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2018年1月7日 礼拝 説教


 
2018年1月7日 説教 マタイの福音書28章18-20節

「大宣教命令」(主イエスの権威と命令と約束)

序文)元旦礼拝で、大宣教命令の第一部分「主イエスの権威」について学びました。今朝は第二部分「命令」と第三部分「約束」を学びます。

Ⅱ 大宣教命令

「それゆえ」は、主イエス様が全世界的主権の宣言に続く、それゆえ(ですから:新改訳2017)です。では続く言葉は、何かというと、全世界がその主権に伏して従うことでしょう。神の国の民となることでしょう。ですから、続く言葉は全世界的宣教を求めるのです。

それまでは、10:5-6「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。」(新改訳2017)と限定されていた福音宣教が、今や、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と全世界に高く広く命令された。イスラエル人も異邦人も、男も女も、子どもも、大人も、人間すべてを含んでいます。このことは、旧約聖書ですでに預言的に語られていました。「この方(主イエス)に、主権と栄誉と国が与えられた。諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」(ダニエル書7:14)。

「諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、」ですから、世界の果ての隅々まで、そこに人がいるので宣教師は出かけて行って福音を伝えます。それは主イエス・キリストの主権にひれ伏す弟子とするためです。

「弟子と」する方法は、「バプテスマを授け」と「教えること」によってです。イエスの弟子であることに何が含まれるのかといえば、「バプテスマを施されている」ことと、「教えられている」ことです。

バプテスマを授けることは、実はイエス様も宣教の初期に、すでに行なっておられました。「その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとそこに滞在して、バプテスマを授けておられた」(ヨハネ3:22)。バプテスマのヨハネの洗礼は、悔い改めの洗礼でしたが、イエスの洗礼は、洗礼本来の意味でした。実際は、弟子たちが洗礼をしていた。「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったが」(ヨハネ4:2)と断りが書いてあります。でもそれはキリストの定めにしたがって弟子たちが礼典を施しているのは、主ご自身のわざとして行うのですから、主ご自身が施したのと等しいのです。

今、大宣教命令において、主イエス様が弟子たちに、バプテスマを施せと命じておられるのは、まさに主が施しているのと同じ権威から出ているのです。

どのようにしてかというと「父と子と聖霊の名において」施します。

原語(エイス)は「名の中へ」「 in to the name of 」です。これは、文法上所有権の移動を示す前置詞を使っており、「父、子、聖霊の神の手の中に、生きた交わりに入る」ことを示します。神様との結合を示す儀式です。三位一体の神の中に私たちのいのちが結びつくのです。

それで終わりではありません。神の子どもたちとなった者に、主イエスのおしえる権威を引き継いだ弟子たちが、おしえる働きをしなければなりません。洗礼を受けた者たちにおしえる内容は「わたしがあなた方に命じておいたすべてのことを守るように教えなさい」とあります。主イエスが弟子たちに教えられた事を守るようにと教えるのです。単なる知識ではない。守るようにと教えなければならないのです。

それでこそ、主イエスの「弟子とする」ことなのです。教会教育と訓練の必要が命じられています。宣教と教育は教会の事業の両輪です。教会学校や、信徒訓練、クリスチャンライフ学び会、聖書の学びなどは必然であって、自由に希望者だけで良いのではありません。

 

Ⅲ 第三部分「約束」

「見よ。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

約束は「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:20)の追認です。全世界に広がると福音宣教の大命令は、ともにおられる主が先立ちゆかれるのです。弟子たちは、この主と共に派遣されているのです。

この「世の終わりまで、いつもともにいる」という約束は、聖書全体のメッセイジでもあるのです。

旧約聖書の時代に、神は預言者ミカ(紀元前740年代から686年ごろまでの活躍))を通して「主はあなたに告げられた。人よ何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」(6:8)と私たちに語りかけておられます。

何がよいことか知らない時代に、何が求められているか知らない人々に、いつも神が人に求めたもうことは終始一貫して変りなく、「へりくだって神とともに歩むこと」なのです。「ともに歩む」神とともに歩むことです。人とともに歩むことに反対しているわけではありません。神とともに歩むことなしに、正しい方向へと人々とともに歩むことはできないのです。

「ともに歩む」これはただ「一緒にいる」とか、「群れと離れない」という形の上のことではない。「ともに歩む」そこに深い交わりがある。歩むこと自体が喜びである。心の交わり、人格の交わりがある。

「神とともに歩む」=人格的交わりがある。神がこの道を歩めとか、この道には進むなといわれるとき、普段に神とともに歩むことが前提になっている。このことなしにすべてのいましめを聞いてもむなしい。

さて、ともに歩みはじめるときにはきっかけがある。それは人間どうしの場合、微妙なものがある。二人が同じ方向に愛しあってともに歩みはじめるとき、皆さんの始まりはどこで、何がきっかけでしたか。

そのように「神とともに歩む」のもきっかけがある。その交わりに始まりがあります。今、生れつきのままの人間は、神から離れていて、神のご存在も知らずに独りで歩んでいる。実際は神の側から見ると、逆らっている状態である。それで、神は、わたしたちに、ご自分の方からきっかけを与えられた。神が人のいる場に天からおりてくださった。使徒ヨハネが言っているように「ことばは人となって、私たちの間に住われた。私たちはこの方の栄光をみた。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵とまことに満ちておられた。」神様は人とのあいだの平和と交わりを回復するためにお出でくださった。 天の神が、イエス・キリストをこの罪と汚れにみちた地上に降らせ、住わせられた。仮に現われたのでもなく、ちょっと立ち寄ったのでもなくて、人間の中にはいって、人となってくださることにより、すべてを味わい尽くしてくださった。このようにしてご自身の愛を私たちに示してくださった。

「わたしたちとともにいます神となってくださるために。」

人が、この神とともに歩めるようになるために、イエスを遣わされた。それで、この方の名はインマヌ工ル=神がわたしたちとともにおられる=である。

イエス・キリストに従おうとして果たせないものに、すべてをゆるして導いてくださる愛の神がインマヌエルを遣わされた。人は、このイエスのもとに行き、ともなる主を自分の心に宿らせねばならない。

インマヌ工ルの主は「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたとともにいるのである。」(マタイ28:20)といわれた。わたしたちが礼拝するとき、学ぶとき喜びのとき、悲しみのとき、健やかなとき、病めるとき、手術の床にも、回復の日々もともにいますのである。ご自身の血を流していたみ、苦しみを味わわれた主、誤解にも、あざけりにもともにいます主、十字架を負って歩まれた主は、わたしたちのどんな状態にも対応してくださる、ともにいます主であります。もちろん勝利にもともにおられる。一度死なれた主、墓に葬られた主は、わたしたちの死と葬りにもともにおられる。そして、復活の主はわたしたちを栄光の御国にともなってくださるのです。インヌエルの主こそ、すべてのすべて!

 

結び)「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」ヨハネの黙示録21章3−4節

ハレルヤ! 主をほめよ!

 

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