コメントはまだありません

2011年7月10日 ルカの福音書6:43〜45「新生しんせいの必要ひつよう」

音声は記録できませんでした。

2011年7月10日 ルカの福音書ふくいんしょ6:43〜45  「新生しんせいの必要ひつよう」

序文じょぶん)天地てんちを創造そうぞうし、これをご自分じぶんの目的もくてきにしたがって統治とうちしておられる聖書せいしょの神かみは、そのお心こころをみことばを通とおして現代げんだいの私わたしたちに示しめしておられます。その中なかで、神かみが、人ひとをどのように見分みわけておられるかについてはっきりと学まなぶ事ことができます。

私わたしたちのまわりには、二種類二しゅるいの人ひとがいます。両親りょうしんから生うまれたままで以来いらいそのまま育そだった人ひとと、その生涯しょうがいの途中とちゅうで、み子こイエス・キリスト様さまのいのちを信仰しんこうによっていただき、新あたらしい誕生たんじょうを得て、生活せいかつを再さいスタートした人ひとです。聖書せいしょでは、その表現ひょうげんはさまざまです。たとえば、肉にくの人ひと、霊れいの人ひととか、古ふるい人ひと、新あたらしい人ひと、生うままれながらの人ひととか、御霊みたまに属ぞくする人ひと、失うしなわれた人ひと、見出みいだされた人ひと、滅ほろびの子こ、神かみの子こ、罪人つみびと、贖あがなわれた人ひと、信しんじるもの、信しんじていないもの、等などなどです。

今朝けさの箇所かしょで主しゅイエス様さまがなさっている二種類しゅるいの分わけ方かたは、「良よい実みを結むすぶ、良よい木きか、悪わるい実みを結むすぶ悪わるい木きか」というのと、「心こころの良よい倉くらから良よいものを出だす良よい人ひと」と「心こころの悪わるい倉くらから悪わるいものをだす悪わるい人ひと」というのです。これらはたとえ話ばなししとして語かたられているのですが、私わたしたちは、主しゅイエスさまが、私わたしたちをどのように見分みわけけておられるかを思おもいつつ、学まなぶことによって、それぞれ救すくい主しゅのお救すくいに与あずかる者ものとなるように祈いのりましょう。

 

Ⅰ 43〜44節 私わたしたちは良よい実みを結むすぶ良よい木きか?悪わるい実みを結むすぶ悪わるい木きか?

まず初はじめにいわれていることは、木きが良よいか、悪わるいかは、実みによってわかるというのです。良よいとか悪わるいとか言いうのは、神かみ様さまがご覧らんになって良よい、悪わるいと言いわれているのです。その規準きじゅんは神かみのお心こころとして表あらわされている「みことば」であります。

木きは自分自身じぶんじしんです。実みは自分じぶんが地上生活ちじょうせいかつに表あらわした生いき方かたです。その結むす果はとして他ほかへの影響えいきょう、感化かんかをさします。それが良よいか悪わるいか。

このことについて、私わたしたち長老教会ちょうろうきょうかいの信仰しんこう基準きじゅんである、ウェストミンスター信仰しんこう告白こくはく16章しょう「よきわざについて」と告白こくはくがあります。

