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2016年7月17 礼拝 説教(日本語文)エペソ2章7-10節 音声あり

 

2016年7月17日  「神の作品」エペソ人への手紙 2章 7〜10節

序文)わたしたちの以前の姿と、今の恵みの状態を考えるとき、そこには、ただ、神の大きな愛ゆえの恵みのみが強く思われる。今や、キリストとともに生かされ、よみがえらせられ、天のところに座らせてくださっているのです。

 

Ⅰ 7節  それは、実は、大きな目的が神にあったからなのです。

神のこの絶大な恵みが全世界・全世代に「わたしたちを通して」明示されるためでした。欠けだらけの、こんな私たちを通してである。このような者であればこそ、神の恵みの大きさが、より輝くのです。神の恵みを表すためという使命を覚えるとき、いつまでもこのような私と言っていてはならない。芋虫のようなものでも、さなぎから蝶になるのです。それは天に舞うことができる者なのです。進歩、発展、恵みによる成長が必要なのです。「神が驚くべき愛の記憶をあらゆる時代に与えようとされた」(カルヴィン)。単なる私たちの利益、幸福追求のためではなく、神の恵みを示すため。ここに厳粛なキリストの目的がある。

私たちがこのすぐれて豊かな恵みを示すのは、あとに来る世々においてである。キリストが再び来臨したもう迄の期間だけではなく、永久にたたえなければならない。

ここでパウロは5節に思わず入れてしまった「恵みによる救い」をはっきりと宣明しました。神の自由な自発的な行為によってのみ、私たちは救われた。この神の恵みは信仰という管を通して、私たちに与えられた。神の側からの恵みが、人間の信仰によって受け取られる。そして、この信仰もまた、神からの賜物である。信仰は、わざ(works)ではない。ただ受け取るべき行為(act)なのである。人がこれまで頼ってきた方法を全く退けている。自分からは何も出ない。自分に救いの原因は無い。唯一の原因は神にだけある。私たちが、この世で得たもの,知識も力も財産も地位も一切のものも、自分の救い、神へと導くことはない。ただひとえに神の賜物として与えられるだけであります。

8〜9節は、パウロがローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙で書き記したことの全体的要約である。神のあわれみによる義、それが福音によってキリストにあって差し出されている。いかなる行為功績にもよらず、ただ信仰によってである。

人間は、自分で得たものでないものでも誇る。生まれつき頭が良い、美しい、健康だ、親の財産をいっぱい持っている、など、ましてや、自分でえたものはもっとほこるのです。しかし、救いは誰も誇ることはできない。なぜなら、私たちは皆「死んでいた」のですから。人間の功名心は一切はぎ取られている。神の栄光以外に人間の功績が何か少しでも評価されることは一切無い。ただ誇るならば、主を誇れ。第一コリント1:26〜31.

 

 

 

Ⅱ  神の作品 エペソ2:10

「私たちは神の作品であって良い行いをするためにキリスト・イエスに会って造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

1 私たちは神の作品なのです。人間の作品は、自分の思うようにいかなければ,また、造り直すことができます。でも、もし、自分の作品がまさに血のにじむような努力とたましいを注ぎだしたように完成し、その出来映えが素晴らしければ、誰でも、とこしえにあれかしと願うでしょう。

私たちは神の子イエス・キリストのいのちをもって新しく造られた作品です。以前の私たちは神の創造の美しさを台無しにしてしまったような存在で、2:1〜3にあるような存在となってしまっていました。神の前に失われ死んでいたのでした。しかし、今は存在のありようが違うのです。5〜6節なのです。新しく造られた、新しい装いを受けた。コロサイ3:10「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」

神は、このご自分の作品を、それこそ永遠に保ってくださるのです。良い行いは、新しいわたしたちとされたので、生じるのです。存在と行いの関係のゆえにです。このために私たちは新しく造られたのです。良い行いとは、4:1では「召された召しにふさわしく歩むこと」といわれており、一人一人に召された目的が神様にはあって、その良い行いもあらかじめ定めてくださっているのです。

 

2 神は私たちがあらかじめ備えてくださった良い行いをするために、それを知らせようとされます。神の永遠のご計画は、救われた一人一人によって実行に移され実現して行くのです

—聖書の中に、神がご計画を知らせるためにアダムやアブラハムやイサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセたち、聖徒にたいして、彼らが歩むべき将来をお知らせになり、そのように歩むことを求められました。預言者たちは神の最終のご計画を知らせることが仕事で、神の子たちはそれによって歩みを正したのです。イエス・キリスト様は、はっきりとご自分の将来を知って達成するために積極的に進まれました。

—では 私たちには神は知らせられないでしょうか?どのような良い行いをしてほしいか?しかも、いつしてほしいか?

