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2020年8月9日礼拝 音声

8月9日礼拝の音声ファイルです。

2020年8月9日礼拝

前   奏                    
招きの言葉 ピリピ人への手紙 2章6-9節
さ ん び 全地の果てよ
さ ん び 主を見上げて
開会の祈り   
主 の 祈り
教会福音讃美歌 127番 主イエスは尊き
聖 書 朗 読     マタイの福音書 20章17-28節
聖 書 の 話  「主は仕え、いのちを与えるために来た」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌 138番 救い主イエスの
献   金            
報   告
とりなしの祈り         
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷  
後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

2020年8月9日 マタイの福音書20:17-28 招詞 ピリピ人への手紙2:6-9
「主は仕え、いのちを与えるために来た」 

序文)主イエス・キリスト様が十字架にかかられる一週間前に、弟子たち(信徒たち)の考えていたことと、主ご自身が考えて実行しようとされていたことが、どれほどのギャップを持っていたかが、今朝の箇所に明白に書き残されています。書いたのはマタイですが、マタイはこの記事の情報を、その場にいて、主から直接聞いていたのです。ゼベダイの息子たち(ヤコブとヨハネ)の母親が、息子たちと共に来て、主に何か期待していたのです。彼らのみならず、弟子たちは皆、いよいよエルサレムに上るとひょっとして自分たちは栄光の座に着かれる主の弟子として何か期待できると考えていました。この時、主イエス・キリスト様は身代わりの命を十字架上で捨てようとしていたのですよ。主の心、弟子知らず、です。
 
Ⅰ 17節 さて、一行はエルサレムに上る途中にあった。
1 なぜ上るのでしょう。主はご自身の地上生涯の終わりの時を迎えたことを理解し、その死を遂げる場であるエルサレムに向かって先頭を切って進んで行かれた。心に深く決意して先頭を進むイエスの姿は、勇ましくも見え、孤独にも見える。弟子たちは受難を予告され、迫り来る死を彼らなりに察知した。だが、その意味も目的も理解できず、イエスの姿に不安と恐れを感じていた。イエス・キリスト様は孤独であった。神様のために、人が一人でしなければならない決断ということがあります。人が一人で直面しなければならない物事があります。人が自分の魂の恐ろしい孤独の内でしなければならない決断があり、また歩まなければならない道があるのです。主イエス・キリスト様は人生における今そのような所にさしかかり、エルサレムに先頭を切って向かわれているのです。あなたはそのような決断のときを経験されたでしょうか。この主のお心をそのような時に深く思いはかることです。

2 イエスは12弟子を呼び寄せて言われた。エルサレム行きは、巡礼のためではない。王座に着くためでもない。メシヤは最後には、異邦人に引き渡され、あざけられ、つばきされ、むち打たれ、悲惨な死を遂げるのだと(18-19節)。自分の捕縛、審判、処刑がおこるのだと。その後に復活がおこるのだと。これらは旧約聖書に預言されていた(参照ゼカリヤ9:9、イザヤ53:7-10、詩篇22:1-18、詩篇69:21)のです。主イエス様ご自身も既に二度も予告しておられた(マタイ16:21、17:12、22−23)。だんだんと詳しく恐ろしい状況が加わった予告でした。主の十字架と復活は時の弾みでおこったのではなく、神様がご計画なさった私たちを救う手順の一つであった。
Ⅱ 理解できていなかった。
平行章句のルカ18:34を見ましょう。「弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。」理解できていなかった証拠をマタイは20-21節に記しました。それはヤコブとヨハネが母親と一緒に主に求めた事柄です。御国が来たら、主の王座の右と左に、すなわち最高位に座れるようにしてほしいと言った。この反応は当時の人々がメシヤが来ると地上に神の国をもたらすと理解していたことを示します。メシヤはこの世の君と戦い勝利する。ルカ19:11「それは、イエスがエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐにでも現われると思っていたからである。」と記されています。ヤコブとヨハネはイエス様に栄光をなおも見ていたのです。地上での究極的勝利を疑わなかったのです。

 「イエスは答えられた。『あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。』彼らは『できます』と言った。イエスは言われた。『あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。』」(マタイ20章22-23節)。

