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2020年1月12日礼拝音声




2020.1.12 招詞イザヤ書55章6-9節 聖書朗読 マタイの福音書15章21-28節 
聖書の話「主よ・・ただ・・」 
 
序)今朝の聖書箇所は、主イエス様がツロとシドンの地方へ立ち退かれた、と書き出してあります。そこはユダヤ人たちが住んでいる地域ではなくて、異邦人の地域でした。そこでギリシャ人の女の人に会いました。彼女はすばらしい信仰の人だったのです。先週の高慢で自己満足に陥っていたパリサイ人、律法学者たちといかに違っているかを見て、主がとても驚かれました。
 
1 イエス様は、この時わざわざ静かになれるところを求めてユダヤ人たちの居住地域を離れてツロの地方にまで来られたのです。そこまではパリサイ人や律法学者たちも追いかけてこなかったのです。なぜなら、ツロ・フェニキヤの地方はカナン人の子孫の地で、ユダヤ人にとっては先祖伝来の仇敵の間柄だったのです。現代の中東レバノンです。ユダヤの歴史家ヨセフスは「フェニキヤの中でもツロの住民は我々に激しい憎悪を示している。」と書いています。イエス様と一行がイスラエルを離れて異邦人の地に足を踏み入れられたのは、今回だけの出来事でした。他にはありません。それだけに、ここでの出来事、特に異邦人の女性との対話は重要な意味を持っています。
 このような地に来られたイエス様と一行は、ここでも助けを求める人々から逃れることは出来なかったのです。イエス様の名声は異邦人世界まで届いていたのでした。
 汚れた霊に憑かれた重病の娘を持つ母親が、その奇跡的な癒しをなさる方とかねがね聞いていたお方が来られたと伝え聞いて、すぐにやって来たのです。彼女は子どもの苦しみを自分の事として感じていました。「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます。」(22節)と叫んでいたと書いています。自分たちを仇敵と思っているユダヤ人に近づき、子どもを思う愛の故に、一心に願い続けました。とても冷淡と思えるような扱いにも耐えて願いを辞めませんでした。 
 彼女は願い続けたのです。どうして続けたかというと、「イエス様が彼女に一言もお答えにならなかった」からです。次には弟子たちのとりなしに対して「わたしはイスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
と突き放されたからです。この言葉を彼女はそばで聞いていたのです。それにもめげずに「主よ。私をお助けください。」と懇願しました。それで聞いたことばが「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」無情でした。「子犬」と自分の子どものことをイエスが言われたのです。イエス様は異邦人のこの女に「あなたに子どもを助けてくれと言う権利はない。」と言われたのです。「まず子どもたちに十分食べさせなければならない。」と言われた。子どもたちとはユダヤ人のことで、ギリシャ人ではない。さらに彼女の子どものことを小犬といって人間扱いしていないのです。
 イエス様は神の国はまず選民ユダヤ人に伝えられ彼らが受けるべきである。彼らが拒否した場合には、彼らは捨てられ、それは信仰のある異邦人に分けられ、東から西から来て神の国の宴会の席に座ると言われました。さらに、十字架の死によって選民と異邦人の隔ての中垣は取り除かれることを知っておられました。しかし、今は、十字架にかかられる前は、まず選民のためにのみ働くこと、それ以外のことはしたくないと、ここでは主張しておられるのです。
 
 イエス様は、冷酷無情な方でしょうか。私たちは、書いてある言葉とそれを言っている時の調子によって、内容が全く別にとれることを知っています。語られた時の表情や調子で違った意味になるのです。ひどい言葉でも笑いながら「このいたずら者が」と言うと、全くとげがなく、愛情すら感じさせる。
この場合、イエス様の顔に浮かんだほほえみと目にたたえられている慈しみが、「小犬」と言われたのに侮辱と憎しみを感じさせなかったにちがいありません。またこの「小犬」が原語では野犬ではなく家に居るペットをさす言葉であることもおもしろいことです。
 
2 この女性は、主の答えの意味を十分にくみ取りました。言外の答えまでくみ取りました。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」(27節)。私には助けを求める権利も値打ちもございません。おっしゃるとおりで、私の子どもは子犬です。
大変に謙虚でした。自分の状態を認めました。自分の罪深さと汚れを告白しました。でも食卓から落ちるパンくずをいただくことはゆるされますよね。
 
この答えにイエス・キリストさまの顔がほほえみから喜びに変わったことを想像していただけるでしょうか。
 彼女は、主人が子どもに食べさせて、残りを子どもが遊びはじめて机の下にこぼしたときにペットの犬はそれを食べていい。メシヤであるキリストの力は、そのおこぼれに異邦人があずかれる程にすばらしい、と評価したのです。
 ついに主イエス・キリスト様は彼女をほめられて、また、娘の病を癒やされました。イエスは言われた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように」(28節)。彼女の娘は、すぐに癒やされた。
 
多くの人は、祈らないと損をするかもしれないからという気持ちとなります。そこで全身全霊を打ち込まない。祈れば何か起こるかも知れない。もしそうだとしたら祈っておいた方が得だと考えます。しかし、この女の人がイエス・キリストのところに来たのはイエス・キリスト様に万一の助けを期待したのではなくて、イエス・キリストだけが、唯一の望みであったのです。彼女の中に燃えるような希望と何としてでも助けを求める真剣さと、どのような事にも砕かれない、ひるまない決意がありました。彼女にとり祈りは儀礼的な形式ではなく、熱望をこめて魂を注ぎ出す事でした。
 この心があのようなイエス・キリストの答えを受けても「否」という答えを受けても、なお、願いが叶えられるという信仰を現させたのです。
 彼女には真剣さがありました。しかし同時に「小犬」といわれて「ただ、小犬でも」と答えるユーモア、明るさがあったのです。それは主人の豊かさを信じることから来る明るさではなかったかと思います。神は常に希望の光を見る、明るく笑って暗さを払いのける信仰を愛されるのです。
 日本人は歯を食いしばって必死にやるように、頑張るようにと歩むために、知らないうちに自分の力だけを見つめてしまいます。するとすぐに自分はだめだなあと思ってしまうのです。心が暗くなり狭くなり落ち込むのです。うつむいてしまうのです。
 
3 みなさん。この女性の持っていた主イエス・キリスト様を全く信頼する心は「否」という答えでも「主よ・・・ただ・・」と明るく答え、ついに主イエス・キリスト様の働きを見せていただくということを、私たちも自分の信仰とする必要がありますね。
 主イエス・キリスト様の御力に頼り、働きを思い、祈り、そのために持っている賜物をすべてお使いくださいと言ってみましょう。この女性が「主よ・・ただ・・」と答えた時、明るく大胆な信仰と、神のもとにひざまずく信仰と、砕かれてなお希望を捨てない事から生まれる不屈の忍耐と、失望を克服する明朗さを持っていました。
 このような信仰は、主が「あなたの信仰は立派です」(28節)、他の福音書では「そこまで言うのなら」(マルコ7:29)と感心されました。これほどの感心した信仰の例は、他に百人隊長の信仰(マタイ8:10)しかありません。いずれも異邦人なのです。主イエスの福音は、文化と国境を越えて広がり行くものである事を教えられています。
 
結び)主イエス・キリスト様、私たちにも同じ信仰の祈りをさせてくださいと、祈りましょう。この恵みを増し加えさせていただきましょう。

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