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2020年9月27日礼拝 音声

9月27日礼拝の音声ファイルです。

2020年9月27日礼拝式順

前   奏                    
招きの言葉    マタイの福音書7章7-8節
さ ん び    我が心の目を開いてください-Open The Eyes of My Heart
さ ん び    鹿のように-As the deer
開会の祈り                 
主 の 祈り
教会福音讃美歌  380番 この世のつとめ            
聖 書 朗 読      マタイの福音書21章18-22節
聖 書 の 話     「実りのために祈りを」   廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌  375番 ここにいます主は
献   金            
報   告
とりなしの祈り    
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷                           
後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

2020年9月27日 「実りのために祈りを」マタイ21:18-22

さて、朝早く都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端に一本のいちじくの木が見えたので、そこに行って見ると、葉があるだけで、ほかには何もなかった。それでイエスはその木に「今後いつまでも、おまえの実はならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。弟子たちはこれを見て驚き、「どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか」と言った。イエスは答えられた。「まことに、あなたがたに言います。もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります。あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」

序文)主イエス様が生涯の最後の一週間をすごされたエルサレムでの出来事を学び始めました。イエス様は言葉よりも態度で神の国を示そうとされたのでした。ロバの子に乗ってメシヤは平和の王であることを教えようと入城された意味は重大でした。宮を清める働きと祈りの家の再興をなさいました。しかし、人々は正しく理解できませんでした。今朝のイエス様の行動は、いちじくの木を枯らされたことです。

Ⅰ 18節-19節
1 この出来事は月曜日の朝に起こりました。マタイによると、このいちじくの木は道ばたに生えていた野生のいちじくです。所有者がいたわけではなかったのです。季節はずれであるにもかかわらず、この木だけが葉を茂らせていたので目立ったのです。葉を茂らせて実が一杯ありそうに見えていながら実際は何も無かったのです。イエス様は、なぜシーズンでもないいちじくの木に実りを求められたのでしょうか。通常はユダヤのいちじくは葉よりも先に花が咲き実を結びはじめるので、早春の過越の祭りにこの木だけが日当たりの良いオリーブ山の道ばたで、もう葉を茂らせていたので実をならせているはずだと判断されたのです。ここまでは理解できます。「イエスは、その木に向かって言われた。『今後いつまでも、おまえの実はならないように。』すると、たちまちいちじくの木は枯れた。」
弟子たちはこれを見ました。驚きました。何故、主は、このようなことを言われたのでしょうか?イエス様も八つ当たりしたのだと思う人もいることでしょう。
イエスは答えられた。「まことに、あなたがたに言います。もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります。」

2 旧約聖書では「ぶどう」とともに「いちじく」は、イスラエルの国をさす象徴として用いられています。主はルカ13:1-9で「実を結ばないいちじくの木のたとえ」を話されました。悔い改めないイスラエルへの神のさばきと、実を結ぶまで神に猶予を願うメシヤの救いとを教えられたことでした。ここではイスラエルの神殿礼拝の形式が整っているが、実が伴わないユダヤ教に対して裁きを象徴的に示されたと考えられます。それは次の言葉から理解できます。「ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。」(マタイ21:43)

 イスラエルの罪は実がなかったことです。実とは何でしょうか。選民イスラエルといえどもキリストの人としての誕生なしには何もできないこと、彼を信じる信仰なしには何も誇ることができないことを認めるということです。イスラエルはこれを拒絶したのです。他の国々は誇るような何もないが、自分たちにはあると思っていたのです。なのに彼らは義の実を結んでいませんでした。
 さらに悔い改めの実も結んでいませんでした。イエスは救い主として悔い改めを求められましたが、彼らは無反応でした。誇りと形式はあったが、神の遣わされたメシヤ・イエス様に対して悔い改めと正しい信仰を結んでいなかったのです。
 
3 イエス様は形式や霊的な賜物が無用だと言っておられるのではないのです。有害だと言っておられるのでもないのです。そのようなことだけでは実を結ぶ何の保証にもならないということです。悔い改めによってイエス様への信仰をいきいきと保たせていただくことこそ肝要です。彼らは何によって実を結ぶことができるのでしょうか。それは祈りによってです。
 
Ⅱ 「あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」
 信仰の実りは神様から来ます。それは祈りへの神様の応答があるからです。信じて祈り求める姿勢が大事でしょう。以前に出てきたみことばを再考しておきましょう。マタイ7:7−8「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」 

1 求めなさい!7-8節
 私たちは普段の信仰生活でどうもピリッとしない、祈れない、あかしができない、というような「無い無い尽くし」に陥っている自分に気がつくことがあるでしょうか?全く自分は、どうも、と言う風で、自分に愛想をつかしている。私なんかは、と、しょげかえり、くよくよと悩む。あるいは、自分の状況を忠告してくれた兄弟姉妹をけむたがり、うらみがましく思ったりすることがあるでしょうか?

2 探しなさい! 
何を求めれば良いかが分からない。自分に何が欠けているのかが、わからない。そのような場合は探しなさい。足を運んで、探すために、教会のいろいろの集まりに来て見る。何が足りなくて、自分の求めが具体的にはっきりしないのかを探して見つける。ただ家にじっとしていて、くよくよと悩み続けるだけでは、何も見つからない。変化が起こらない。判断をくだす資料も、良い知恵も浮かばない。停滞している気分を変えるためには、何を祈るべきかを探す。
 また、別の面では、求めていることが、どこで手に入るかを探すということもある。求めははっきりとしている。それがどこで手に入るかを探す。「聖書を読んでみよう」「あのセル集会に出てみよう」「教会図書の信仰書に何か答えがあるかもしれない」「同じ経験をしている信徒がいるかもしれない」
 
3 たたきなさい! 
時にはあまりにも自分が罪深く弱いために、天国の扉が目の前でぴしゃりと締められていると感じることがある。外に放り出されてしまったような絶望を感じることがある。孤独感がつのるのです。そのような時にも、門を叩き続けなさい。
 要するに、自分に与えられた課題を解決してゆくために、祈りにおいてあらゆる手を打ちなさいと、主は勧められているのです。「開くまで頼み続ける」、そういうことでしょう。教会は、このような祈り、何が何でも心を合わせて必要のために必死で祈るとか、あちらこちら探しまわるとか、門をたたきつづけるとか、信徒一同心を合わせて祈らなければなりません。
 
Ⅲ なぜか? なぜそのように求め、探し、たたくのが良いのか?
1 それは、主イエスさまが「求める者は受け、探す者は見つけ出し、たたく者は開かれます。」と約束してくださっているからです。ここに神の保証があるからです。祈り求め、探し、たたく者は、かなえられるのです。そのように確信して疑わないで求めましょう。
ヤコブ1:5−8「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださるに神に求めなさい。そうすれば与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。」

2「だれであっても」と主は言われました。開くまで頼む者は、誰であっても、そうです。
 求める者は誰でもです。主に信頼して「天のお父さん」と求める者です。子どもも、成人も、信じて間がない者も、成熟している者も、「誰でも」です。

結び)実りのない信仰ではなく、実りを神様からいただける信仰のために、祈り求め、探し、たたく者となりましょう。日々に豊かないのちにと与り、聖霊に所有されている自分自身を発見して、そのいのちの幸福に満たされます。これにまさる善きものはありません。神様がそうしたいと一人ひとりのために願っておられます。

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