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2016年1月31日 礼拝 説教(日本語文、韓国語文)詩篇39篇 音声あり

    
 
2016年1月31日 詩篇39篇 「ほがらかになれるように」

 序文)「エドトン」は「エタン」が改名したものと思われる。ダビデが公式の礼拝を導く者として任命した楽長の一人と考えられている。歴代誌中にエドトンという名で何回も出て来る(Ⅰ歴15:17,16:41,25:1,Ⅱ歴5:12,35:15)。また詩篇の表題としては62,77篇に見られる。この詩篇は、なぜ神は人間のような、もろくつかのまの被造物を、ここまで熱心に関わっておられるかと、激しく問うている。その上で、神への忠誠と従順な信仰、信頼と祈りが人生のむなしさを支えてくれるという知恵を教えている。人の前で舌を制することが出来るのは,神との豊かな交わりが背後にあるからである
 この詩篇は詩篇38:13 -14「しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう。口を開かないおしのよう。まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです。」と関連している。抑圧(1節)と告白(3節)が主題になっている。
 人生の正しい理想、強烈で屈辱的な経験、鋭い反省、内省の期、苦悩の軽減についての絶望、これらの事情は、すべてヨブ(ヨブ記)の場合に等しい。ヨブ7:16後半〜17節「私にかまわないでください。私の日々はむなしいものです。人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは。」この詩篇はヨブ記との類似点が他にも多い。

0 指揮者エドトンのために。ダビデの賛歌

Ⅰ 1-3節 抑圧

1 私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。悪者が私の前にいる間は。2 私はひたすら沈黙を守った。よいことにさえ、黙っていた。それで私の痛みは激しくなった。3 私の心は私のうちで熱くなり、私がうめく間に、火は燃え上がった。そこで私は自分の舌で、こう言った。

 1節。「私は言った」とは沈黙を守ろうとする決意の表現である。ダビデは言葉と思いと行いにおいて罪を犯すことがないように注意しようとしている。特に「舌で罪を犯さない」とは,悪者の繁栄や行動が怒りを誘発させるので,つぶやきや不満の言葉を発しないように注意したいという願いである。相応しくない人々がいる中で、ダビデが高ぶっている感情を爆発させて、ぶちまけたら、それが神への背信行為ととられる恐れがあり、神を否定する者たちに隙を見せて攻め込まれるおそれがあった。「舌は火であり,不義の世界です」(ヤコ3:6)主イエス・キリストのきよい、良き御名を口でけがさないために、自制している。

 2節。〈よいことにさえ,黙っていた〉とは異常な状況である。それほどダビデは自己弁護や弁解を控えなければならない状態であったと思われる。

 3節。〈熱くなり〉〈燃え上がった〉とは沈黙から来る感情的・精神的な苦痛を抑えられない様子。ダビデはついに口を開く。ダビデのこのような感情の抑圧は、心理的な爆発を呼び起こした。感情が意志の抑圧をぶちやぶった。彼はもう自分を制することができなかった。しかしそれは神に向けられたものである。

Ⅱ 4-6節 爆発

 4節 主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。

 5節 ご覧ください。あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。セラ

 6節まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。
 4節以降でダビデは自分も含めて人生のはかないことを確認し,悪人の繁栄をねたむことの愚かさを述べて,主に従う者とされることを願う。
5節。〈手幅〉とは指4本の幅で,わずかなことを表す。〈まことに〉が繰り返されている。6節。〈幻のように〉〈むなしく〉とは共に不確かなこと,霧や息のようにたちまち消えてしまう存在を表す。
 ヨブとの違いは、ヨブは、自分を非常に苦しい状況に突き落としたといって神様に抗議している。この詩人は、人のいのちのはかなさ、非常に短く、全くなきに等しいとの自分の信念を神様が確認してくださいと要求している。もし彼がこのことを確信したら、人の栄枯盛衰などは消滅してしまう。人の短い一生など、神様の永遠不変に比べたらとるに足りない。不安と努力によって得た財産も、やがては他人の手に渡って悪用に供されてしまう。「私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のためにのこさなければならないからである。後継者が知恵のある者は愚か者かだれにわかろう。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を遣ってしたすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまたむなしい」(伝道者の書2:18-19)。
 人生のむなしいということがここで強調されている。これらのことばは、「伝道者の書」
のカギの言葉と成り受け継がれている。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに苦労しても、それが人に何の益になろう」(伝道者の書1:1-3)。

