられる「私がエルサレムで受ける死は、神様の御怒りが入った杯でもあり、神様の御怒りでおぼれ死ぬような洗礼なのです。あなた達は同じ屈辱と苦しみを受けることができますか?」と、イエス様彼らに問われました弟子達は、自分たちが受ける栄光だけにしか目なかったので、何も考えずに「できます!」と答えてしまいました。しかし、イエス様はすぐに「あなた達の犠牲的な従順は私たちが受ける栄光に値しません」とやさしく言われました。皆さん実際、イエス様が十字架にかけられた時ヤコブとヨハネはどこにいたでしょうか?彼らはイエス様を否定し、屈辱と苦しみから逃れ、イエス様を裏切りました。なぜなら、彼らは、自分達が想像していた栄光を得ることできたら、イエス様との縁を切ろうと考えていたのです。皆さんのイエス様との関係はそのようなギブ・アンド・テイクのビジネスのような関係がでしょうか?イエス様に仕えるよりも、自分がどのようにイエス様を利用することができるかと考えているでしょうか?
 
最後に41節を見ると、ヤコブとヨハネだけではなく、他の弟子達にも同じような動機があることが明らかになります。他の弟子達が腹を立てた理由は、彼らもヤコブとヨハネのように栄光と名誉が欲しかったからです。はっきりとは書いてありませんが、似たよ
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 うな場面で、だれが一番偉いか論じ合っていたことはわかります。つまり、弟子たちはヤコブとヨハネに対して嫉妬して、「なんで私たちを裏切が、栄光を二人だけでしようとしてるんだ!」と腹を立てていたと思います。彼らには、ヤコブとヨハネほど明らかな欲はなかったかもしれませんが、彼らが求めていたものも全く同じでした。彼らもイエス様の栄光を受けたかったので、嫉妬と怒りにとらわれ、イエス様が受けられる屈辱と苦しみについてはまったく考えもしませんでした私たちもどうでしょうか?イエス様の十字架を見るよりも、ほかの人のモノ、お金、賜物、地位、権力、安定を欲することはありますか?
 
この四つの行為を通して、弟子たちはどのようにイエス様の使命を捉えていたのでしょうか?自分たちは、自分
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 たちを高めて栄光を求めていたと思っていたので、イエス様も同じだと勝手に考えたのです。ですから、イエス様が屈辱と苦しみを受けるなどとは全く信じられなかったし、弟子達もそれを受けるということも考えもしなかったの。
 
私達はどうでしょうか?私たちはイエス様から平気で恵、祝福、救い、永遠のいのちを頂きますがクリスチャンとしてイエス様の恥や苦しみを受ける覚悟はしているでしょうかか?自分の王様に仕えるのか、自分の王様を利用しているのかが問われます。
 
では、イエス様はどのように弟子たちを正したのでしょうか。これが三つ目の質問です。
イエス様は、こう
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 えるのです。「人の子は、王様ではなく、奴隷である」と答えるのです。
 
イエス様は、弟子たちの権力欲をよくご存じでした。ですから、42-43節で、イエス様ははっきりおっしゃいます。弟子たちの権力欲と「弱肉強食」の考え方は、この世の
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 本的な考え方です。この厳しい世界で生き延びるには欠かせない考え方はもありますが、弟子たちが属している神様の王国とは、全く逆の考え方です。イエス様はこうおっしゃいます。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」44節の「しもべ」とは、「奴隷」という意味です。奴隷はもちろん、人間でしたが、当時の文化では「モノ」として扱われていました。アメリカの奴隷制度ほど残酷ではありませんでしたが、奴隷は「壊れたら」、または「飽きたら」簡単にごみ箱に捨てることができるような存在でした。権利、名誉、栄光などとは、無縁の者でした。ですから、ダニエル7章に書いてあるような、全ての国民を支配する「人の子」、先頭に立つ「王様」が「奴隷」になると言うことは、意味をなさないことなのです。
 
