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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | ルカの福音書2章13-14節 |
さ ん び | Opening Praise | 教会福音讃美歌76番「もろびとこぞりて」
日1英1日2,3 |
さ ん び | Praise | 教会福音讃美歌92番「人みな喜び歌い祝え」
1,3,4,5,7 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌75番「静かに眠れるベツレヘムよ」 |
洗礼式 | Baptism | |
聖書朗読 | Scripture Reading | ルカの福音書2章8-12節 |
聖書の話 | Sermon | 「クリスマスの大いなる喜び」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌89番「栄光とわに 王なる御子に」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
21世紀のクリスマスのイメージを持ちながら、1世紀の福音書のクリスマスの説明を読み始めると「いや、全体的に質素というか、、、ラフというか、、汚い?」そんなふうに思うかもしれません。そうなんです。CMや映画で表現する「クリスマス」のイメージークリスマスツリー、サンタクロース、心があったまる雰囲気などーは、出来すぎていると思います。
今日のクリスマスの聖書箇所は、地方で、メーメ―と鳴いている何頭かの臭くて、汚い羊たちに囲まれながら、野宿していて何日もシャワーも浴びていない羊飼いたちから始まります。夜の番なので、暗闇の中で羊泥棒や狼から自分たちの羊が一匹も奪われないように、杖を使って羊たちを見守っていました。中東の荒野の夜の寒さに震えながら、夜明けを待ち遠しく感じていたかもしれません。1世紀のローマ帝国は農業社会でしたが、多くの羊飼いたちは、土地を所有していなかったので、自分たちの家族を支えるために、日雇い労働者として雇われることが多かったのです。つまり、羊飼いは、社会的にも、経済的にも、世の中の底辺にいる人たちでした。しかし、神様は、羊飼いたちを、クリスマスの意味を宣べ伝える人たちとして選ばれました。なぜだと思いますか?クリスマスは「権力のある者を王位から引き降ろし、 低い者を高く引き上げ」る(ルカ1:52)ためにあるからです。クリスマスは、「成功している人」「勝ち組」「エリート」のような人たちのためにあるのではありません。羊臭かったり、夜勤したりして、毎日必死で一生懸命生きている、日雇い労働者の羊飼いたちのような「低い者」のためにあるのです。
さて、突然、「主の使い」が羊飼いたちに現れます。21世紀の「天使」のイメージは、可愛らしいキューピッドかも知れませんが、残念ながら、聖書の「主の使い」はその正反対です。聖書に登場する「主の使い」は、神様のさばきを執行する、恐ろしい存在です。炎の剣で敵を切り落とす存在(創世記3:24)。罪深い町を硫黄と火で滅ぼす存在(創世記18‐19章)。一人で敵軍の18万5千人を打ち殺すことができる存在(2列19:35)。それだけではなく、この羊飼いたちに現れた天使は「主の栄光」で輝いていたのです。暗闇の中で、突然輝かしい存在が現れたという意味はもちろんありますが、「主の栄光」とは、ただまぶしいだけという意味ではありません。イザヤという預言者が主の栄光を見たときに、こう言いました。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、 唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」(イザヤ6:5)そして、旧約聖書を読んでいくと、神様の栄光を見た人は、「ああ、もう終わった。もう死んでしまう。」と必ず思うのです。ですから、羊飼いたちが-原文を直訳するー「大きい恐怖をもって恐れた」ということは当然なのです。むしろ、人間が造った親しみやすいハリウッド映画やジブリ映画のような神様ではなく、聖なる聖なる聖なる聖書の神様と出会った証拠だと考えられます。
しかし、神の裁きを下す御使いは、羊飼いたちにこういいます。
「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。 」(ルカ2:10)
