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2020年7月12日礼拝 音声

7月12日礼拝の音声です。

2020年7月12日 礼拝式順

前   奏                    
招きの言葉     コリント第一の手紙 7章39節
さ ん び      新しい命
さ ん び      満たしてくださる方
開会の祈り                 
主 の 祈り
教会福音讃美歌   19番 素晴らしき主を
聖 書 朗 読      マタイの福音書19章1-12節
聖 書 の 話     「結婚・離縁・再婚・独身」その2  
廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌   376番 祈れ、み父のみ顔見上げて
献   金            
報   告
とりなしの祈り         
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷  
後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

2020年7月12日 マタイ19章1-12節「結婚・離縁・再婚・独身」その2
序文)パリサイ人がイエスを試そうとして質問しました。理由があれば「離縁」しても律法にかなっているのか?主イエス様の答えにしたがって、先週、聖書的な結婚生活の原理を学びました。今朝は離縁と再婚と独身についての学びとなります。

Ⅰ 「離縁」をめぐって
1 事柄の発端は、主に対するパリサイ人の試みでした。「パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。」その動機はイエス様をやり込めて群衆が彼を離れるようにすることに目的がありました。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」「律法にかなっているでしょうか。」は合法的かと聞いています。パリサイ人たちの間で、結婚と離縁は論争の大きな課題となっており、喧々諤々でした。そこにイエス様を巻き込み、陥れようとしたのです。イエス様の答えは、結婚についての神様の教えを説き起こして、さらにその意義を伝えることで離縁は認められないという答えでした。それに対して彼らはモーセの事例を取り上げてさらにやり込めようとしました。離縁を認める律法があると。主はさらに答えます。人間の罪深い頑なな心を解き明かして、神の聖定になる結婚を守り続けなければならないと強く教えられました。

2 さて、ユダヤの法律は「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ」(申命記24章1節)とだけあります。
イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。」(マタイの福音書 19:8)。
主は、律法を盾にして、当時の人々に言いふらされている悪慣習を取り上げました。当時のユダヤ社会は、男性にだけ離婚する権利を認めていました。女性には認められていなかったのです。この律法が曲解されて、離婚の理由はとんでもないものもあったのです。「何か恥ずべきこと」(原語の表現:言葉の裸・事柄の裸)の例に、「彼女がおまえの指図に従わなければ、縁を切れ」とか、「お料理を焦がした」というようなこと、また「好まなくなったら」なども「恥ずべきこと」に入ると言っていました。律法の解釈で、このように説明する学派があったのです。事実、領主のヘロデ・アンテパスが自分の妻を離縁して、兄弟の妻を再婚相手にしてしまったりしていました。パリサイ人はこの事柄を何も言わなかったのです。バプテスマのヨハネはこの不正を咎めていました。これが原因となりヘロデアの怒りを買い、ヨハネは殺されました。
イエス様はこのような社会の風潮に対して、否と言われ、律法本来の意図に理解を戻し、踏み込んで教えられました。ここは離縁状を書いて離縁することを勧めているわけではない。どういう場合離縁してよいかと言っているのでもない。誤解をしないように。主の理解によれば、不品行—姦通によって夫婦の一体性が壊され、罪の極みに堕落した場合以外は、離縁は通用しないです。それゆえに別れた相手に再婚の道を与えることは姦通罪のそそのかしになるというのです。「あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです」(マタイ19:9)。男性に離縁の権利があるというのなら、その行為の責任は男性にある。姦淫の罪を犯すのは男性である。離縁状を渡したときに、その結果、ほかの人の妻となって、彼女に姦淫を犯させることになる。男子も姦淫を犯すとはっきりと言われました。自分で犯さないばかりか配偶者にも犯させてはいけないという配慮を払うようにと言っています。

3 新約聖書でも主イエス様と同じ文脈です。その論拠とされる聖句の解釈によって多少意見が分れます。
離縁が明確に認められるのは、2つの場合である。一つは、一方の死亡による解消であり(ローマ7:1‐2、Ⅰコリント7:39「妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。」)、もう一つは,一方の不貞による場合である(マタイ5:31‐32、19:7‐9)。ほかに、間接的にではあるが、離縁のやむなきを暗示する聖句がある。それは、未信者の側が、信者から離れていこうとする時です。「しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。」(Ⅰコリント7:15‐16)。
しかし、いずれの場合も、離縁を勧めているのではありません。  
離縁は、姦淫の罪にかかわることになるので、十分に注意しなければならないのです。なお、聖書には直接の言及はないが、「教会や国家的為政者によってもどうしても救治できないような故意の遺棄」をも、やむを得ない離縁の事例として容認する考えもあります(『ウェストミンスター信仰告白』24:6)。