Ⅲ 7-11節 思いなおし

 7節 主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。8 私のすべてのそむきの罪から私を助け出してください。私を愚か者のそしりとしないでください。9 私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです。10 どうか、あなたのむちを私から取り除いてください。あなたの手に打たれて、私は衰え果てました。11 あなたは、不義を責めて人を懲らしめ、その人の望むものを、しみが食うように、なくしてしまわれます。まことに、人はみな、むなしいものです。セラ
7節。「主よ。今,私は」。人生のはかなさを確認したダビデは人生の目的・希望が永遠の主に信頼して従う以外にないことを告白する

8節。「そむきの罪」とは主から離れる不信仰な思いや行いのこと

9節。「私は黙し」とはあざける者の仲間にならず,彼らの計画に陥らないように舌を制するという決意の表明(1:1)。「あなたが,そうなさった」とは舌を制することが主の御心であり指示であるということか

10‐11節は神の正しいさばきを信じて悪人の仲間に加わらない生活を続けようとする者の祈りである。神を畏れることが人の前で口を開かないことを可能にさせる。ここにもう一度「むなしい」が繰り返されて,人のむなしさが強調され,主に頼る歩みを願う思いが述べられる。ダビデは悩んでいる。神が、罪をおかす人間は弱く傷つきやすいものであるのに、厳しく取り扱われるからである。ダビデは自分の経験を超えて事柄を観ている。これらは主から来る訓練である。この人生の難しさは、ただただ主が厳しくとりあつかうためにだけるのではない。
 
 Ⅳ 12-13節 祈り

 12節。 私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。

 13節。 私を見つめないでください。私が去って、いなくなる前に、私がほがらかになれるように。
 12‐13節は「祈り」「叫び」「涙」「旅人」「寄留の者」という表現によって地上の旅路で神にすべてをゆだね,訴え,求める信仰者の姿が記される。人の前の沈黙は神の前では激しい叫び,涙となる。「旅人」「寄留の者」とは神の国を目指す信仰者の希望の表明であるが,同時に地上の生活において「私の罪に目を留めず」「私がほがらかになれるように」扱って下さいと祈るのが信仰者の祈りでもある。言葉は少なくとも,明るい笑顔と心で人生を全う出来ることを寄留の者としての信仰者は願う。言葉数が多くて,不平とつぶやきとあざけりや悪口に満ちた人生は惨めである。
 
Ⅴ 私たち新約の民が教えられていることがらは?

 ダビデがこのように悩みながら問いかけている、神の厳しい取り扱いについて、新約聖書では、ヘブル人への手紙12章5〜11で、全く別の観点から、これを説明しています 
 まず12:5-11を読みましょう。
 此処で著者は、神様が信仰者に与えられる苦難の意味を、「神の愛の訓練」という点から説明しようとしています。なぜ、神はクリスチャンたちに、このような苦難を与えられるのか。時として人間的にまったく理解できないような戦いの中に信仰者である故に遭遇するのは、なぜなのか? 

 1 神は、御子イエスさまによって、一人一人を罪と怒りの子から、神の子に養子して下さいました。「イエスを受け入れた者、すなわちその名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネ1:12)。「わたしたちが神の子と呼ばれるために、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、良く考えてみなさい。私たちはすでに神の子なのである」(第一ヨハネ3:1)。神の子として、神は私たちを取り扱っておられます。神の家族の名の中に記入され、神の御霊を与えられ、父としての保護と配慮のもとに置いておられます。神の子としての特権と自由をことごとく許され、すべての約束を受け継ぐ者であり、栄光の中にキリストと共同の相続人とされています。そのために神様はこの地上生涯を一人一人に御國の民にふさわしく聖くされ、義とされるように送らせておられます。
 へブル人への手紙の著者は、此処で、箴言3:11〜12を引用しています。一人身であっても家族であっても、それぞれの立場で神の子として与えられる訓練があるというのです。訓練を父が子に対して真実の愛を持って行っているものだと受け入れる知恵の心を持たなければならない。訓練を受け入れないものに価値はない。父は絶えず子を訓練します。子供の好きなようにさせ、楽なようにさせてやるのが、現代の共通した、風潮のようでありますが、そのような父親は本当に子供を愛しているといえるでしょうか。子供を笑わせてばかりいる父親は、子供が大きくなってから泣くことになる事を知るべきでしょう。子供が成熟した大人になるためには、苦しいと思う訓練もするでしょう。それでも父親の独善的な、時としては感情的な怒りで子供に対してしまうことでしょう。しかし私たちが肉の父親の訓練を受けるのなら、ましてや霊の父の真実な愛の訓練を受けるはずでしょう。