一項こう「よきわざとは、神かみがそのきよいみ言葉ことばにおいて命めいじられたものだけであって、人間にんげんがみ言葉ことばの保証ほしょうなしに、盲もう目的もくてき熱心ねっしんから、また何なにか良よい意図いとを口実にこうじつして案出あんしゅつするものではない。」ここは、宗教改革しゅうきょうかいかくの重要じゅうような論争点ろんそうてんの一つで、信仰しんこう義認ぎにんの信仰しんこうとよきわざとの関係かんけいを告白こくはくしている。救すくいは人間にんげんの善よい行おこないによるのではなく、キリストのみわざに基もとづく神かみの絶対恩寵ぜったいおんちょうであることを明あきらかにする。この恵めぐみにより、信仰しんこうによる救すくいこそが、よい行おこないという実みを必然的ひつぜんてきに結むすばせるのである。エペソ人ひとへの手紙てがみ2:1〜10。この告白こくはくは、善よきわざによる救すくいを主しゅ張ちょうする、ローマ・カトリック教会きょうかいの律法りっぽう主しゅ義ぎに対たいして、よきわざが、どういう意味いみで不必要ふひつようなのかを答こたえている。また、よきわざの生活に無関心せいかつ むかんしんな無む律法りっぽう主しゅ義ぎ者ものに対たいして、よきわざが、どういう意味いみで絶ぜつ対たいに必要ひつようであるかを明あきらかにしている。一項こうは、よきわざの基準きじゅんについて告白こくはくしており、それは聖書せいしょ−「神かみがそのきよいみ言葉ことばにおいて命めいじられたものだけ」−と明示めいじしている。これはウ告白こくはく第一章しょう六項こうと関連かんれんがある。聖書せいしょというとき、聖書せいしょの中なかに明白めいはくに示しめされているものと、正当せいとうで必然的ひつぜんてきな結論けつろんとして聖書せいしょの中なかから引ひき出だせるものを含ふくめている。ルター派はでは「聖書せいしょに禁きんじられていなければ行おこなってもよい」と考かんがえる。ウ告白こくはくが言いおうとしていることは、人ひとが、聖書せいしょなしに自律的じりつてきに行動こうどうすることの危険きけんを戒いましめている。聖書せいしょが信仰しんこうと生活せいかつの唯一ただ一つの無む謬びゅうの基準きじゅんなのであって、いいかげんな自己流じこりゅうで、このほうが良よいなどと主しゅ張ちょうすることは自分じぶんだけでなく、他ほか人ひとをも滅ほろびの子ことすることである。よく聖書せいしょの真意しんいをたしかめ。その命めい令れいに従したがうようにしなければならない。

二項こう「神かみの戒いましめに服従ふくじゅうしてなされるこれらのよきわざは、真まことの生いきた信仰しんこうの結実けつじつまたあかしである。それによって信者しんじゃは、自分の感謝じぶん かんしゃを表あらわわし、確かく信しんを強つよめ、兄弟きょうだいの徳とくをたて、福音ふくいんの告白こくはくを飾かざり、敵てきの口くちを封ふうじ、また神かみの栄光えいこうをあらわす。信しん者じゃはよきわざをするようにキリスト・イエスにあって造つくられた神かみの作品さくひんであって、きよきに至いたる実みを結むすんで、終極しゅうきょくである永遠えいえんの命いのちをもつようになるのである。」

ここには、よきわざの意い義ぎが列挙れっきょされている。よきわざは信仰しんこうの実みである。引用聖句を読いんようせいくんでみましょう。ヤコブ2:18、22。Ⅰペテロ2:9。Ⅰヨハネ2:3。Ⅱペテロ1:5〜10。テトス2:5。ローマ6:22。

三項こう「彼かれらがよきわざをする能力のうりょくは、全然ぜんぜん自分自身じぶんじしんによるものではなくて、全まったくキリストのみたまからのものである。そして彼かれらがよきわざをすることができるためには、すでに受うけている恵めぐみのほかに、彼かれらのうちに働はたらいて、み心こころのままに願ねがいを起おこさせ実現じつげんに至いたらせる同おなじ みたまの実際の作用じっさい さようが必要ひつようである。しかし、みたまの特別とくべつな活動かつどうがなければ、何なにの義ぎ務むも果はたす責任せきにんがないかのように、ここで怠惰たいだになってしまってはならない。むしろ彼かれらは、自分じぶんの中なかにある神かみの恵めぐみをかき立たてることに勤勉きんべんでなければならない。」

よきわざをする能力のうりょくはみたまからくる。それでみたまの恵めぐみに信しん頼らいしなければならない。しかし、この「ただ恵めぐみのみ」の教えおしは、無む責任せきにんな「果報かほうは寝ねて待まて」式しきの心境しんきょうと同おなじではない。「求めよ、そうすれば与あずかえられる。」とあるとおり「祈いのり深い努力の必要ひつよう」と深く関係かんけいしている。祈いのりは、恵めぐみをいただく外的手段である。

