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2020年9月6日礼拝 音声

9月6日礼拝の音声ファイルです。

2020年9月6日 聖晩餐式礼拝式順

前 奏
神の招きと賛美

司会者:主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。
会 衆:主の恵みがありますように。
司会者:さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、
喜び叫ぼう。
会 衆:感謝の歌をもって,御前に進み行き,賛美の歌をもって,主に喜び叫ぼう。   
一同:主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。    

教会福音讃美歌  14番 とうとき主の み救いよ
開会の祈り                        

罪の告白の招き  イザヤ書55章6-7節          
罪の告白の祈り                            
会 衆:あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。アーメン。
個人的な告白 ( 黙祷のうちに )

赦しの確証  
司会者:  詩篇32篇1-2節
会 衆:  アーメン 
平和のあいさつ                            
司会者:神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも
互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会 衆:主の平和が、あなたとともにありますように。 

教会福音讃美歌 456番 きみのたまものと

みことばの宣教 
聖 書 朗 読    マタイの福音書21章1-11節 
聖 書 の 話   「主がお入用なのです。」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌 459番 主よ、おわりまで

聖晩餐式                        
[制定のことば] コリント人への手紙 第一11章23-29節
[式 辞][祈 り][分 餐]
[一同で祈る]
 私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐に
あずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

献 金           
教会福音讃美歌  272番 みつにまして ひとつの神
祝 祷                       
後 奏      567番 アーメン・アーメン・アーメン

2020年9月6日「主がお入用なのです。」マタイ21:1-11 
序文)主イエス・キリスト様の地上生涯の終幕が今朝の箇所から始まります。エルサレムに入城される直前の出来事がここに記されています。ことに「王」として主イエス・キリストがはっきりと印象づけられるように行動なさったことを知ることができます。このメッセージは話による教えではなくて、行動による教えです。

Ⅰ 昔、預言者たちがよく「ことばによって人々に訴えても、民が受け入れることを拒み、使信を理解しようとしない」ときに、行動によって自分のメッセージを表したのと同じことが起こりました。エゼキエル書5:1-4で、エゼキエルは頭とひげをそって、その毛を三等分し、三分の一を町の周りで焼き、三分の一を剣で打ち、三分の一を四方に散らせと命じられました。それは三分の一が疫病で死に、三分の一が剣で倒れ、三分の一が四方に散らされることを示しました。
主イエス・キリスト様は、今まで、様々な教えをもって、真の王、平和の王であることをあらわしてくださいました。いよいよ、地上生涯最後の週を迎えて、首都エルサレムに入城しようとするとき、すべての人々にご自分の行動で、はっきりと真の王、平和の王であることを示されたのでした。

Ⅱ ろばの子に乗るイエス・キリスト
ろばの子に乗って入城する姿にメシア、神の油注がれた王であることの主張がありました。

主張の一 ロバの子の入手方法 主イエスは、ベテパゲに二人の弟子を使わして子ロバを引いて来させようとなさいました。この状況は、前もってエルサレムに住んでいる友人に、ろばの子を用意させておいて、合い言葉として「主がお入用なのです。」ということを打ち合わせてあったのだろうと、いうようなことではありません。「もしだれかが何かを言ったら、主がお入用なのです。と言いなさい。」(3節)ということばからも、この出来事はイエス・キリストの全く超自然的な全知ぶりをしめしているのです。

主張の二 「まだ誰も乗ったことのないロバの子」(ルカ19:30)といわれていることです。重要な目的のために用いられる動物は、他の目的のために用いられたものであってはならなかった。このことは主イエス・キリストご自身が、神の子であることを暗黙のうちに主張しておられるのです。

主張の三 ろばの持ち主が「主がお入り用なのです。」(マタイ21:3)ということばだけで、ロバの子を渡してくれるというほどに、主は、ご自分の用いようとするときに、好みの方法で動かせる支配力をお持ちである。主はメシアとして自分が全知、全能である主権者、神であることを示された。私たち自身に主の御声が、今朝かけられています。「主がお入用なのです。」どうぞお用いくださいと、自らを差し出して、献身してゆきましょう。