 2 父なる神があなたにとって現段階で最善と思われる訓練を与えられるのです。何が最善かは、父が知っておられます。あなたが最善と思う方法ではないかも知れません。しかし全知の神様が、最善とお考えの方法です。それ故に時に辛く、悲しく厳しい人生の苦難は、その一人一人を傷つけるためにあるのではなく、最善をもたらすためにあるのです。
 神が雨をふらせたまわなければ、晴れた日の美しい花は決して咲かすことはありません。おいしいパンが出来るためには必ず小麦は砕かれて粉にならなければなりません。愛、喜び、平和の花は何事もしない日々にも時には咲くことがあるでしょう。しかし、忍耐、柔和、寛容、自制の花は厳しく訓練を受けた者にしか咲かせる事は出来ません。神様は、神の子とした一人一人に御霊を宿らせて、その豊かな実を結ばせようとしておられますので、訓練は不可避です。最も深く教えられたクリスチャンは、多くは霊魂の苦悩となる試みの火に投じられた人たちです。もしあなたがさらに深くいのちの主イエスを知り、愛の主を知りたいと願っているなら、神があなたを寂しいところに、また苦難の炉に導かれる事を驚いてはなりません。かくして、わたしたちは神のみ前に立つ聖さを身に受けます。良心の聖さはイエス様のいけにえの血潮によっていただきました。この聖さは多くの苦しみの炉をくぐることによって受ける聖さです。高炉が鉱石から、あらゆる不純物を取り除き、純粋の金をもたらすように。訓練を通して私たちは身も心も不純物を取りのけられゴールに達したとき完全な神の前に立つ聖さをうけるのです。確かに訓練により不明瞭な信仰は明瞭になりなります。苦難は人間の性格をゆがめ、その心を曇らせるように見えます。しかしついにはその性質の輪郭を完全にし、生涯に輝きと祝福をもたらします。11節「全ての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しみ思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ませます。」訓練の後に神様がどのようなことをなさるのかを考えることです。その時に苦難を正しく克服することができ、将来に一千倍の富を得るのです。

 3 こうして神の訓練を受ける人は完成されるのです。あなたは今まで信仰の苦難にどのように対処してきたでしょうか。ある人はあきらめて訓練を受けました。この世で起こっている事は神のみこころなのだから、それを受ける以外に道はなく、それ以外のことをするのは不可能だと、これは確かに訓練を受け入れる道かも知れません。しかしそれは父なる神の愛を受け入れるのではなく、ただ力を受け入れることではないでしょうか。喜んで受け入れるのではなく、いやいやながら敗北しつつ受け入れるのです。
 また、ある人は受けなければならない訓練なら張るべく早く受けて、難を逃れた方がよいと考えました。身にふりかかる苦難を歯をくいしばって耐えて行こうとするのです。訓練に対する感謝などはまったくないのです。またある人は自分を哀れみついに倒れ伏してしまいました。困難に遭って自分一人が世界中で一番苦しく、悲しい目に遭わされていると考えて、自分を哀れんでいる人がいます。こういう人は愛する人と死別したときでも、死んだ人のために悲しみよりも、失った自分のために悲しむのです。さらに他の人は訓練を神のさばきと見なして怒る人がいます。神は自分に復讐をしているというわけです。自分自身が愛している人に何か苦難が起こると「なぜ神は、このような目に遭わせるのだろう」というのです。すなわち、神は不正な罰をくだしていると言いたいのです。このような人たちは「神は私に何を教えようとしておられるのか、神は私をどのように造り替えようとし、この経験を通して私をどのように用いようとされるのだろうか、と考えることは思いも及ばないのです。
 あなたは、ほんとうにそのように考えられるだろうかと、心の中で反問しておられますね。たとえ考えられても、そのようなふうには生きてゆけるだろうかと疑問を持っておられるでしょう。
 わたしは多くの実例を知っています。その中には45年近くも祈りと戦いを共に与えられたクリスチャンもいます。「神様、あなたはこのことにより、私に何を教えようとしておられるのですか?」と本当に祈りそのように歩んだのです。いままで、わたしたちが信仰による苦難を、これらの人々のような態度で受け止めてきたのでないなら、今日からは、神の愛の訓練をとして、それらに対処するようにしましょう。神が人に与えうる最大の罰は、その人に関して見放してしまうことです。神が沈黙を守られることです。すなわちもはや教え、正し、目を開かせる見込みがない全くないものと見なしてしまうことです。これに対して、まことの神の子たちは、神から訓練があることを喜びます。その天の父が不必要に子供を悲しませないことを知っています。自分が神の愛の訓練にあづかれる者であるという事実を発見して、喜びます。わたしたちのため益を計ってくださるお方を知っているのです。自分を哀れむ事が止み、神の子として取り扱われている事を喜びます。怒ることを止めて、この後に来る実りを忍耐して待ちます。反逆、不平、不満は消えて、感謝の内にゴールに向かいます。