 「飲もうとしている杯」は旧約聖書の表現によると、人間の罪に対する神の怒りとさばきを意味することが多い。罪に対する神のさばきを代って背負う意味で、「わたしが飲もうとしている杯」があり、それを飲めるのか。と言われました。『できます』(22節)と言った2人は、事柄の真の意味を理解していませんでした。しかし、イエスは、彼らも将来、福音のために大きな苦難にあい、それに耐えることを予告されました(23節)。使12:1-2「そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人たちを苦しめようとしてその手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」とあるとおり、使徒ヤコブは12使徒の中で、最初の殉教者となりました。ヨハネはペテロと共に投獄されてむち打ちの刑罰を受ける最初の人となりました。また晩年にはパトモス島に幽閉されて殉教の死を迎えたのです(黙示録1:9)。

 このように今日のクリスチャンでも文字通り殉教の死を遂げるか、生きながら耐えるか、いずれかの仕方でイエスの杯を飲むことは出来ます。「しかし、キリストの右・左に座ることは」生涯の半ばで保証していただくとは限りません。「わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです」(23節)。物事の究極的結末は神様に属していると言われたのです。天国でどのようにしていただくかは、今の私たちが知る必要の無いことです。神様が永遠の世界で決定されることとしてわたしに任せなさいと言われるのです。

今、必要なことは使徒パウロの言葉に習うことです。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」(ピリピ3:12-14)

Ⅲ 仕える者になろう。
1  24節。母親を連れてきた2人の抜け駆けの申し出をきいた10人の弟子たちは、「腹を立てた」、憤慨したのです。それで彼らもまた、同じように考えていたのだとわかります。そしてここに誰が一番偉いかという論争が再燃したのです。深刻な事態が生じました。イエス様はすぐに25節からの教えをなさった。使徒たちの友情が破壊されないようにされた。
 イエス様は彼らにイエスの国における偉さと、この世の偉さの違いを教え、正しい競争の仕方をお教えになりました。25節 この世の基準は権力です。異邦人支配者の手口は、いま、弟子たちが知っているように、ローマの支配下にあるユダヤの姿に見られます。彼らは「治める」とか「権力」をふるうという方法で尊厳を保っているのです。権力づくで彼らを従わせる。そしてその支配下にいる人々が多いほど偉大であるというのです。

2 26節 クリスチャンの基準はそうであってはならない。イエスの国の偉大さの基準は権力ではない。現実にクリスチャン社会ではそのような力ずくの方法では支配できない。尊ばれもしない。クリスチャン社会では、治めるために武力、財力、政治力などの世の力を行使してはならないし、何の役にも立たない。教会の頭である主から託された霊的な権能によるのです。
 
また、たとえ霊的な権能があっても、その権威をもって無理に服従させることはできない。ペテロは「割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」(第一ペテロ5:3)。パウロは言いました。「私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたは信仰に堅く立っているのですから。」(第二コリント1:24)。主イエス様の教え通りです。27節「皆のしもべになりなさい。」ここではクリスチャンがキリストの僕である。奴隷である。と言うことに加えて兄弟姉妹のしもべ、奴隷でなければならないとされています。
 しもべであることは、「謙遜であること」と「他のクリスチャンの役に立つこと」を意味します。この二つを兼ね備えることは、非常に難しいことです。謙遜に、しかも熱心に奉仕する者を、主は「偉い」といってくださっているのです。
 
3 そして何よりも覚えるべきことは主の模範です。28節主は「来た」のです。私たちの「贖い」のためにです。「救出」とは違います。買い取ること、厳密には「身受け」すること(ransom)をさします。身受けすることは、身代金を払うことによって釈放してもらうことです。イエスがこの世に来て成就されたみわざは、身受けのわざです。引き渡された彼のいのちはまさに身代金でありました。この身受けは、代償的性格のものでありました。私たちの罪が、私たちを引き入れた罪の束縛の状態に贖いは向けられています。この束縛の状態は様々である。従って買い取ること、あるいは身受けすることとしての贖いも、さまざまな適用と関連とをもっているのです。贖いは、わたしたちが拘束されている束縛の状態のすべての側面にかかわりをもち、それからの自由をもたらすものです。その自由とは、ほかならず神の子たちに与えられている栄光の自由です。
 
結び)主イエス・キリスト様は、罪深い私たちの贖いのために仕える者となってくださいました。私たち贖われた者は、主イエス・キリスト様と兄弟姉妹に仕える者としての道を歩みましょう。

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