日本の法律の現状では、「不貞行為(浮気)」「悪意の遺棄(故意に配偶者に義務を尽くさないこと)」「三年以上の生死不明」「回復の見込みのない強度の精神病」「その他、婚姻を継続しがたい重大な事由があること」とあります。法律が定めている離縁理由が存在しなくても、協議離縁は可能なのです。事実上は何が理由であろうと法的には離縁はさしつかえない状態になっているのです。聖書の倫理基準の高さを覚えなければなりません。

Ⅱ 再婚について
再婚が明確に容認されているのは、一方の死別によって自由になった場合だけです。「結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死んだら、自分を夫に結びつけていた律法から解かれます。したがって、夫が生きている間に他の男のものとなれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死んだら律法から自由になるので、他の男のものとなっても姦淫の女とはなりません」(ローマ7:2‐3)。「妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。」(Ⅰコリ7:39)。この場合は、残された人は、自分の願う人と結婚する自由がある。
また、一方の不貞によって離婚した場合の潔白な側の再婚については、特に積極的な言及はない。このことを「白紙の状態」と解して、再婚を合法的とする解釈がある。「婚約後に犯した姦淫または淫行は、結婚前に発見されるならば、潔白な側にその婚約を解消する正当な理由を与える(マタイ1:18-20)。結婚後の姦淫の場合には、潔白の側が離婚訴訟をし(マタイ5:31,32)、離婚後はあたかも罪を犯した側が死んだかのように、他の人と結婚しても合法的である(マタイ19:9、ローマ7:2,3)。『ウェストミンスター信仰告白』24:5)。
しかし、パウロは次のように勧めている。「もし別れたのなら、再婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい」(Ⅰコリ7:11)。また、死別して自由になった人に対しても、「しかし、そのままにしていられるなら、そのほうがもっと幸いです」(Ⅰコリ7:40)と述べています。これは律法ではなく、「ひたすら主に奉仕できるようになるため」(Ⅰコリ7:35)の自発的判断であり、信仰であります。

Ⅲ 独身10-12節
主イエス様の離縁と再婚についての結婚観を聞いて弟子たちの反応は「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」ということでした。ペテロのような既婚者は別として、ほとんどは独身者でした。彼らは「結婚しないほうがましです。」と反応しました。罪を犯さないために結婚しないほうが良いという、尻込みが感じられます。
イエス様の答えは「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。
イエス様の答えの一つ目は、独身で生活を続けることは「だれもが受け入れられるわけではない。」「受け入れられる」は、原義「あるもののために、その空間を用意する」独身であるとは、そうすることのできる余裕がある人だけができる、という意味になる。
「それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。」

 イエス様の説明によれば独身でいられる人は三種類。「独身として生まれついた人」(生まれつき性的な能力を持たない人)、「人から独身者にさせられた人」(宮廷に勤めた宦官など:使徒の働き 8:27「そこで、ピリポは立って出かけた。すると見よ。そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、」)、「また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。」わかりやすい例は神の国のために生涯を捧げて独身を選んでいる人々のことです。旧約では預言者エリヤ、エリシャ、エレミヤなど、新約ではバプテスマのヨハネや、弟子たち,当のイエス様とか生涯独身の宣教師として奉仕している方々などです。福音時代の緊急性・差し迫っている危機に対応している人々。第一コリント7:25-28「未婚の人たちについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみにより信頼を得ている者として、意見を述べます。差し迫っている危機のゆえに、男はそのままの状態にとどまるのがよい、と私は思います。あなたが妻と結ばれているなら、解こうとしてはいけません。妻と結ばれていないなら、妻を得ようとしてはいけません。しかし、たとえあなたが結婚しても、罪を犯すわけではありません。たとえ未婚の女が結婚しても、罪を犯すわけではありません。ただ、結婚する人たちは、身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。」

イエス様は独身であれと言っておられるのではなく、「それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」です。独身は神から与えられた賜物です。第一コリント7:7「私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります」。

結び)二回にわたって結婚、離縁、再婚、独身という聖書的な課題を学びました。すべての人が結婚を重んじますように。主の祝福と導きを祈ります。

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