人ひと間が自分わの発意いで神かみにさそいかけるのでなく、神かみがわたしたちのうちに、このような願ねがいを起おこさせ、祈いのりの手段をとらせ、それをとうして、目的もくてきを達成される。神かみは、わたしたちに祈いのらせられる。怠惰たいだでなく熱心こころが求められている。

「同おなじ みたまの実み際の作用が必要ひつようである。」とはどういうことか。聖霊れいの恵めぐみを二つの種類しゅるいに分わけて考かんがえると、わたしたちに新あたらしい聖められた性質を与あずかえて下さる恵めぐみ(ハビチュアル・グレース)とわたしたちに継続的に働はたらきかけて、よきわざに励むように願ねがいをおこさせ、それを実み際に行おこなわせてくださる恵めぐみの作用(アクチュアル・グレース)がある。ここでは、アクチュアル・実み際の作用のことをいっている。

 

Ⅱ 良よい実みを結むすぶ生うまき方かたは他ほかに良よい影響えいきょうを与あずかえる。聖霊れいに生うまかされているからである。悪わるい実みをむすぶとは、具体的に聖書せいしょに出だてくるが、不品行おこ、汚れ、好色、偶像崇拝、魔術(カルト)、敵てき意い、争い、そねみ、憤り、党派は心こころ、分わ裂、分わ派は、ねたみ、酩酊、遊興など(ガラテヤ5:19〜21)で、良よい実みは「愛、喜び、平安、寛容、親切、善よ意い、誠実み、柔和、自制である。」

外見上は同おなじ人ひと間です。またあえて外見上は同おなじクリスチャンです。しかし、その結むすぶ実みは、生うま活の実み態はどうか。その人ひとを巡る周りに及ぶ影響えいきょうはどうか。感化かんかはどうか。その人ひととつきあっているうちにだんだんと偶像崇拝に引ひき込まれ、あらそい、そねみ、敵てき意いを吹き込まれないだろうか、分わ裂、分わ派はを引ひき起おここし、信仰しんこうやみからだである教会きょうかいから次々と離れさせられたりしていないか。(わるい感化かんか、)また、反対たいに、その人ひととつきあっているうちに、つい愛や喜び平安を与あずかえたり、与あずかえられたりして、そうこうしているうちに親切、善よ意いがより豊かになってゆき、不誠実みから解放されて誠実みになってきてしまっているか。(よい感化かんか)。

結むす局人ひとはその本性が外に現れてくる。長い年数がたつほどにはっきりと現れてくる。茨は茨を生うまんで周りの人ひとを傷つけ続ける。引ひき裂く。とげにさされて周りの人ひとが痛みを経験する。ぶどうの木きからはぶどうが実みる。

マタイ福音ふくいん書のほうでは、警告が書かれている。「良よい実みを結むすばない木きは、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」マタイ7:19

私わたしたちは自問自答こたしましょう。外見上どう見えるかではなく、本性において、神かみのみことばにかなう、まことの信仰しんこうを育そだんでいただいているかが、大事ことです。

 

45節 私わたしたちの口くちが良よい物を出だしているか、悪わるい物を出だしているか。主しゅイエスは見分みわけけられる。

口くちから出だる物によって心こころの善よし悪わるしがわかる。マタイ15:18〜20「口くちから出だるものは、心こころから出だてきます。それは人ひとをけがします。悪わるい考かんがえ、殺人ひと、姦淫、不品行おこ、盗み、偽証、ののしりは心こころから出だてくるからです。これらは人ひとを汚すものです。」

これらは単に私わたしたちが表あらわ面上やっていることをさして言いわれたのではありません。内から出だてくる物なのです。重要じゅうようなのは、その人ひと自身です。心こころの中なかにあるものは必ず外に現れます。人ひとの最も奥になるものは、実み生うま活にあらわれるのです。人ひとは結むす局思おもっているとおりになります。思おもって居る通りの事ことをおこないます。本当に自分わが何なにであり、何なにを信しんじているか、人ひとは外にあらわさずには居られないのです。だから、人ひとは自分わが本当に関心こころのあることを示しすし、何なにのために人ひと生うまをおくっているかをあらわします。