結び:天の父は、わたしたちが「ほがらかになれるように」取り扱っておられるのです。感謝します。

2016년 1월 31일 시편39편 「회복되도록」

서문)「여두둔」은 「여탄」이 개명된 것으로 추측할 수 있습니다. 공식 예배를 인도하는 자로 다윗이 임명한 악장중의 한명이라고 생각됩니다. 역대지 중에 여두둔이라는 이름이 몇번 나오고 있습니다. (역대상15:17, 16:41,25:1, 역대하5:12, 35:15) 또한 시편의 표제 중 62,77편에도 나오고 있습니다. 이 시편은 어째서 하나님은 피조물 인간에게 이토록 열심히 관계를 맺으시는가 라고 격렬하게 묻고 있습니다. 그런 후에, 하나님에 대한 충성과 순종적인 믿음, 신뢰와 기도가 인생의 허무함을 지탱해 주고 있다는 지혜를 가르치고 있습니다. 사람앞에서 혀를 제압할 수 있는 것은 하나님과의 풍성한 교제가 배경으로 있기 때문입니다.
 이 시편은 시편38:13-14 「나는 귀먹은 자같이 듣지 아니하고 벙어리 같이 입을 열지 아니하오니 나는 듣지 못하는 자 같아서 입에는 변박함이 없나이다」와 관련되고 있습니다. 제압(1절)과 고백(3절)이 주제입니다.
 인생의 올바른 이상, 강렬하게 굴욕적인 경험, 날카로운 반성, 내성의 반성의 기한, 고난으로 경멸받는 것에 대한 절망, 이것들의 사정은 모두 욥(욥기)와 같은 것입니다. 욥기7:16후반∼17절 「나를 놓으소서 내 날은 헛것이니이다 사람이 무엇이관대 주께서 크게 여기사 그에게 마음을 두시고」 이 시편은 다른 점에서도 욥기와 비슷한 점이 많습니다.

다윗의 시, 영장, 여두둔으로 한 노래
Ⅰ 1-3절 제압
1내가 말하기를 나의 행위를 조심하여 내 혀로 범죄치 아니하리니 악인이 내 앞에 있을 때에 내가 내 입에 자갈을 먹이리라 하였도다 2내가 잠잠하여 선한 말도 발하지 아니하니 나의 근심이 더 심하도다 3내 마음이 내 속에서 뜨거워서 묵상할 때에 화가 발하니 나의 혀로 말하기를
 1절 「내가 말하기를」이란 침묵을 지키려는 의지가 표현되고 있습니다. 다윗은 말과 생각에 있어서 범죄하지 않도록 주의하려 합니다. 특히 「혀로 범죄치 아니하리니」란, 악한 자의 번영이나 행동은 화를 내게 되므로, 불평이나 불만의 말을 하지 않도록 주의하고 싶다는 바램입니다. 적합하지 않는 자들에게 다윗이 고조된 감정을 터뜨려 쏟아 붓는 것은 하나님에 대한 배신행위로 여겨질수 있으며, 하나님을 부정하는 자들에게 허점을 보여 공격당하게 될 위험이 있었습니다. 「혀는 곧 불이요 불의의 세계라」 (야고보서3:6) 주 예수 그리스도의 정결하고, 선한 이름을 입으로 더럽히지 않도록 제압하고 있는 것입니다.
2절 <선한 말도 발하지 아니하니>란 정상이 아닌 상태입니다. 그만큼 다윗은 자기변명이나 변호를 하지 않으려는 상태였음을 알 수 있습니다.
3절<뜨거워서> <화가 발하니>란 침묵때문에 생긴 감정적∙정신적 고통을 억누르고 있는 모습입니다. 다윗은 결국 입을 엽니다. 다윗의 이런 감정의 제압은 심리적인 폭발을 일으킵니다. 억제하던 감정은 의지를 깨버립니다. 그는 더이상 자신을 억제 할 수 없게 되었습니다. 그러나 그것은 하나님을 향한 것이었습니다.

