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2018年5月13日 礼拝 説教 マタイ6:9−13 「主の祈りとは(その一)」(録音音声あり)

 

2018年5月13日 マタイ6:9-13 「主の祈りとは」その一

 

序文)主の祈りの中には、祈りのすべての要素が含まれています。崇拝、礼拝と服従、日毎の必要、健全な霊性に対する祈り、礼拝の最後の帰結等です。

主の祈りに用いられている「ことば」の大部分は、旧約聖書の中に見られます。霊感を受けた聖書のことばが、主イエス様の祈りの用語となっています。聖書にある表現を、新しく、組み合わせたり、配列したりして祈られているのです。新約聖書を与えられている現代の私たちは、旧約ばかりでなく当然新約のことばも用いることができます。そして祈りに置いて聖書に精通すればするほど、ごく自然に神様の霊感をうけたことばと思想で正しく祈るようになるのです。聖書の表現を生活の中で血となし肉となしていることから、神様のみこころにそった祈りがささげられて行くのです。

信仰を与えられてからしばらくは、自分の言葉で祈りますが、信仰生活が続いて聖書に親しくふれるに従って正しい思想表現を身につけるようになります。

 

Ⅰ さて、祈りは、はじめに呼びかけることがあります。今回はその呼びかけの大切さをまなびましょう。「天にいます私たちの父よ。」

祈りの始まりは、呼びかけです。どのような状況の中でも、呼びかけから始まります。そして呼びかけは旧約、新約共に非常に簡単です。長々しい呼びかけは美辞麗句となり、それは生き生きとした信仰、生命のたらない事をカバーするような仕業となります。交わりの深さにより、呼びかけは単純となります。もし、自分の子供が、お父さんと言わずに、日本長老教会海浜幕張めぐみ教会 牧師廣橋嘉信さんと呼びかけたらどうでしょう。そんなことはありえないでしょう。同様に私たちは祈るときに、神様に呼びかけるとき、単純に心を込めて呼びかけます。

 

Ⅱ 父よ、私たちの、天にいます

1 イスラエルの民たちは、旧約聖書で育ちました。そこには「神」=「父」として啓示がありました。それで彼らは、契約の神を父と呼んで敬意を払い、親しく信頼を寄せていました。神様がモーセをエジプトの王パロの所に遣わして言わせた言葉が次のとおりです。「そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ』」(出エジプト4:22)。

神様は、イスラエルを「わたしの子」「初子」とよばれている。

申命記32:6では、イスラエルにモーセが歌って聞かせた歌詞に「あなたがたはこのように主に恩を返すのか。愚かで知恵のない民よ。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか。」イスラエルが不信仰に陥ったときに、モーセは創造主である「父」を思い出せと迫りました。

 

2 イエス様は、「アバ」と呼びかけるようにとおしえました。これは、幼子が「パパ」とよぶように、親しみのこもった言い方です。このことにより、祈る人が神様とどのような関係にあるかを自覚するのです。親しく、愛と信頼の交わりにあるお方として、神様をおとうさんと呼びます。どのような確信に立って、お父さんと呼ぶか。ヨハネ1:12「主イエス・キリストにあって、私たちはみな神の子としていただいた。」

 

「お父さん」と呼びかけるとき、主イエス様によって罪赦され、神の子としていただいた自分であることをはっきりと確信します。また、そのように呼びかける事を赦された神様の愛の深さを覚えます。第一ヨハネ3:1「私たちが神の子と呼ばれるために、どんなに大きな愛を父から賜ったことかを、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。」

神様はいつくしみや、憐れみにおいてすべての人をはるかに超えておられるように、愛に置いても、私たちの親よりもはるかに超えておられるのです。

ローマ8:14-15

聖霊の働きにより、お父さんと神を呼ぶことができ、神の子であるという確信に立ちます。私たちは主イエス様にあって、神の子とされたのです。これを聖霊によって体得できるのです。私たちが確信を持って「私の父」「私たちの父」ということができるかが、祈りの出発点です。

「私たちの」主イエス・キリスト様を信じた一同にとって、自分だけが神の子ではないのです。父は私だけの父ではない。私たちの父です。これは信徒一同が兄弟姉妹であることを示します。クリスチャンは皆、同じ神様の子どもたちです。たとえ、人種が違い、言葉も違い、顔の色が違っていても、みな、同じ天におられる神様の子どもです。この共通の家族意識が信仰生活の根本に流れています。

 

Ⅲ 「天にいます」と主は付け加えられました。

それは私たちが持っている、「父」という考えがしばしば低く常に訂正を必要とするからです。パウロが「私たちの主イエス・キリストの父なる神」と呼びかけるのも、同じ点からです。「父」についてこの世では、愛の父という概念を持っていない人々が多くいます。自分の父親の姿を思い浮かべて、それがよい場合はいいのですが、否定的な思いであった場合は、父よ、と祈り始めるのに抵抗があるでしょう。神様は父だけでなく、天におられる父です。主イエス・キリストの父、という呼びかけは、主イエス・キリスト様のような方の父はきっとすばらしい父にちがいない。それでパウロは「主イエス・キリストの父」と呼びかけるのです。では「天にいます」とはどのような「父」をそれはさしているのでしょうか。

 

1 場所、空間をさすのではありません。これは神様の臨在の聖さをさしています。ソロモンは、神殿を奉献するときに、列王上8:27「神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天も、あなたをいれることはできません。ましてわたしが建てたこの宮はなおさらです。」といいました。「天にいます」というのは、この地上におられないが、天のどこかにおられる、というのではないのです。聖い神様ということを教えるのです。人間の父のように、罪や欠点にそまっていない。それ故に、尊敬と敬虔な畏れをもって祈るのです。

 

2 また「天にいます」ということにより、神様の威厳、偉大さ、全能性を示します。その支配を示します。私たちが祈るとき弱さを覚え、心に苦痛を覚えていても、「天にいます」と祈り出すときに、神様がすべてを威厳をもって治めておられる、すべてをご存じで、力に満ち、正しい理解と、愛とをもって、事に臨んでくださることを知るのです。

 

3 天の愛を示します。父としての柔和を示します。

第二コリント1:3「もろもろの憐れみの父、いっさいの慰めの神」

ルカ15:11-32

神様は単に父でありたもうばかりでなく、すべての父たちをはるかに超えてもっとも慈しみ深く、もっとも寛容で、もっとも愛に富まれるのです。キリスト者は、神様をこのような父であると信じているのです。

 

結び)エペソ 3:14-21

 

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