—永遠の神はすべてを知っておられます。全知全能の神です。私たちは時間の中に生きていますから、神は私たちの人生という時間の中で教えられるのです。時間の中で気付くようにされるのです。主イエス様は御霊が神の御心を知らせてくださると語られました。だから神が私たちのためにあらかじめ備えられた良い行いについて知る道があるのです。

聖書に登場する信仰の勇者たち、指導者たちで、神の定められた良い行いを全うした人々がいます。彼らはどのようにしてできたのでしょうか。

3—ヘブル13:7-8に奨励があります。「神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思いだしなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」彼らのことを思いだし、生活の結末をよくみて、その信仰にならうようにと。彼らはその使命を全うしたのです。特に神の言葉を語ったと言われています。彼らは自分たちに知らされた神の言葉を語ることが使命でした。それが彼らのするべき良い行いでした。彼らはその良い行いをしたのです。更に信仰の勇者たち、指導者たちのみことばの教えばかりでなく、その生活と死において示された信仰者の姿勢を見習う必要があるのです。主のためにどのように生き、どのように死ぬかを彼らは示しました。信仰を最後まで守り通した、その生き方を見習いなさい。

—神の良い行いのうちに、終わりを全うした信仰生活を見習いなさい。真の意味で指導者は主イエス・キリストご自身です。永遠にいまして、変わりなく大祭司のわざを実行しておられるのです。なぜならイエス・キリストは、きのうも、今日もいつまでも同じだからです。彼らの中に働かれた主イエスは今日も変わりなく、あなたの中に働かれるのです。神があなたを通して、なにかすばらしい良い行いをさせてくださるのです。そのことを知るためにみことばを読み聞き従うことが求められています。

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Ⅲ では、彼らはどのように神に聞いたのでしょうか?

1 聖書から分かる三つのことがあります。

— イ 時間を割いて神に聞こうとすること。神の臨在の中にとどまることです。個人的礼拝・共同の礼拝を持つこと。

— ロ 神がどのように語られるかについて注意深く気付こうとすること。信仰の勇者たちのことを良く読むこと。学ぶこと。研究すること。みことばに耳を傾けること。優れた神のみこころを知る人々に指導を受けることです。

— ハ 信仰を持って応答する事。示されたときに信仰を持って応答しなければならない。神は内的な確信をお与えになる。理解の上で正確を欠いても信仰を持って進なら、神は導きの途上で修正してくださるのです。神の目的に添って歩み始めた聖徒たちを導き全うされるからです。これらの前提の基に、私たちが良い行いに関する神の計画を知るように、神は内的な確信を与えられる。

 

2 神はご計画を確信させてくださるために、聖書の指導者たちに4つの経験のタイプをお用いになったのです。

—イ 神への敬虔を経験する。神の臨在の中にいるとき、決して疑い得ないような経験において、将来が語られる。モーセが燃える柴の中から聞いた神の声。パウロがダマスコの途上で聞いた主のみ声。ガブリエルがマリヤを尋ねたこと。ヨセフの見た夢。ヨシュアに現れた主の使いなどです。

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ロ 間接的経験 ある人の行動によってあることが自分の身に起こる。ある特定の人に神が私のことを語り、その人が来て私に伝える。サムエルに神が示されてサウロ、ダビデを王様にたてた。ハンナが神と結んだ約束が幼少のサムエルに伝えられ、サムエルは聞きしたがった。バプテスマのヨハネは、父ザカリヤから自分の誕生のときの様子を聞き成長して預言者としての道に歩んだ。

 

ハ 摂理的なもの。 バルナバはキプロス生まれ育ちである。どうして生まれ育った地が大事なのか。バルナバはキプロスで多種類の言語、文化に接して様々な人々に触れていた。バルナバには神が大切に思っておられる品性があった。慰めの子と言われていた。アンテオケの教会がスタートしたとき、キプロスの島の人々がおおく関わっていた。使徒11:20。エルサレムから誰を送ろうか。キプロス出身のバルナバがいる。摂理的な主のお働きである。バルナバの人生の始まりから神は備えておられた。神は今日も同じようになさるのです。

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ニ 神の祝福、ご好意、恵み。 ヨセフ、ダニエル、この二人への周囲の人々が好意をよせた。神がその方と共にいるのが明らかで、その事実によって自分が最終的にどのように歩めばよいかが理解できる。神が共におられること、即ち、主の臨在があること。それを恵というのです。恵はすべての聖徒たちに良き行いをさせます。聖霊の感化を受け、キリストの香りを放つ上で不可欠です。活ける神の臨在は忍耐をもたらし歩みを終わりまで全うさせるのです。

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結び)指導者たちのように、見事に終わりを全うするために、私たちは先ず神の作品であることを自覚し、その存在を、召された召しにふさわしく整え、その上で自分に与えられた良い行いについての神のご計画を知りたいと願い、実行しなければなりません。主イエス・キリストはいつまでも変わることがないから、そのようなクリスチャン生活を全うさせてくださるのです。

 

 

 

 

 

 

 

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