Ⅱ 4-6절 폭발
4 여호와여 나의 종말과 연한의 어떠함을 알게 하사 나로 나의 연약함을 알게 하소서
5 주께서 나의 날을 손 넓이만큼 되게 하시매 나의 일생이 주의 앞에는 없는 것 같사오니 사람마다 그 든든히 선 때도 진실로 허사뿐이니이다(셀라)
6 진실로 각 사람은 그림자같이 다니고 헛된 일에 분요하며 재물을 쌓으나 누가 취할는지 알지 못하나이다
 4절 이후에 다윗은 자신을 포함해 인생의 덧없음을 깨닫고, 악한자의 번영을 시기하는 것에대한 어리석음을 말하고, 여호와께 순종하는 자가 될 것을 바라고 있습니다.
5절 <손 넓이>란 손가락 4개의 폭으로써, 아주 적은 것을 나타냅니다. <진실로>가 반복되고 있습니다. 6절 <그림자처럼> <헛된>이란 불확실한 것, 안개나 숨처럼 순식간에 사라지는 존재를 나타냅니다.
 욥과 다른점은, 욥은 자신이 심한 고통에 빠진 것을 하나님께 항의했습니다. 그러나 이곳의 시인은 사람의 생명이 덧없음, 대단히 짧은것, 보잘것 없는 것이라는 신념을 하나님께서 확인해 주시도록 요구하고 있습니다. 만일 그가 이것을 확신하면, 사람의 영고성쇠란 소멸하게 되버립니다. 사람의 짧은 인생은 하나님의 영원불변함에 비교조차도 할 수 없는 것입니다. 불안과 노력으로 얻게된 재산도 얼마안가서 타인의 손에 들어가고 악용되어 버리는 것입니다. 「내가 해 아래서 나의 수고한 모든 수고를 한하였노니 이는 내 뒤를 이을 자에게 끼치게 됨이라 그 사람이 지혜자일찌 우매자일찌야 누가 알랴마는 내가 해 아래서 내 지혜를 나타내어 수고한 모든 결과를 저가 다 관리하리니 이것도 헛되도다」 (전도서2:18-19)
 인생의 헛됨이 이곳에 강조되고 있습니다. 이것들은 「전도서」의 열쇠가 되는 말씀으로 계승되고 있습니다. 「전도자가 가로되 헛되고 헛되며 헛되고 헛되니 모든 것이 헛되도다 사람이 해 아래서 수고하는 모든 수고가 자기에게 무엇이 유익한고」 (전도서1:1-3)

