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2019年6月9日 礼拝音声



2019年6月9日 「イエス様の喜び」 マタイの福音書11章25-27節
序文)11章の文脈は、イエス様の宣教の言葉とみわざの数々に対する、バプテスマのヨハネの信仰的「つまずき」に続いて、世の人々の反応も「つまずき」で、子供の遊びのような態度であったことを示されました。次いで、イエスに反対する町々の「つまずき」と結果としての災いについて語られました。今朝の箇所は、つまずいた人々と対照的に御国の恵みに与る幼子たちについて、喜びの祈りをもって慰めの回答をしておられます。
 
Ⅰ 主イエス様の喜びの祈り
ルカの福音書の並行章句10:21によれば、「聖霊によって喜びにあふれて言われた。」と書き出されています。
 
1 主イエスは「聖霊によって喜びにあふれて言われた。」主イエスさまの喜びの祈りが続きます。御霊の喜びは「天地の主であられる父よ。」と、天に心を向けさせる喜びです。天の御座で私たちを見守っておられる父と結びついた喜びです。国籍が天にある者の喜びです。地上で何が起ころうとも、まことの故郷である天に主イエスとともに帰る日が確実に来ることを知っている者の喜びです。
 さらに、父をほめたたえる喜びです。恵みの世界のすばらしさを、謙遜な者にあらわしてくださったことを喜び、父をほめたたえています。私たちの喜びが天の父と、今は御国に帰られた主イエスをほめたたえることでなければなりません。主が賛美されることを喜ぶ。神が賞賛されることを喜ぶ。
 最後に、みこころにかなったことを喜ぶのです。父なる神のみこころが成ることを喜ぶのは主イエスの篤い願いでした。十字架の前夜、ゲッセマネの祈りしかり、カルバリの十字架の上でもしかりでした。「みこころが成りますように!」この祈りから来る喜びは、聖霊による喜びです。起こっている事柄が自分にとって理解できなく、不都合と思えることでも、みこころを第一とすることを喜ぶのです。
 
2 救いの知識を、世の賢い者や、知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです。父よ、これがみこころにかなったことでした。「この世は自分の知恵により神を知ることはありません。」(1コリント1:21)
 イエス様の目の前に、実に頼りないが、真実、信仰をもって福音を理解し(する可能性のある)、幼子であるペテロ、ヤコブ、ヨハネたちがいた。なぜ既に信仰を持ち、ユダヤの指導者であり、第一級の学者でもあったニコデモではなく、無学で、貧しい漁師に過ぎないペテロたちが選ばれたのか、私たちにはわからない。これこそみこころに適うこと、即ち、神の摂理、神の絶対主権に属することである。
「知恵のある者」と「幼子たち」の区別は、神ご自身の創作である。「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠した」のは、神である。神が、彼らにその分を与え、学問を与え、人間として優れた理解力を与えられたのだ。それで彼らはその分を誇りとし、そこに安住し、その先を見ることはしなかった。そのために神は彼らに知恵と黙示の霊を与えなかった。彼らは福音を知らせる音を耳にしていたにもかかわらず、それを「耳慣れないこと」(使徒の働き17:20)としてしか捉えられなかった。神が彼らの無知・誤謬を仕立てたのではない。神は彼らを彼ら自身に任せ、彼らの罪が彼らを罰するものとなった。「イザヤがまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。『主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心をかたくなにされた。彼らが目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように、そしてわたしが彼らを癒やすこともないように』」(ヨハネ12:39-40)。
 彼らは自分の賢明さと知恵を悪用して、欲望のために用立て、彼らの心をこうしたことの理解へと向けなかったのである。「これらのことを幼子たちに現してくださいました」のは、ほかならぬ神である。現されていることは我らの幼子らのものであった。「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」(申命記29:29)これらのことを受け入れるだけの「理解力」と感動とを彼らに与えられたのは神である。かくして、ヤコブ書4:6が記すように「神は、高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」のである。
 