しかし、45節には「人の子」の仕える目的が書いてあります。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」贖いの代価には、特別な意味があります。出エジプト21章では、神様の義を表す表現があります。「23  重大な傷害があれば、いのちにはいのちを、 24  目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、 25  火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。」という概念です。。被害者に与えた害と等しい分で償わなければならないということです。ですから、あなたの罪によって被害者が手を失ったなら、あなたも自分の手を失う必要があるのです。これは常識であり、平等でもあります。しかし、神様は「贖いの代価」ということを
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 入しました。
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 手」で罪を償う代わりに、「お金」を出すことできるのです。つまり、お金が「手」の身代わりなのです。
 
「人の子」が私たちの「贖いの代価」になるということは、イエス様がご自分の命で私たちの罪を償われると言うことを約束して下さっていると言うことです。先ほど説明したように、神様が、ご自分の民に求めておられるのは、私達が、自分だけのために生きるのではなく、神様のために、そして、人のために仕えることなのです。しかし、弟子たち、そし私達人類は全く逆のことをします。私達は、時に自分のの
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 威欲によって、自分が得をするように、ある時は神様の存在を否定し、ある時は神様と交渉し、ある時は神様を利用し、ある時は神様に敵対します。要するに、神様の王権を否定し、自分を王にして、クーデターを毎日起こしているような生活をしています。
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 の償いはもちろん、永遠の死、永遠の屈辱、永遠の苦しみなのです。
 
ですから、イエス様が私たちの「贖いの代価」になられるということは、神様にとっても、軽い判断ではありません。
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 しイエス様が王様として、弟子たち、または、私たちを救いたいのであれば、奴隷のように、全ての名誉、権利、栄光を手放し、自我を抹殺し、他人のために全てを捧げて仕えて救う方法しかありません。皮肉なことに、自分のプライドによって罪人になった私たちの唯一の救いの道は、私たちの奴隷になってくださるイエス様を、私達が自分の王様として認めることなのです。つまり、イエス様を倒して自分が王様になるのではなく、王様であるイエス様に「奴隷のように私のために死んでください」と懇願することなのです。よく考えてみてください。これは、自分を救うために「人の子」であられるイエス様、「神の子」であられるイエス様、「創造主」であられ、私達の「王様」であられるイエス様を、自分の奴隷にし、贖いの代価として十字架にかけて、永遠の屈辱と苦しみを経験させることなのです。これは
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 も恥ずかしいものです。しかし、それがある意味、キリスト教の信仰の本質なのです。神の子が、私たちを救うために、奴隷になってくださったのです。
 
皆さんは、このことを受け入れることができますか?もし、受け入れることができないと言うなら、、自分はそれほどの罪人ではないと思っているかもしれません。
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 かし、もし弟子たちのように、イエス様の十字架
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 聞き流す傾向があるようであれば、イエス様の十字架が確実に必要です!ぜひ、イエス様をあなたの奴隷になってくださる王様として受け入れてください。
 
もしこの
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 ずかしい事実を受け入れることができたのなら、私たちはなぜ屈辱と苦しみを恐れる必要があるのでしょうか?
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 字架を信じることよりも恥ずかしいもありませんし、イエス様が受けた苦しみよりも苦しいものもありません。私たちも大胆に、
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 牲的に福音を告白し、イエス様のように
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 みましょう。お祈りします。






この文は?誰にとって恥ずかしいのか



この文は?



使命が栄光と名誉を得ること?



聖書箇所がわかりますか?



意味は? 自分の行いで?



答えるとは、どの質問から?



人間が持つ?



他の言い方では?



この文は意味がよくわかりませんが



権威欲は他の言い方だと何かな?



もう少し説明が要ります



この文も言い方を変えたほうがいいかと。



誰にとって?



この文は?



十字架の犠牲?



他の言い方は?



この文も?



犠牲的に福音を告白するとは?



イエス様のようにあゆみましょう、そうできないけどイエス様に従って
いきましょうは、どうですか?

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