Ⅲ 7-11절 돌이켜 생각함
7주여 내가 무엇을 바라리요 나의 소망은 주께 있나이다 8나를 모든 죄과에서 건지시며 우매한 자에게 욕을 보지 않게 하소서 9내가 잠잠하고 입을 열지 아니하옴은 주께서 이를 행하신 연고니이다 10주의 징책을 나에게서 옮기소서 주의 손이 치심으로 내가 쇠망하였나이다 11주께서 죄악을 견책하사 사람을 징계하실 때에 그 영화를 좀먹음 같이 소멸하게 하시니 참으로 각 사람은 허사뿐이니이다(셀라)
7절 「주여 내가」 인생의 덧없음을 확인한 다윗은 인생의 목적∙소망은 영원하신 하나님을 신뢰하고 순종하는 것이외에 없음을 고백합니다.
8절 「죄과」란 하나님으로부터 떠나는 불신앙의 생각이나 행위.
9절 「내가 잠잠하고」란 비웃는 자들과 한패가 되지않고, 그들의 계획에 빠지지 않도록 혀를 제어하겠다는 결의의 표명(1:1) 「주께서 이를 행하신」이란 혀를 제어하는 것이 하나님의 뜻이며 지시라고 말하고 있다.
10-11절은 하나님의 정의로운 심판을 믿고, 악한자들과 한패되지 않으려는 자의 기도입니다. 하나님을 두려워하는 것이 사람앞에 입을 열지않는 것을 가능하게 합니다. 이곳에 한번 더 「허사하다」가 나오고 있으며, 인생의 덧없음이 강조되어, 하나님을 신뢰하며 살아가려는 소망이 그려지고 있습니다. 다윗은 고민하고 있습니다. 범죄한 인간은 연약하여 상처받기 쉬운 존재임에도 불구하고 하나님께서 엄하게 대하시기 때문입니다. 다윗은 자신의 경험을 초월해 주변을 보고 있습니다. 이것들은 하나님께로부터 오는 시련입니다. 이 인생의 고난은 단순히 하나님께서 엄하게 다루시려는 것만은 아닙니다.
 
 Ⅳ 12-13절 기도
12여호와여 나의 기도를 들으시며 나의 부르짖음에 귀를 기울이소서 내가 눈물 흘릴 때에 잠잠하지 마옵소서 대저 나는 주께 객이 되고 거류자가 됨이 나의 모든 열조 같으니이다
13주는 나를 용서하사 내가 떠나 없어지기 전에 나의 건강을 회복시키소서
 12-13절은 「기도」「부르짖음」「눈물」「객」「거류자」라는 표현으로 지상의 여로를 하나님께 모두 맡기고, 호소하며, 구하는 믿는자의 모습을 기록하고 있습니다. 사람앞에 침묵하는 것은 하나님앞에 부르짖고 눈물흘리는 것이 됩니다. 「객」「거류자」란 하나님나라를 향하는 믿는자의 소망을 나타내고 있지만, 동시에 지상생활에 있어서 「나의 죄를 살피지 아니하시나이다」 「나의 건강을 회복시키소서」라고 기도하는 것이 믿는자의 기도이기도 합니다. 말수는 적지만 맑은 웃음과 마음으로 인생을 마칠 것을 거류자로써의 믿는자는 기도합니다. 말수는 많지만 불평불만과 비웃음, 악담에 가득찬 인생은 비참한 것입니다.
 
Ⅴ 우리들 신약의 백성이 배워야 할 점은?
 다윗이 이렇게 고민하며 묻고 있는, 하나님의 엄하신 처벌에대하여 신약성경 히브리서 12장 5-11절은 전혀 다른 관점으로 설명하고 있습니다. 
 먼저 12:5-11을 읽겠습니다.
 이곳에서 저자는 하나님께서 믿는자들에게 주신 고난의 의미를 「하나님의 사랑의 훈련」이라고 설명하고 있습니다. 어째서 하나님은 크리스챤에게 이러한 고난을 주시는가? 때로는 인간의 생각으로는 전혀 이해할 수 없는 싸움중에 믿는자를 두시는가?
 1 하나님은 아들 예수님을 통해 한사람한사람을 죄와 노여움의 자녀로부터 하나님의 자녀로 양자삼아 주셨습니다. 「영접하는 자 곧 그 이름을 믿는 자들에게는 하나님의 자녀가 되는 권세를 주셨으니」 (요한복음1:12) 「보라 하나님께서 어떠한 사랑을 우리에게 주사 하나님의 자녀라 일컬음을 얻게 하셨는고, 우리가 그러하도다 그러므로 세상이 우리를 알지 못함은 그를 알지 못함이니라」 (요한일서3:1) 하나님은 우리를 하나님의 자녀로써 대해주십니다. 하나님의 가족의 이름중에 기록해 주시고, 성령을 주시고, 아버지로써 보호와 배려 해주십니다. 하나님의 자녀로써의 특권과 자유를 모두 받아, 모든 약속을 이어받는 자가 되어, 영광속에 그리스도와 함께 상속자가 되었습니다. 그러기 위해 하나님은 우리들이 이 지상에서 한사람한사람이 하나님나라에 어울리도록 성결케, 의롭게 되도록 하십니다.
 히브리서의 저자는 이곳에서 잠언3;11-12를 인용하고 있습니다. 한사람으로써, 가족으로써, 각각의 처지에서 하나님의 자녀로써 받게되는 시련이 있다는 것입니다. 아버지가 진실한 사랑으로 자녀에게 시련주는 것을 받아들일 수 있는 지혜의 마음을 갖지않으면 안될 것입니다. 시련을 받지않는 것에 가치는 없습니다. 아버지는 끊임없이 자녀를 훈련시킵니다. 자녀가 좋아하는대로 편하게 해주는 것이 현대의 풍조이지만, 이러한 아버지는 진실로 자녀를 사랑하고 있다고 할 수 있을까요? 자녀를 편하게만 해주는 아버지는, 자녀가 성장해서 울게된다는 것을 기억해야 할 것입니다. 자녀가 성숙한 어른이 되기위해서는 힘든 훈련도 있을 것입니다. 그렇지만 아버지의 독선적인, 때로는 감정적인 노여움으로 자녀를 대하기도 할 것입니다. 그럼에도 우리는 육신의 아버지의 훈련을 받는다면, 더욱이 영의 아버지의 진실한 사랑의 훈련을 받아야 할 것입니다.
 