3 このことは、いわゆる人間の感覚とは違い、かけ離れた出来事である。しかし、主イエスは、このように定められた父のみこころを心より喜び、賛成し、ほめたたえておられるのです。そして、神は、世界の創造者であり、統治者として、すべての国民は彼のものである。その中から、神が主権と恵みによって救いに至る人々を無償で一方的に選ばれた。そして賢い者より、幼子を選ばれたのは、神の栄光が輝くためでした。
 幼子とはどのような人のことでしょうか?ここで、主は、幼いことはいいことだと、いつまでも自発的に小さい子のことを指しておられるのではないのです。謙遜で、自分自身の力を過信しない人のことです。主イエス・キリストの福音に耳を傾ける人のことです。へりくだることのできる人のことです。いずれにせよ、神の救いの啓示は、賢さや知恵によって勝ち取るのではないのです。無知や、粗野な者であっても、神のあわれみをいただく妨げにはならないことが、ここで言われているのです。
 
Ⅱ 救いの恵みはどのような方法で、私たちに届くのか?
 それは父がすべてのものをお渡しになったイエス・キリストを通して来ます。いのちはイエス・キリストによって私たちに現された。私たちは、この方のもとに行き、救いの確信を見いだすのです。神の永遠からの選びは、私たちがイエス・キリストのもとに行き、そこで救いをいただくということによって証明されるのです。子が誰であるかは、父の他に知るものはない。み子が神のみ子であることは天の父のみが知っておられる。それで、父が、み子について、あかしされたみことばは、私たちが、子が誰であるかを知る手がかりとなります。み父は、地上に遣わしたみ子のことを「これはわたしの愛する子、これに聞け」と証言されました。そして、この「父」の証言を受け取ることができれば、聖霊があかししてくださるからです。さらに、「父」はご自身の生き生きとしたみ姿である「子」によって、私たちに現されている。だから、「子」以外のところで、神を求めても、まことの神を発見することはできない。
 私たちは、このようにして救いの恵みに、み子イエス・キリストを通して入れられ、父を知るに至ったのです。このような神のおはからいを、み子は喜んでおられるのです。
 
Ⅲ 「27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」
 
1 これは、ヨハネ5:22「すべてのさばきを子に委ねられました」或いは、マタイ28:18「天においても、地においても、一切の権威が与えられています」ヨハネ17:2「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。」と言われているとおり、キリストは我々を受け入れること、我々の求めているものを与える権威を委ねられている。さらに、その目的のため、「万物の主」なる方から「すべてのものが、わたしに渡されています」と宣言しておられる。これは、キリストが私たちに語られる福音を受け入れる条件と基盤を整えて下さっているということであり、あらゆる力、あらゆる宝がキリストの手中にあるということは、それを受け入れ、私たちのかしらであるキリストの花嫁であるという、或いは、キリストの弟妹であるという、私たちの与えられたステータスが磐石のものであり、測り知れない高さのものであることを語っておられるのである。
父なる神は彼のすべてを主イエスの手にゆだねられたのであるから、わたしたちもすべてを彼の手にゆだねるべきである。そうすれば、わざはなるのである。神は彼を偉大なる仲裁者、祝せられた審判者に仕立てて、神と人との間を取り持とうとされた。我々はこの調停の委託に服し、主イエスの仲裁に従うことである。
 
2 もう一つ留意すべきは、主イエスと「父」との間に見られる親密性、一体感である。「父のほかには、子を知る者がなく、子のほか、だれも父を知る者がありません」 この表現は我々の心を満たすものがあり、しかも豊かな満足感を与えてくれる。父と子の一体性は、私たちと父なる神の一体性でもあるからである。福音そのものの全幅の信頼性を保証している。また、「子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」と、私たちのとてつもないステータスがさらに補強、増強される。
ここで、人の幸せは神を知ることの中にある、ということを心に留めなくてはならない。人の幸せは、永遠の生命、理性的存在の完成にある。神を知りたいと願う者は、イエス・キリストに近づかなければならない。というのは神の栄光を知る知識の光は、「キリストの御顔」に輝くものだからである。(2コリント4:6)父なる神のみ心と愛が現れるのは、アダムが罪を犯して以来、キリストの力一つによるものである。聖なる神と罪ある人間との間に楽しい交わりなどありよう筈はない。それを可能にするのは、「仲介者」の力によるほかないのである。
 
結び)「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」
(ヨハネ14:6)
 

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