主しゅがごらんになる、人ひとの良よし悪わるしはですから、環境や地位や家柄や学まな齢で決まる訳ではないのです。その人ひとの心こころのありようできまるのです。

 

Ⅲ 新生しんせいの必要ひつよう

二つのたとえ話ばなししで教えおしられることは、生うままれつきのままだと、人ひとの本性は罪の汚れをおい罪に向かう傾向をもち、結むすぶ実みは自ずから悪わるいということです。ですから、本性を罪の人ひととして放置したままで、自分わの生うま活にキリスト教的雰囲気をつけくわえても、それで変わるわけではないのです。

ところが、主しゅイエスさまが訴えておられるように「信しんじて救すくわれる者ものらは、そのいのちにおいて、本性において、新あたらしい誕生うまを神かみから与あずかえられるのです。そのことは生うままれつきのままの罪と滅ほろびの人ひと生うまを、神かみの子ことしての誕生うまと聖めと永遠えいえんのいのちの人ひと生うまへと変える。その結むす果は、人ひとは、良よい実みを結むすぶ、良よい木きと、良よい心こころの倉くらに与あずかえられた存在へと全まったく変えられる。「クリスチャン」であるということは、キリストご自身のみかたちに似るようにと、新あたらしく生うままれ変わる事ことです。ヨハネ3:3「まことにまことにあなたがたに告げます。人ひとは新あたらしく生うままれなければ、神かみの国を見る事ことはできません。」イエス様さまは、ニコデモとの会話ばなしの中なかで新あたらしく生うままれるために、人ひとは、水と聖霊れいによって生うままれなければ神かみの国に入ることができません。と教えおしられました。

罪の汚れを聖めていただく事こと、聖霊れいのお働はたらきによって生うままれ変わること、このことにより、人ひとは、神かみの国に入る者ものと変えられる。その本性は聖霊れいによる誕生うまを得て、生うま涯、聖霊れいを宿す者ものとなる。

新あたらしく生うままれる事ことは神かみのお働はたらきかけであり、主しゅイエスによって十字架と復活の出だ来事ことにより身を以て準備されたことです。それで私わたしたちは本当にあたらしく生うままれる事ことが必要ひつようなのです。

では、どのようにして、このことは人ひと間の側で意い識されるのでしょうか。それは「あなた方かたは恵めぐみにより信仰しんこうにより救すくわれたのです。それは自分わ自身から出だた事ことではなく、神かみからの賜物です。」エペソ2:8.と教えおしられているとおり、「信仰しんこうによって」という点で、人ひと間に意い識されるのです。信しんじる事ことにより、自分わは生うままれながらには、神かみが悪わるい実みを結むすび、悪わるい物を口くちから出だすと言いわれたような存在であることを認め、悔い改め、ごめんなさいと申し上げ、自分わのために十字架に身代わりとしてかかってくださった事こと、罪の赦しを用意いしてくださったことを感謝し、同おな時に以後いたしませんと決意いする。新あたらしい従順を主しゅイエス様さまに示しす事ことにより意い識されるのです。これは本性における根本的な全まった人ひと格的変革なのです。

信しんじる信仰しんこうは人ひと間の側での活動かつどうです。信仰しんこうにおいてわたしたちが救すくいのためにイエス・キリストのみを受うけ入れて、キリストにのみより頼らいむのです。信しんじる祈いのりはその人ひとの中なかに聖霊れいが働はたらいて、新生しんせいを意い識させ始めます。

結むすび)今朝けさ、救すくい主しゅイエスを信しん頼らいして、イエスの用意いしてくださった、永遠えいえんのいのちによって生うままれ変わらせていただきましょう。まごころからキリストを受うけ入れて、まことのぶどうの木きであるキリストに結むすびついた良よい木きとして、み国を目指して地上生うま活を実みらせてゆきましょう。

コメントを投稿