2 아버지 하나님께서는 지금의 당신에게 최선의 훈련을 주고 계십니다. 무엇이 최선인가는 아버지께서 알고 계십니다. 여러분이 최선이라 생각하는 방법이 아닐지도 모릅니다. 그러나 전지전능하신 하나님께서 최선이라 생각하시는 방법입니다. 때로는 괴롭고, 슬프고, 힘든 인생의 고난이 한사람한사람을 상처주기위한 것이 아니라 최선을 얻게하기 위한 것입니다.
 하나님께서 비를 내리지 않으시면, 맑은 날 아름다운 꽃은 결코 피지 않을 것입니다. 맛있는 빵이 만들어지기 위해서는 밀이 가루가 되지 않으면 안됩니다. 사랑, 기쁨, 평화의 꽃이 아무문제도 없는 날에도 필 때가 있습니다. 그러나 인내, 온유, 관용, 자제의 꽃은 엄한 시련을 받는 자들만이 피울수 있는 것입니다. 하나님은 하나님의 자녀로써 한사람한사람에게 성령을 주시고 그 풍요로운 열매를 맺게하려 하시므로, 시련은 불가결한 것입니다. 가장 깊게 깨닫게 된 크리스챤은 영혼의 고난이 되는 시험의 불속에 던져진 자들입니다. 만일 당신이 더욱 깊이 생명의 주 예수님을 깨닫고, 사랑의 주를 알고싶어 한다면, 하나님께서 당신을 외로운 곳에, 또한 고난의 화로속에 던져지는 것을 놀라서는 안됩니다. 이렇게 해서 우리는 하나님앞에 서서 정결함을 받게 됩니다. 양심의 정결함은 주 예수님의 대속의 피로 받게 되었습니다. 이 성결함은 많은 고난의 화로를 통과하는 것으로 받게되는 정결함입니다. 용광로가 광석에서 여러 불순물을 걸러내 순결한 금을 골라내는 것처럼,. 시련을 통해 우리는 몸도 마음도 불순물을 걸러내 골인점에 도착할 때 완전한 하나님앞에 서는 성결함을 받는 것입니다. 훈련을 통해 불명료한 신앙이 명료하게 되는 것은 틀림없습니다. 고난은 인간의 성격을 굽게하고, 그 마음을 어둡게하는 것처럼 보입니다. 그러나 마지막에는 그 윤곽을 완전하게 하고, 생애를 빛나게 하는 축복을 가져옵니다. 11절「무릇 징계가 당시에는 즐거워 보이지 않고 슬퍼 보이나 후에 그로 말미암아 연달한 자에게는 의의 평강한 열매를 맺나니」 훈련뒤에 하나님께서 어떤 일을 하실지 생각하는 것입니다. 그때에 고난을 바르게 극복할 수 있고, 장래에 일천배의 복을 얻게되는 것입니다.
 3 이렇게해서 하나님의 훈련을 받은 자는 완성되는 것입니다. 여러분은 지금까지 믿음의 고난에 어떻게 대처해 왔습니까? 어떤사람은 포기하고 훈련을 받았습니다. 이 세상에 일어나고 있는 일은 하나님의 뜻이므로, 그것을 받는것 이외에 방법은 없으며, 그 이외의 일을 하는 것은 불가능하다고, 아마도 이것은 시련을 받는 길일지 모릅니다. 그러나 이것은 아버지 하나님의 사랑을 받아들이는 것이 아니라, 그저 힘을 받는 것이 아닐까요? 기쁨으로 받는 것이 아니라, 마지못해 할 수 없이 받는 것입니다.