原文のニュアンスをもう少し織り込むと、「大きな喜びをもたらす福音を告げ知らせます」と訳すことができます。つまり、主の使いは、「裁きの宣告」よりも、大きな喜びをもたらす「福音の宣告」をしに来たということです。当時、「福音」というのは、王国が戦に勝利したとか、王家に息子が生まれたと言うような「良い知らせ」のことでしたが、旧約聖書では「良い知らせ」には具体的な意味がありました。イエス様が生まれる約800年前に書かれたイザヤ書という預言書には、「福音」「良い知らせ」を三つの例えやメタファー(比喩)で描いています。この「福音」がどれほど大きなよろこびをもたらすものなのかを感じていただきたいです。
イザヤ40:9-11
9 シオンに良い知らせを伝える者よ、 高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ、 力の限り声をあげよ。 声をあげよ。恐れるな。 ユダの町々に言え。 「見よ、あなたがたの神を。」 10 見よ。神である主は力をもって来られ、 その御腕で統べ治める。 見よ。その報いは主とともにあり、 その報酬は主の御前にある。 11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、 御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、 乳を飲ませる羊を優しく導く。
この預言では、私たちは、自分たちの愚かな判断でさまよってしまった子羊です。草のない荒れた荒野。どこに狼や獅子が隠れているかがわからない。どこにお母さん羊がいるかも全くわからない。完全にパニック状態。そして、そのとき、「見よ、あなたがたの神を。」という「良い知らせ」を聞き、そこに良き羊飼いである神様がおられます!神様は力強い御腕であなたを狼や獅子から守られ、子羊である私たちを緑の牧場へ優しく導かれ、お母さん羊の懐へ引き寄せられます。救いを与える羊飼いは、子羊の大きな喜びですね。
イザヤ52:7-10
良い知らせを伝える人の足は、 山々の上にあって、なんと美しいことか。 平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、 救いを告げ知らせ、 「あなたの神は王であられる」と シオンに言う人の足は。 あなたの見張りの声がする。 彼らは声を張り上げ、ともに喜び歌っている。 彼らは、主がシオンに戻られるのを 目の当たりにするからだ。
この預言では、私たちは、敵軍に囲まれ、食料もなくなり、窮地に追い込まれたエルサレム王国の一人の兵隊と例えられています。夜番の見張り役として、毎晩、望遠鏡で、山々から下ってくる神様からの援護を探しています。そして、なんと、良い知らせを運んで来た主のしもべを見つけます。その良い知らせは、「あなたの神は王であられる!援護軍ではなく、神様ご自身が戻られたのだ!聖なる御腕で敵を倒され、私たちを救い出して下さる!」という福音です。それを聞くときに、どう反応しますか?大きく喜びます!
イザヤ61:1-3
神である主の霊がわたしの上にある。 貧しい人に良い知らせを伝えるため、 心の傷ついた者を癒すため、 主はわたしに油を注ぎ、 わたしを遣わされた。 捕らわれ人には解放を、 囚人には釈放を告げ、 主の恵みの年、 われらの神の復讐の日を告げ、 すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。
この預言では、私たちは、何かに縛られている人々として描かれています。貧困や借金で縛られた人。トラウマと暴力に圧制された人。強制的に捕らわれた奴隷や囚人。悲しみと怒りに束縛されている人。ここでの「良い知らせ」というのは、そのようなことに縛られた人たちを釈放する神様のしもべが来る、ということです。430年もエジプトの奴隷であったイスラエルが、モーセが引き起こした十の災いによって解放したときと同じ「福音」です。神様が神の民を完全に自由にされる、という「良い知らせ」なのです。要するに、御使いたちが羊飼いたちに告げていることは、「神の民が800年も待ち望んでいる「福音」が実現される日がクリスマスです!」ということです。
この「福音」「良い知らせ」を見える形にされたのがお生まれになった「救い主」なのです。長く教会に通っている方々は、「救い主」と聞くと、すぐにイエス様を思い描くと思います。しかし、1世紀にローマ帝国に住んでいた人々は、イエス様の名前を聞いたことはありませんでした。むしろ、ギリシャ語で「救い主」と聞くと、すぐに思い浮かぶのは、当時のローマ帝国の皇帝アウグストゥス(2:1)でした。大英博物館に保管されている、古代ギリシャの都市「ハリカルナッソス」でみつかった石板にこう書いてあります。