主張の四 ロバの子に乗ることで王である姿が示された。弟子たちは自分たちの上着をロバの上に投げかけると、イエス・キリストをお乗せしました。これは預言者ゼカリヤを通して言われたことが成就するために起こったのでした。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9)。
ゼカリヤは紀元前6世紀にシオンの娘すなわち選民イスラエルの都に向かって契約の血のゆえに、世界的改心をもたらす主人公を紹介しています。ろばの子の上に乗る王は「義なる者」と言われ、神様との関係で義なる王です。また「勝利を得る」王です。そして柔和です。この王がろばの子に乗ると言うことは、王が平和の中にやってくるということを示しました。王は戦争の時は軍馬に乗るのです。平和の時はロバに乗るのです。この王の姿は、彼の国が、この世の壮麗さや権力、軍事力や富と共通するようなものではなく、神の目に正しく、救い主であり、平和の王として君臨される霊的なものであることを象徴していました。

Ⅲ 主張の5 この主イエス・キリスト様への弟子たちと群衆たちの反応です。
弟子たちは主イエス・キリスト様のこの姿を見て、主は王様であるとの理解を示しました。ろばの上に上着を敷き、道にも敷きました。群衆たちも前後を囲んで、イエス・キリストに向かって「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高きところに。」(21章9節)と喜んで大声で神を賛美しました。弟子たち、群衆は賛美に詩篇118:26「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」を用いました。イエス・キリストの誕生の時に天使たちが賛美したことば「天には平和。栄光は、いと高きところに」でした。救い主の誕生が、天の軍勢と天使たちの「地に平和あれ」の賛美で満たされました。主の地上生涯の終わりには、弟子たちと群衆が「いと高き所に平和あれ」と叫んでいるのです。このへんに美しく楽しい賛美の交換がありますね。

しかし、それと同時に、このことは主の誕生により「地上に平和がある」はずなのに、まだ、「いと高き所に平和あれ」としか言えない状態であることをルカ19:39は教えています。「するとパリサイ人のうちの何人かが、群衆の中からイエスに向かって、『先生、あなたの弟子たちを叱ってください』と言った。」とあります。弟子たちの賛美を沈黙させようとする勢力、悪い嫌がらせによっても証明されています。パリサイ人たちは、この賛美の声がローマの政府当局者たちに聞こえたら、弾圧が下るということを恐れているのです。弟子たちの口封じをしようとしたのでした。この事柄自体に平和が無いことをしめしています。

主張の六 イエス様が彼らに答えます。この明々白々たる主イエス・キリストのメシア性は沈黙させたり、迫害で押しつぶそうとしても、打ち消しがたいほどであることをはっきりと示されました。「わたしは、あなたがたに言います。この人たちが黙れば、石が叫びます」(ルカ19:40)。このようにイエス・キリスト様の「ろばの子」に乗りエルサレムに入られる姿は、まさに、メシア、救い主の入城を公然と示す、否定しがたい事実でありました。
人間が自分たちの都合で、イエス・キリストを否定し、この公然とした救いを沈黙させようと宣教の働きを圧殺し、教会を迫害し、クリスチャンたちを亡き者にしようと脅してきました。しかし2000年にわたる、世界の歴史が、「石が叫んだ」という事実を証明しているのを、私たちは忘れてはなりません。

結び)私たちは主イエス・キリストを信じる者として、罪に繋がれていた者が、「主の入用です」と罪から解かれて、今は用いられる身となっているのです。イエス・キリスト様を心の中にお迎えして、主の福音を伝えるために、遣わされているところに、お運びしている「ろばの子」であることを覚えてその光栄を思うのです。この明白な救いの事実をほめたたえつつ、この世の旅路を全うしたいものです。そしてまことに「地に平和、御心にかなう人にあれ。」「栄光は、いと高きところに」と言える日の一日も早く来るように祈り求めましょう。

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