 또한 어떤 사람은, 받지않으면 안될 시련이라면 빨리 받아서 재난을 피하는 것이 좋다고 생각합니다. 신변에 닥치는 고난은 이를 악물고 참아가려 하는 것입니다. 훈련이 대한 감사는 전혀 보이지 않습니다. 또한 어떤 사람은 자신의 불쌍함에 쓰러지고 맙니다. 고난을 당한 자신이 세상에서 가장 힘들고 슬픈처지에 빠졌다고 생각하고, 자신을 불쌍하게 생각하는 사람이 있습니다. 이런 사람은 사랑하는 사람과 사별했을 때에도 죽은 사람을 위해 우는 것보다, 자신을 위해 슬퍼하는 사람입니다. 더욱이 다른사람은 훈련을 하나님의 심판이라 여기고 화를 내는 사람이 있습니다. 하나님은 자신에게 복수를 하고있다고 생각하는 것입니다. 자신이 사랑하는 사람에게 무언가 고난이 생기면 「어째서 하나님은 이런 어려움에 빠드리시는가?」라고 하는 것입니다. 즉, 하나님이 부당한 벌을 주신다고 말하고 싶은 것입니다. 이러한 사람들은 「하나님은 나에게 무엇을 가르치시려 하시는가? 하나님은 나를 어떻게 새롭게 만드시려하시고, 이 경험을 통해 나를 어떻게 쓰시려 하시는가?」라고 생각하는데까지 미치지 못하는 것입니다.
 당신은 정말로 그렇게 생각할 것인가? 라고 마음속에 반문할 것입니다. 만일 생각할수 있더라도, 그렇게 살 수 있을지 의문을 가질지도 모릅니다.
 저는 많은 실례를 알고 있습니다. 그중에서, 45년 가까이 기도와 싸움을 함께 받은 크리스챤도 있습니다. 「하나님, 당신은 이일을 통해 저에게 무엇을 가르치시려 하십니까?」라고 진실로 기도하고 그렇게 살아온 것입니다. 지금까지, 우리들이 믿음으로 고난을, 이 사람들과 같은 태도로 받아들이며 살지 못했다면, 오늘부터는 하나님의 사랑의 훈련으로써 그것들에 대처하도록 합시다. 하나님이 인간에게 내리신 최대의 벌은 그 사람을 내버려 두시는 것입니다. 하나님께서 침묵하시는 것입니다. 즉, 더이상 가르치고, 올바르게 하고, 눈이 열리게 될 기대가 전혀 보이지 않는다는 것입니다. 이것에 대해 진실한 하나님의 자녀들은 하나님의 훈련이 있는것을 기뻐합니다. 그 하늘 아버지께서 불필요하게 자녀들을 슬퍼하게 하실리가 없음을 알고 있습니다. 자신이 하나님의 사랑의 훈련을 받고 있는 자라는 사실을 발견하고, 기뻐합니다. 우리들을 위해 선으로 바꾸어주실 분을 알고 있는 것입니다. 자신을 불쌍하게 여기는 것을 그만두고, 하나님의 자녀로써 취급받는 것을 기뻐합니다. 화내는 것을 그만두고, 나중에 오게 될 열매를 인내로써 기다립니다. 반역, 불평, 불만은 사라지고, 감사속에 종착점을 향합니다.

맺음: 하늘 아버지께서는 우리들이 「회복되도록」 만들어주고 계시는 것입니다. 감사드립니다.

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