アウグストゥスは、父であるゼウスから受け継いだ神聖なる祖国ローマの父であり、民衆の救済者(救い主)である。彼の先見の明は、すべての人々の願いを満たすだけでなく、それを超え、陸と海の平和をもたらし、都市は秩序、調和、そして豊かな季節とともに繁栄している。すべてのものの生産性は良く、最盛期にあり、未来への希望と現在の善意がすべての人を満たしている。そのため、彼らは喜ばしい犠牲と賛歌を捧げるべきである。
つまり、天のみ使いは、次のように告げたのです。当時の世界一強大な王国の皇帝と同様の人物が生まれ、「あなたがた」の救い主になるのです。その方は、「羊飼いたち」のような、社会に無視され、貧しい、低くされた者の救済者です。つまり、最も救いを必要とし、助けを確保できるような手段ーお金や影響力ーもない、弱者たちの救済者なのです。
この「救い主」こそ、「主キリスト」であり、「ダビデの町」でお生まれになるというのです。「主キリスト」というのは、聖書の中で非常に稀な表現です。「主」という言葉は、おもに霊であられる全知全能の神様を指すことばです。それゆえ、聖書では、神様をなんらかの形にしたり、偶像にすることは、固く強く禁じられていました。当然、人間を「主」と呼ぶ事も冒涜に近いものでした。しかし、「キリスト」は、神に選ばれ、油注がれたダビデの子孫である人間の王である事を意味しています。「キリスト」ーヘブル語では「メシア」ーという方は、預言されているイスラエルの王であり、皇帝アウグストゥスのローマ帝国を上回る、「永遠の王国」を建てる王になるという預言もありました(2サムエル7:13,16)。お生まれになる「救い主」、「キリスト」、「メシア」、「ダビデの子孫」を、全知全能の神様と同様の「主」と呼ぶことは、驚きでもあり、耳障りの悪い表現だったと思います。古代では、よく王を「神」として呼んでいましたが、一神教のイスラエル人にとって、それはとんでもない罪でした。
ですから、私たちが信じるためには「しるし」が必要でした。福音書には、非常にダイナミックな奇跡が「しるし」として沢山記されていますが、私たちを信仰に導くために、神様が用意された「しるし」は何でしょう?原文の順序を反映した2:12節をもう一度読みます。「【これ】が、あなたがたのためのしるしです—あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。」ごく普通の「赤ん坊」でした。しかも、皇帝同様の「救い主」が生まれたのは、豪華な王室ではなく、汚くて臭い飼い葉桶です。何の説得力もない「しるし」ですよね!カルヴァンは、「天使は、羊飼いたちの信仰を妨げるかもしれない先入観に直面し」、聖書の神様はあえて説得力のない、「はかないしるし」を選ばれた、と主張されます。なぜなら、私たちが思い描いている福音ではなく、神様の福音を受け入れられるように導くためなのです。
皆さんもご存じかもしれませんが、イスラム教では、イエス様は神様ではありませんが、大事な預言者なのです。そして、イスラム教のコーランでも、新約聖書と同じように、イエス様は、奇跡的に、処女マリアから生まれました。しかし、聖書と違って、コーランでは、ある人たちはマリアが罪を犯してしまったと訴え始めますが、イエス様が預言者であることを証明するために、「しるし」としてある奇跡が起こります。みどりごのイエス様が話し始め、こう宣言するのです。「わたしは、本当にアッラーのしもベです。アッラーは啓典をわたしに与え,またわたしを預言者にされました。」(Maryam 19:30)すごいですよね。しかし、キリスト教の聖書には、そのような事は一切書かれていません。
皮肉だと思いませんか。イスラム教では、イエス様の神性は否定しているのに、イエス様を超能力のある赤ん坊として描いています。しかし、イエス様が神と同様であると宣言している聖書は、あえて「あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます」という一言だけでまとめています。これが聖書に書かれている、質素で、ラフで、汚い、インパクトのない救い主の誕生の様子です。なぜ、神様はもっと栄光に満ちた、わかりやすい、誰でも心引かれるような「救い主の誕生」にされなかったのでしょうか。それに答えるために、皆さんに覚えていただきたいポイントを三つに絞ってお話します。
一つ目のポイント。私たちが思い描いているクリスマスの「良い知らせ」と、聖書のクリスマスが宣べ伝えている「良い知らせ」は、本質的に違う、ということです。
きよい律法学者ではなく、泥臭い羊飼いがクリスマスの最初のメッセンジャーだった事。天の御使いが語ったのは、今まで旧約聖書で聞いていた「裁きの宣告」ではなく、「福音」という良い知らせである事。お生まれになった救い主は、皇帝アウグストゥスの子ではなく、無名のイスラエル人の子であった事。「良い知らせ」を承認するしるしは、インパクトのある奇跡ではなく、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごであった事。じっくり読むと、聖書のクリスマスに語られている「良い知らせ」によって、私たちの先入観、私たちが無意識に持っている期待や希望が浮き彫りにされます。私たちは、それまではまっていた「型」からむしろ解放されていくのです。
「え、クリスマスは私の心があったまるような話を聞く日ではないんですか?」はい、残念ながら、その通りです。しかし、それによって、自分が何を期待しているのかが明らかになります。「心の平安がほしい。」「自分の状況に向き合うための自信がほしい。」「自分を愛してくれる存在がほしい。」「夫婦関係、親子関係を回復してほしい。」「自分の子供の将来を保証してほしい。」「神様が私を祝福してくださる確信がほしい。」神様はその一つ一つを満たすことがおできになりますし、クリスチャンになることによってそのような祝福が与えられます。しかし、クリスマスの「良い知らせ」は、私たちが満たされることではありません。全く別のことです。
もしそうであれば、クリスマスの「良い知らせ」とは何でしょうか?ここで、二つ目のポイントです。神様が質素で、ラフで、汚い、インパクトのない救い主を誕生させられた理由は、誕生した救い主にフォーカスが充てられ、イエス様ご自身が私たちの福音であることをはっきりさせるためなのです。
先ほど、この飼い葉桶に眠っている赤ん坊がイザヤ書の「良い知らせ」を成就する方です、とお話しました。ルカの福音書を読んでいくと、イエス様がどのようにそれを成し遂げられたかが具体的に描かれています。
イエス様は、愚かな判断でさまよってしまった1匹の子羊である私たちを、九十九匹を野に残し、迷子になった私たちを見つけるまで捜し歩き、見つけたら、自分の懐に引き寄せ、肩に担ぎ、私たちを優しく導いてくださる「救い主」です(ルカ15:4-5参照)。窮地に追い込まれて一ひとりごを亡くしたやもめに、イエス様は「泣かなくてもよい」と声をかけられ、死んでいた息子を蘇らせ、母親の元に返された「救い主」です(ルカ7:12-15)。イエス様は、貧困とお金に縛られ、トラウマに苦しめられ、男の欲に束縛された遊女に、それらから解放させるために「良いしらせ」を告げられ、罪の負い目をすべて帳消しにされた「救い主」なのです(ルカ7:42,48参照)。
クリスマスの話は、私たちを羊飼いたちの元には導きません。天の使いや「いと高きところで!」と歌う天の軍勢の元へも導きません。また、ヨセフとマリアの所へも導きません。クリスマスの「良い知らせ」は、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごの元へ私たちを導くのです。そのみどりごが、「あなたがたのため」の「救い主」であり、主キリストがお生まれになったことが、大きな喜びをもたらす「福音」なのです。赤ん坊のイエス様を目の前にして、私たちは大いに喜びましょう!質素な誕生をすることによって、私たちの喜びがどこにあるのかがはっきりされるのです。
イエス様が「卑しく」お生まれになる事には、もう一つの目的があります。それは、クリスマスの福音を聞いて、喜ばない人と、大いに喜ぶ人がはっきりと示される為です。
普通に考えれば、このクリスマスの話を聞くと、「これは馬鹿げた話だな」と思うのは当然かも知れません。その上、イエス様は、私たちの救いのために十字架にかけられ、死んで、三日後に蘇る必要があるのです。そのため、多くの人たちは、イエス様の話とクリスマスの預言を信じず、十字架にかけられたイエス様に、「もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」 と嘲笑い、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」とイエスを嘲ったのです。そして、イエス様が蘇られたとき、それを喜びとして受け入れなかったのです。
しかし、クリスマスの福音を聞いて、羊飼いたちはどう反応しましたか?
「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。 … 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ2:16-20)
最初は、羊飼いたちも疑いました。それでも、彼らは本当かどうか福音を探しに行き、その目で見たのです。ぜひ羊飼いのように、大きな喜びをもたらすみどりごのイエス様を、真剣に探して見てください。きっと、羊飼いの話を聞いた人たちのように、すべて御使いの話のとおりになったことに驚くと思います。そして、あなたも大きな喜びをもって、神をあがめ、賛美しながら帰ることになると確信します。お祈りします。